第80話 小さな秘密が形になる日
新しい年度が始まり、徹たちも中学三年生になりました。
学校生活に恋愛、バンド活動、そして音楽制作。
少しずつ変わっていく日常の中で、徹の夢もまた一歩前へ進んでいきます。
第80話、よろしくお願いします。
四月に入り、長浜家にも新しい生活が始まっていた。
姉の優子は、四月一日からエーストレーディング株式会社に入社し、社会人としての第一歩を踏み出している。
配属先は、同社が運営する靴の販売店『ACE SHOES』だが、現在は新人研修の真っ最中だった。
「ただいまー!」
夕方、玄関から聞き慣れた声が響いた。
居間で本を読んでいた徹は、顔を上げた。
「姉ちゃん、おかえり」
「ただいま。あー、疲れた!」
優子はバッグを置くと、ソファに腰を下ろして大きく息を吐いた。
「研修、大変?」
「大変よ。接客の基本から靴の種類、サイズの合わせ方まで、覚えることが山ほどあるんだから。今日は一日中、説明を聞いてた気がする」
「へえ、そんなに覚えることがあるんだ」
「あるわよ! 靴を売るだけだと思ってたら大間違いなんだから」
そう言いながらも、優子の表情はどこか楽しそうだった。
まだ実際の店舗で働き始めたわけではないが、社会人になったという実感は少しずつ湧いているらしい。
徹はそんな姉の姿を眺めながら、少し不思議な気持ちになっていた。
前世では何度も経験した四月の始まりだったが、今の自分にとっては、また違った意味を持っている。
もうすぐ中学三年生。
受験も近づき、将来について真剣に考えなければならない時期になっていた。
もっとも、徹には以前から考えている目標がある。
いつか自分の芸能プロダクションを設立すること。
その夢に向けて、今できることを一つずつ積み重ねていくつもりだった。
数日後。
新学期を迎えた徹は、昇降口に貼り出されたクラス分けの名簿を眺めていた。
「あっ、長浜くん!」
背後から聞き慣れた声がする。
振り返ると、春樹がこちらへ歩いてきた。
「同じクラスみたいだね」
「本当だ。初めてじゃない?」
「そうだね。三年目にしてようやくだ」
春樹は嬉しそうに笑った。
徹も名簿をもう一度確認する。
春子、こずえ、達也の名前は別のクラスにあった。
五人が四つのクラスに分かれたことになる。
「桐谷さんは残念がりそうだな」
春樹が小さく笑う。
「どうかな。クラスが違っても毎日会えるし」
「ずいぶん余裕があるじゃないか」
「そういう意味じゃないよ」
「分かってるって」
春樹は楽しそうに徹の肩を軽く叩いた。
教室へ向かう廊下には、新しいクラスに一喜一憂する生徒たちの声が響いていた。
誰と同じクラスになったのか。
担任は誰なのか。
そんな話題で賑わう光景は、徹にとって懐かしくもあり、今ではすっかり自分の日常になっていた。
放課後、軽音部の部室へ向かうと、すでに春子たちが集まっていた。
「徹! 春樹と同じクラスなんだって?」
「うん。春子とは離れちゃったね」
「そうなんだよねえ。でも、まあいっか。どうせ放課後は一緒だし!」
春子はあっさり笑った。
その言葉に、達也がにやりとする。
「放課後だけじゃ足りないんじゃないの?」
「何が?」
「いや、別に?」
「達也、変なこと考えてるでしょ!」
春子が睨むと、達也は笑いながらドラムセットの方へ逃げていった。
こずえも小さく笑っている。
春樹は楽譜を取り出しながら、何事もなかったように口を開いた。
「それにしても、三年生になったし、今年は忙しくなりそうだな」
「受験もあるしね」
徹が頷くと、達也が笑った。
「俺たちはそのまま上に行くけど、徹と春樹は大変そうだな」
「だからって、バンドの練習は手を抜かないよ」
春樹が答えると、春子も大きく頷いた。
「当然! そこは譲れないからね!」
その明るさに、徹は思わず笑ってしまった。
春子らしい。
今の彼女は、目の前にある時間を思いきり楽しむことを大切にしている。
徹も、それでいいと思っていた。
