第77話 君が何度も恋をする日
自分の作った曲が、ついにCDへ。
夢に向かって一歩を踏み出した徹ですが、春休みにはもう一つ、大切な約束が待っています。
恋人になった春子との、初めてのデート。
二人にとって忘れられない一日が始まります。
三月二十日、金曜日。
居間に入ると、泰造が新聞を畳み、徹の方へ顔を向けた。
「母さんから聞いたぞ。何か大事な話があるんだって?」
「うん。ちょっと報告したいことがあって」
由香里は徹に座るよう促すと、自分も泰造の隣へ腰を下ろした。四月からの就職を控えた優子も、会社から届いた書類を片づけながら顔を上げる。
「何よ、家族会議?」
「そんな大げさなものじゃないよ」
徹は笑って答えたものの、いざ三人を前にすると、少し照れくさくなった。
つい先ほど木崎から聞いた話を、もう一度頭の中で確かめる。何度思い返しても、夢ではないらしい。
「実は、俺が作った曲がCDに収録されることになったんだ」
泰造の眉がぴくりと動いた。
「……CD?」
「うん。さっき木崎さんから電話があって、正式に採用されたって」
「ちょっと待って!」
優子が書類を置いて身を乗り出した。
「徹の曲が、レコード会社から発売されるってこと?」
「そういうことだね」
「ええっ! 本当に!?」
優子の大きな声に、徹は思わず笑ってしまった。
由香里も驚いたように口元へ手を添えている。
「まあ……。それで、さっきはあんなに嬉しそうだったのね」
「うん。俺も、まさか採用されるとは思ってなかったから」
「曲を作っているのは知っていたけど、こんなに早くCDになるなんてね」
由香里は目を細めた。
「よかったわね、徹」
その言葉には、息子が何かを成し遂げたことへの喜びが滲んでいた。
「ありがとう、母さん」
「それで、その曲は誰が歌うんだい?」
泰造が尋ねた。
「葵だよ。如月葵」
「えっ!葵ちゃんが?」
由香里が驚き、優子はさらに目を輝かせた。
「すごいじゃない! 葵ちゃんの新曲ってこと?」
「三曲入りのシングルで、その三曲目に収録されるんだ。メインの曲じゃないけどね」
「三曲目だって立派なことでしょ! 作詞も作曲も徹なの?」
「そうなんだ」
「へえ……」
優子は感心したように弟を眺めた。
「まさか私の弟が作曲家になるなんてねえ」
「まだ一曲採用されただけだって」
徹が苦笑すると、泰造がゆっくり頷いた。
「いや、それでも大したもんだ。よく頑張ったな」
普段はあまり大げさに褒めない父だった。その一言が、徹には何より嬉しかった。
続けて、木崎から伝えられた契約の話を説明した。未成年である徹には保護者の同席が必要で、ビスタレコード本社へ足を運ばなければならない。
「来週の土曜日、二十八日とかどうかな?」
「俺は大丈夫だ」
「私も空けておくわ」
両親の返事を聞き、徹はその日程で木崎に確認することにした。
「ねえ、それでどんな曲なの?」
優子が待ちきれない様子で尋ねた。
「それは発売されてからのお楽しみかな」
「えーっ! ちょっとくらい聴かせてよ」
「ちゃんと発売されたら聴いてもらうから」
優子は不満そうに唇を尖らせた。
徹は笑いながらも、曲名を口にしないよう気をつけていた。
優子は以前、『恋の素人』のデモテープを録音するために歌ってくれている。あのときはキーを合わせ、何度も練習に付き合ってもらった。
曲名を言えば、今回採用されたのが自分の歌った曲だとすぐに分かるだろう。
春子への想いから生まれた歌。
それを姉に知られるのは、やはり気恥ずかしかった。
「それと、みんなにお願いがあるんだけど」
徹が少し真剣な顔になると、三人の視線が集まった。
「CDのこと、家族以外には内緒にしてほしいんだ」
「どうして? せっかくすごいことなのに」
優子が不思議そうに尋ねる。
「学校で騒がれるのも嫌だし、バンドのみんなにも今は知られたくないんだ。曲も、ちょっと個人的な気持ちで作ったものだから」
「ふうん……」
優子は何か言いたそうにしていたが、徹の表情を見て口を閉じた。
「分かったわ。誰にも言わない」
「ありがとう、姉ちゃん」
「その代わり、発売されたら一番に教えてよね」
「もちろん」