これから先のことは、これから考えればいい。
少なくとも、今日という一日まで心配事で埋める必要はなかった。
五人はそれぞれ楽器を手に取り、いつものように練習を始めた。
春樹の歌声に、春子のギターが重なる。
こずえのベースと達也のドラムがリズムを作り、徹は鍵盤に指を滑らせた。
教室も学年も変わった。
それでも、この場所に流れる時間は変わらない。
徹はそんな日常を、心地よく感じていた。
四月も半ばを過ぎた頃。
徹のもとに、木崎鉄平から連絡が入った。
話題は、先月ビスタレコードで参加を依頼された新人アイドルのデビュー曲コンペについてだった。
「実はね、徹くん。制作側で少し方針が変わったんだ」
「方針ですか?」
「当初は明るく親しみやすい、いわゆる王道のアイドルソングを考えていたんだけどね」
木崎は少し言葉を区切った。
「今までと同じことをやっていても、なかなか難しい時代になってきた。だったら、思い切って新しいものに挑戦してみようという話になったんだよ」
「なるほど」
「もちろん、聴く人を置いてきぼりにするような曲では困るけど、印象に残るものが欲しいんだ。少しくらい大胆でも構わない」
徹は受話器を持ち直した。
制作側も攻めに出るつもりらしい。
これまでのアイドル像にとらわれない曲。
そう考えると、前世で耳にしてきたさまざまな音楽が頭の中をよぎった。
ただ、未来の曲をそのまま持ち込むつもりはない。
あくまでも、そこから得た発想を今の時代に合う形へ作り直す必要がある。
「面白そうですね」
「そう言ってもらえると助かるよ。詳しい資料は改めて送るから、徹くんなりに考えてみてほしい」
「分かりました」
電話を切ったあと、徹は机の上に置いたノートを開いた。
新しいグループ。
新しい音楽。
そして、これまでとは違う挑戦。
思いついた言葉をいくつか書き留めたところで、徹はペンを置いた。
まだ急いで形にする段階ではない。
今は、頭の片隅で少しずつ育てていけばいい。
やがて四月が終わり、ゴールデンウィークがやってきた。
徹は春子と約束していた東京ディズニーランドへ出かけた。
舞浜駅を出た途端、春子の表情がぱっと明るくなる。
「わあ! 久しぶり!」
「前にも来たことあるんだよね?」
「うん! 小さい頃は何度か来たんだけど、最近はお父さんもお母さんも忙しくてさ」
春子は遠くに見える建物を指さした。
「あっ、徹! 早く行こう!」
「そんなに急がなくても逃げないよ」
「分かってるけど、早く入りたいんだもん!」
そう言って、春子は徹の手を握った。
徹も笑いながら歩き出す。
東京ディズニーランドを訪れるのは、転生してから初めてだった。
前世では何度か来たことがあるものの、こうして中学生の恋人と手をつないで歩く景色は、まるで違って見える。
二人はアトラクションを楽しみ、昼食を取り、園内をゆっくり歩いた。
春子は何かを見つけるたびに目を輝かせ、そのたびに徹の腕を引っ張った。
帰る頃には二人とも少し疲れていたが、春子は満足そうだった。
「今日、すっごく楽しかった!」
「俺も楽しかったよ」
「また絶対来ようね!」
「うん。また来よう」
夕暮れの空の下、春子は嬉しそうに徹の手を握り直した。
特別な出来事がなくても、好きな人と一緒に過ごすだけで一日がこんなにも楽しくなる。
徹は、そのことを改めて感じていた。
五月に入って数日が過ぎた夜。
夕食を終え、自分の部屋で本を読んでいた徹に、由香里が声をかけた。
「徹、電話よ。葵ちゃんから」
「分かった。今行く」
階段を下り、受話器を取る。
「もしもし、葵?」
『徹くん! 久しぶり!』
耳に飛び込んできたのは、いつもと変わらない明るい声だった。
「久しぶり。元気だった?」
『元気だよ! でも最近、学校も仕事も忙しくてさ。なかなか電話できなかったんだよね』
「そうなんだ。無理してない?」
『大丈夫、大丈夫! それより、今日は徹くんに報告があって電話したの!』
葵の弾んだ声に、徹は自然と笑みを浮かべた。