由香里と泰造も口外しないと約束してくれた。
家族の笑顔を見渡しながら、徹はようやく肩の力を抜いた。
CDの発売は、まだ少し先のことだ。
けれど、その前にも楽しみにしている予定があった。
春子と、恋人になって初めて出かける約束だった。
三月二十七日、金曜日。
春休みを迎えた池袋駅は、平日の朝から多くの人で賑わっていた。
徹が待ち合わせ場所に着いたのは、約束の午前十時より少し前だった。
人の流れに目を向けると、見慣れた少女が立っている。
淡い色のカーディガンに膝丈のスカート。肩から小さなバッグを掛け、その隣にはカメラのケースが揺れていた。
春子は徹に気づくと、ぱっと表情を明るくした。
「徹!」
「おはよう、春子。待たせた?」
「ううん。私が早く来ちゃっただけ」
駆け寄ってきた春子を見て、徹は微笑んだ。
「今日の服装、すごく似合ってて可愛いよ」
「……そう?」
春子は思わず徹の顔を見つめた。
あれ? 徹って、こんなこと言うんだ。
付き合う前なら、こんなふうに真っすぐ褒められたことはなかった気がする。ところが徹は、特別なことを言ったつもりもないらしく、いつもと変わらない顔で微笑んでいる。
それが妙にくすぐったかった。
「……ありがと」
春子は少しだけ視線を落とし、照れくさそうに笑った。
「じゃあ、行こうか」
徹が自然に手を差し出す。
春子はその手を見て、一瞬だけ動きを止めた。
もちろん、手をつなぐのは初めてではない。
けれど、今日の二人は恋人同士だ。
そう思うと、同じことなのに少し違って感じられた。
春子が手を重ねると、徹は優しく握り返した。
「水族館、楽しみだね」
「うん!」
春子は元気よく頷いた。
サンシャインシティへ向かう道を歩きながら、春子は何度か徹の横顔を盗み見た。
付き合う前の徹は、優しいけれど、どこか慎重だった。
ところが今日は違う。
褒めることも、手をつなぐことも、何のためらいもない。
自分ばかり意識しているようで少し悔しい。それでも、つないだ手を離したいとは思わなかった。
サンシャイン国際水族館に入ると、春子はすぐに目を輝かせた。
「わあ、きれい!」
青く照らされた水槽の中を、色鮮やかな魚たちが泳いでいる。ガラス越しの光が床へ揺らめき、行き交う人々の足元にも水の模様を描いていた。
「徹、見て見て! あの魚、すごくきれいな色!」
「本当だ。あんな色、自然にできるんだから不思議だよね」
春子は水槽に顔を近づけ、しばらく魚の動きを追っていたが、思い出したようにバッグを開けた。
「そうだ、写真撮らなきゃ!」
取り出したのは、小さなコンパクトカメラだった。
「今日はいっぱい撮ろうと思って、持ってきたんだ」
「そうだったんだ」
「だって、付き合ってから初めてのデートだもん。ちゃんと残しておきたいじゃない」
春子は少し照れながら笑った。
徹はその言葉が嬉しくて、思わず彼女の頭を軽く撫でた。
「そっか。じゃあ、いい写真をいっぱい撮ろう」
「うん!」
春子は嬉しそうに頷くと、早速カメラを構えた。
ところが魚は思うように動いてくれない。シャッターを押そうとした瞬間に向きを変えたり、岩陰へ隠れてしまったりする。
「あっ、今だと思ったのに!」
「魚にも都合があるからね」
「もう、徹まで!」
春子は笑いながら、再びファインダーを覗いた。
その横顔は、先ほどまでのはしゃいだ表情とは違っていた。
真剣に魚の動きを追い、光の当たり方を確かめている。徹はそんな春子の姿を、しばらく黙って眺めていた。
やがて二人は、マンボウのいる展示へたどり着いた。
「徹! マンボウだよ!」
春子が嬉しそうに水槽を指差す。
大きく平たい身体をしたマンボウが、ゆったりと水の中を漂っていた。
「なんか、のんびりしてるね」
「見てるだけで眠くなりそうだな」
「ふふっ。徹みたい」
「俺、そんなにのんびりしてる?」
「うん。たまに何考えてるのか分かんないところとか」
「それはマンボウも困るんじゃないかな」
二人は顔を見合わせて笑った。
「ねえ、徹。そこに立って!」
「俺?」
「マンボウと一緒に撮りたいの!」
言われるまま水槽の横へ立つと、春子は楽しそうにカメラを構えた。
「もうちょっと右! そう、そこで笑って!」