「何かいいことがあった?」
『うん! 新しいシングルのレコーディング、全部終わったんだよ!』
「そうなんだ。お疲れさま」
『ありがとう! 実は四月の後半には録り終わってたんだけど、そのあともいろいろ忙しくて。やっと落ち着いて電話できたの』
「そっか。それで、どうだった?」
『すっごくよかった! 特にね、徹くんの曲!』
葵の声が一段と明るくなった。
『アレンジがすごく可愛くなってるの! 最初に聴いたとき、私もびっくりしちゃった!』
「へえ、どんな感じになったんだろう」
『それは聴いてからのお楽しみ!』
「教えてくれないんだ」
『だって、先に全部話したらつまらないでしょ?』
電話の向こうで葵が笑った。
徹は、自分の部屋に置いてあるデモテープを思い浮かべた。
あの曲を作ったときは、自分で伴奏を用意し、姉の優子に歌ってもらった。
それがプロの編曲によってどんな姿に変わったのか、まだ想像がつかない。
「楽しみにしてるよ」
『うん! 絶対聴いてね!』
「もちろん。それと葵、前からちゃんと言おうと思ってたんだけど」
『なあに?』
「『恋の素人』のこと、ありがとう」
一瞬、電話の向こうが静かになった。
「木崎さんから聞いたよ。葵がどうしても歌いたいって言ってくれたんだってね」
『……うん』
「葵が気に入ってくれたおかげで、CDに入れてもらえたんだ。本当にありがとう」
少し間を置いて、葵が答えた。
『そんなの、お礼なんていらないよ』
「でも」
『だって、私が歌いたかったんだもん!』
いつもの葵らしい言葉だった。
『徹くんの曲、聴いたときから好きだったの。だから、どうしても歌ってみたかったんだよね』
「そう言ってもらえると嬉しいよ」
『ふふっ。じゃあ、今度は徹くんが完成した曲を聴いて、どう思ったか教えてね!』
「分かった。ちゃんと感想を伝えるよ」
『約束だからね!』
葵はそのあとも、最近の学校のことや仕事のことを楽しそうに話してくれた。
忙しい日々の中でも、友達と過ごす時間を大切にしているらしい。
徹も学校やバンドの近況を話し、二人はしばらく他愛のない会話を楽しんだ。
『それじゃ、そろそろ切るね。明日も朝から仕事なんだ』
「うん。体に気をつけて」
『徹くんもね! じゃあ、また!』
「またね」
受話器を置いたあと、徹はしばらくその場に立っていた。
葵が歌う『恋の素人』。
もう録音は終わり、あとは発売を待つばかりになっている。
自分の部屋で生まれた小さな曲が、少しずつ手の届かない場所へ進んでいるような、不思議な感覚があった。
それから十日ほどが過ぎた。
五月も半ばに差しかかったある日の夕方。
学校から帰宅した徹は、居間のテーブルに置かれた封筒に気づいた。
「徹、これ届いてたわよ」
由香里が台所から声をかける。
封筒には、ビスタレコードの名前が印刷されていた。
「木崎さんからかな」
徹はバッグを置き、封筒を手に取った。
中には短い手紙と、細長いプラスチックケースが入っていた。
如月葵の新しいシングルCDだった。
「……できたんだ」
思わず声が漏れた。
ケースの表には、明るい衣装を着た葵の写真が使われていた。
いつも電話で話している葵とは少し違う、歌手としての華やかな表情。
徹はしばらくジャケットを眺めてから、裏面に目を移した。
一曲目。
『妄想シンドローム』
二曲目。
『One-Sided Romance』
そして三曲目。
『恋の素人』
作詞・作曲 TN
たった二文字の名前。
それでも、その文字を見つけた瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなった。
契約書に署名したときも、曲の採用が決まったときも、もちろん嬉しかった。
けれど、こうして実際のCDを手にすると、喜びの種類が違った。
これは、もう自分の部屋にあるだけの曲ではない。
数日後には店頭に並び、知らない誰かが手に取ることになる。
その誰かが、自分の書いた歌詞を口ずさむかもしれない。