「写真って、どうも慣れないんだよな」
「いいから!」
徹が苦笑した瞬間、シャッターが切られた。
「今の、絶対いい顔だった!」
「苦笑いだったと思うけど」
「そういう顔も好きだよ」
春子は何気なく答えたあと、自分の言葉に気づいて少しだけ照れた。
徹はそんな彼女を見て笑った。
「じゃあ、今度は春子を撮らせてよ」
「私?」
「うん。俺も春子の写真が欲しいから」
春子は一瞬驚いたが、すぐに嬉しそうな笑顔になった。
「いいよ! 可愛く撮ってね」
「頑張ります」
徹はカメラを受け取り、春子へ向けた。
春子は少し姿勢を正し、カメラに向かって笑顔を作る。
「そんなに頑張らなくてもいいよ」
「えーっ、せっかく撮ってもらうんだもん」
「いつもの春子がいいな」
その言葉に、春子はふっと肩の力を抜いた。
「……もう、徹ってば」
照れながら笑った瞬間、徹はシャッターを押した。
それからも春子は、水槽の前で何度も足を止めた。
魚だけではなく、光の差し込む場所や、ガラスに映る不思議な模様にもカメラを向けている。
「春子って写真撮るの好きなんだね」
徹が声をかけると、春子は少し不思議そうに振り向いた。
「そうかな?」
「さっきから、すごく楽しそうだから」
春子は手元のカメラを見つめた。
「うーん……。今までも旅行とかで撮ったことはあるけど、今日はなんか違うんだよね」
「違う?」
「うん。きれいだなって思ったものを、そのまま残せたらいいなって」
春子は水槽へ視線を戻した。
「でも、写真にすると、見たとおりにはならないんだよね。難しいなあ」
「そこが面白いのかもしれないね」
「……そうかも」
春子は小さく笑い、またファインダーを覗いた。
屋外ではアシカの姿も楽しんだ。
水の中を軽やかに泳ぐ様子に春子が歓声を上げ、徹もつられて笑ってしまう。
気づけば午前中はあっという間に過ぎていた。
昼食はサンシャインシティの飲食店で取ることにした。
席に着いても春子の話は尽きなかった。
「マンボウ、面白かったね。あんな形なのに、ちゃんと泳いでるんだもん」
「春子、ずっと見てたもんな」
「だって可愛かったんだもん」
春子は楽しそうに笑い、ふと徹の顔を見つめた。
「ねえ、徹」
「ん?」
「今日、楽しい?」
「もちろん。春子と一緒なんだから」
徹は何でもないことのように答えた。
春子はフォークを持つ手を止めた。
まただ。
さっきから徹は、こういうことを平気で言う。
付き合う前は、こんなふうに気持ちを言葉にしてくれることは少なかったのに。
「……徹って、なんか変わったよね」
「そう?」
「うん。前より、ずっと積極的になった気がする」
徹は少し考えてから微笑んだ。
「春子が俺の彼女になってくれたからかな」
「……っ」
春子は慌てて視線を落とした。
「そういうこと、さらっと言わないでよ……」
「嫌だった?」
「……嫌じゃないけどさ」
小さく答えた春子の口元には、隠しきれない笑みが浮かんでいた。
昼食を終えると、二人は館内の店を見て回った。
春子は洋服を見つけるたびに足を止め、徹へ意見を求めた。
「ねえ、これどう思う?」
「春子に似合いそうだね」
「本当? じゃあ、こっちは?」
「こっちもいいけど、さっきの方が春子らしいかな」
「そっか。じゃあ、もうちょっと考えようかな」
春子は楽しそうに服を戻した。
徹はそんな彼女を眺めながら、女の子との買い物は久しぶりだなと思っていた。
前世でも、女性と一緒に洋服を見に行ったことはある。けれど、こんなに一生懸命意見を求められると、こちらまで真剣になってしまう。
春子が欲しいのは、適当な褒め言葉ではない。
自分がどう見えるのか、徹の目で確かめてほしいのだろう。
しばらくすると、春子が男性用の服を扱う店の前で足を止めた。
「あっ、徹! こっち!」
「今度は何?」
「徹の服!」
「俺の?」
「そう! 徹って、あんまり服にこだわらないでしょ?」
「まあ、着られれば何でもいいかな」
「やっぱり!」
春子は嬉しそうに店内へ入っていった。
徹は苦笑しながら後を追う。
前世でも、ファッションに詳しかったわけではない。清潔で動きやすければ十分だと思っていたし、今の時代の流行にもそれほど興味はなかった。