徹はCDを大切に持ち、自分の部屋へ向かった。
プレーヤーにディスクを入れ、まず一曲目から順番に聴いてみる。
木崎が手がけた『妄想シンドローム』は、明るく軽快な曲だった。
葵の元気な歌声がよく似合っている。
二曲目の『One-Sided Romance』は、少し切なさを感じさせる仕上がりだった。
どちらも、十六歳の葵の魅力を引き出そうとしていることが伝わってくる。
そして三曲目。
徹は無意識に姿勢を正した。
軽やかなイントロが流れ始める。
「……へえ」
思わず感心する声が出た。
自分が作ったデモとは、音の広がりがまるで違う。
リズムには弾むような軽快さが加わり、明るい楽器の音が重なっている。
それでいて、メロディーの持つ少し不器用な雰囲気は、きちんと残されていた。
やがて葵の歌声が流れ始める。
徹は目を閉じた。
歌詞の一つ一つを大切にしながらも、どこか楽しそうに歌っている。
『まるで初めて恋に落ちたよな』
『ドキドキ鼓動止まらない』
自分で書いた歌詞なのに、葵の声で聴くと、あの頃の気持ちが鮮やかによみがえってきた。
前世で五十年を生き、恋愛だって経験してきた。それなのに、春子を好きになってからというもの、些細なことで胸が高鳴り、相手の一言に喜んだり、不安になったりしていた。
まるで初めて恋をした少年のように。
そんな自分に、恋の素人かよ、と心の中で突っ込んだことが、この曲のタイトルになったのだ。
あのとき感じていた戸惑いや胸の高鳴りが、今は葵の明るい歌声に乗って流れている。
曲が終わっても、徹はすぐには動かなかった。
葵が電話で言っていた意味が、ようやく分かった気がした。
可愛く仕上がった。
確かに、その通りだった。
しかし、それだけではない。
自分の曲が、誰かの手を借りることで新しい魅力を持った。
そのことが、何より嬉しかった。
「……すごいな」
小さく呟いたとき、階下から玄関の開く音が聞こえた。
「ただいまー!」
優子の声だった。
徹は時計を見た。
仕事を終えて帰ってきたらしい。
そうだ。
この曲を、もう一人聴いてほしい人がいる。
徹はCDを取り出し、階段を下りた。
「姉ちゃん、おかえり」
「ただいま。あー、疲れた!」
優子は居間のソファに腰を下ろし、肩を軽く回していた。
社会人になって一か月半。
最初の頃よりは仕事にも慣れたようだったが、立ち仕事が続く日は足が疲れるらしい。
「仕事、大変?」
「大変よ。靴の種類も覚えなきゃいけないし、お客さんによって足の形も違うし。思ってたよりずっと奥が深いんだから」
「そっか。お疲れさま」
「ありがと。それで、何?」
優子が徹の手元に目を向ける。
「何か持ってるじゃない」
「この前話した、葵のCD。見本が届いたんだ」
「えっ! もうできたの?」
「うん。ちょっと聴いてみない?」
「聴く聴く!」
疲れたと言っていた優子が、急に元気を取り戻した。
徹は居間のCDプレーヤーにディスクを入れた。
「三曲目なんだけど」
「分かった」
曲が始まると、優子は興味深そうに耳を傾けていた。
しかし、イントロが進むにつれて、その表情が変わっていく。
「……あれ?」
優子が首を傾げた。
葵の歌声が流れ始める。
その瞬間、優子は勢いよく徹を振り返った。
「あっ! この曲、私が歌った曲じゃない!」
徹は思わず笑った。
「うん、そうだよ」
「やっぱり! あんたが作ったんじゃん!」
「まあね」
「もう! あのとき聞いても、はっきり教えてくれなかったくせに!」
優子は少し頬を膨らませた。
徹は苦笑する。
あの頃は、まだ春子と付き合う前だった。
自分の気持ちが歌詞に表れていることを、誰かに知られるのが恥ずかしかった。
特に、姉の優子に気づかれたら、何を言われるか分からない。
そんな思いから、詳しい事情を伏せていたのだ。
けれど今は違う。
春子とは恋人になり、バンドの仲間たちにも交際を打ち明けている。
以前ほど、自分の気持ちを知られることが怖くなくなっていた。
「実はさ、あの曲を作ったとき、好きな子がいたんだよ」
「えっ?」
優子の目が丸くなった。
「それって、もしかして……」
「春子だよ」
「春子ちゃん!?」
「うん。今は付き合ってる」
「ええっ!」
優子の声が居間に響いた。
台所にいた由香里が、何事かと顔を覗かせるほどだった。
「ちょっと待って! いつから!?」
「二月十四日から」
「バレンタインじゃない! そんな前から付き合ってたの!?」
「うん」
「もう! そういう大事なことは早く教えなさいよ!」
優子は呆れたように言ったあと、ふと表情を緩めた。
「でも、そういうことだったんだね」
「何が?」
「この曲よ。歌ってるとき、なんだか妙に気持ちが入ってる歌詞だなって思ってたのよ」
徹は少し照れくさくなって、視線をそらした。
「そんなに分かりやすかった?」
「分かるわよ。あんたの姉ちゃんを何年やってると思ってるの?」
優子は得意げに笑った。
そして、もう一度CDに耳を傾ける。
「それにしても、葵ちゃんが歌うと全然違うね。すっごく可愛い」
「うん。俺も驚いたよ」
「アレンジもいいし、ちゃんと売ってるCDの曲って感じがする」
「実際に売るんだけどね」
「分かってるわよ!」
二人で笑った。
曲が終わると、優子はケースを手に取り、収録曲の欄を眺めた。
「これがあんたの名前?」
「TNね。学校の友達には秘密だから、姉ちゃんも言わないでよ」
「分かってるって。それにしても、なんだか不思議ね」
「何が?」
「私がこの曲を歌ったときは、まさか本当にCDになるなんて思ってなかったもの」
「俺も、ここまで来られるとは思ってなかったよ」
徹は素直に頷いた。
「姉ちゃんがデモを歌ってくれたおかげでもあるしね。ありがとう」
「……何よ、急に」
優子は少し驚いた顔をしたあと、照れくさそうに笑った。
「まあ、私も結構うまく歌えてたと思うけどね!」
「うん。姉ちゃんの歌もよかったよ」
「でしょ?」
優子は満足そうに頷いた。
そして、ふと思い出したように徹を見た。
「それにしても、春子ちゃんかあ。よかったじゃない」
「うん」
「ちゃんと大事にしなさいよ」
「分かってるよ」
徹が答えると、優子はしばらく弟の顔を眺めていた。
やがて、大きく息を吐いてソファの背もたれに体を預ける。
「はぁ……私も彼氏ほしー!」
そのあまりにも素直な言葉に、徹は吹き出してしまった。
「姉ちゃん、社会人になったばっかりじゃない」
「だからよ! 仕事は覚えることばっかりだし、帰ったら疲れて寝るだけだし。どこかにいい人いないかなあ」
「そのうち出会いがあるんじゃない?」
「簡単に言ってくれるわねえ。彼女持ちの弟に慰められるなんて、なんか悔しい!」
「そんなつもりじゃないって」
「はいはい。どうせ春子ちゃんと仲良くやってるんでしょ」
優子はそう言って笑い、もう一度CDを再生した。
軽やかなイントロが、居間に広がっていく。
徹はソファに腰を下ろし、姉と並んでその音に耳を傾けた。
好きな人への気持ちを、誰にも知られたくなくて作った曲。
姉に歌ってもらい、小さなカセットテープに収めた曲。
それが今、葵の歌声とともに、一枚のCDになっている。
五月二十日の発売まで、あとわずか。
この曲がどれだけの人に届くのかは、まだ分からない。
それでも徹は、目の前にある小さなCDを眺めながら、胸の奥に静かな喜びが広がっていくのを感じていた。
自分の部屋で生まれた小さな秘密が、もうすぐ誰かの日常に流れ始める。
その日が、少しだけ待ち遠しかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
自分の部屋で生まれた曲が、ついに一枚のCDになりました。
徹にとっても、忘れられない経験になったのではないでしょうか。
物語はここから、また新しい展開へと進んでいきます。
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