春子はそんな徹の事情など知らず、真剣な顔で服を選び始めた。
「これ、似合いそう!」
手に取ったのは、爽やかな色合いのシャツだった。
「ちょっと着てみてよ」
「試着?」
「うん! 絶対似合うと思うから」
徹は店員に声をかけ、試着室へ入った。
しばらくして姿を見せると、春子は一瞬言葉を失った。
「……わっ」
「どうかな?」
「……格好いい」
「本当?」
「うん! すっごく似合ってる!」
春子は徹の周りを少し回り、嬉しそうに頷いた。
普段の徹も好きだけれど、こうして服装が変わるだけで、いつもより少し大人びて見える。
自分が選んだ服なのに、思わず見とれてしまった。
「やっぱり徹、こういうの似合うんだよ。もっとおしゃれすればいいのに」
「じゃあ、これ買おうかな」
「えっ、いいの?」
「春子が選んでくれたし、俺も気に入ったから」
徹がそう答えると、春子の表情がぱっと明るくなった。
「じゃあ、今度のデートにも着てきてね!」
「もちろん」
何気なく返事をした徹だったが、春子はその言葉にまた胸が温かくなった。
今度のデート。
徹は、これからも自分と一緒に出かけることを当たり前のように考えてくれている。
「……楽しみだな」
「何が?」
「ううん。何でもない!」
春子は笑ってごまかした。
徹は自分のお小遣いからシャツの代金を払い、買い物袋を受け取った。
その後も二人は雑貨店を覗き、春子は小さな写真立てを見つけた。
「これ、可愛い!」
「写真立てか。今日撮った写真を飾るの?」
「うん! いい写真が撮れてたら、これに入れようかなって」
「いいね。どの写真にするの?」
「それは現像してから決める!」
「俺の写真だったら嬉しいな」
「……もう、そんなこと言われたら、徹の写真にしたくなっちゃうじゃん」
春子は照れながら笑うと、写真立てを持ってレジへ向かった。
会計を済ませ、大切そうに買い物袋を受け取る。
「現像するの、楽しみだなあ」
春子は袋を覗き込みながら、嬉しそうに微笑んだ。
夕方になり、二人はもう一度、水族館の屋上へ足を運んだ。
昼間とは違い、空は少しずつ茜色に染まり始めていた。
春子は夕日に照らされた景色へカメラを向けた。
「徹、見て見て。すごくきれい」
「本当だね」
春子は何度か角度を変え、最後の一枚を撮った。
「あっ、終わっちゃった」
「フィルム?」
「うん。でも、今日はいっぱい撮れたから満足!」
「現像したら見せてね」
「もちろん。徹の分も焼き増ししてあげる」
春子は嬉しそうにカメラをケースへ戻した。
そろそろ帰ろうかと話しながら歩いているうちに、二人は人通りの少ない一角へ出た。
特に目的があったわけではない。ただ、少し遠回りをしただけだった。
「……あれ? こっち、人がいないね」
春子が辺りを見回す。
「そうだね。少し休んでいこうか」
「うん。いっぱい歩いたし」
二人は近くにあった低い段差へ腰を下ろした。
昼間の賑わいが嘘のように、辺りは静かだった。遠くから聞こえる人の声も、ここまではぼんやりとしか届かない。
「疲れたね」
春子が小さく笑った。
「うん。でも、楽しかった」
「私も」
春子は嬉しそうに微笑むと、暮れかけた空へ目を向けた。
徹も隣で空を眺めていた。
会話が途切れても、不思議と気まずさはなかった。ただ肩を並べているだけで、心地よかった。
しばらくして、春子が何気なく顔を向けた。
同じとき、徹も彼女を見た。
不意に、二人の目が合った。
「……目、閉じて」
気づけば、徹はそう口にしていた。
キスをしようと考えていたわけではない。ただ、目の前の春子が愛おしくて、言葉が自然とこぼれていた。
春子は一瞬だけ驚いたように徹を見つめ、それから静かに瞼を閉じた。
徹はそっと顔を近づけた。
唇が、軽く触れ合った。
ほんの一瞬だった。
離れると、春子はゆっくり目を開けた。
徹と目が合い、少し恥ずかしそうに笑う。
「……今日は徹からだったね」
「うん」
春子は何も言わず、そっと徹の肩に頭を預けた。
徹もそのまま動かず、彼女の温もりを感じていた。
夕暮れの空が、少しずつ色を変えていった。
やがて立ち上がると、春子が自分から徹の手を握った。
「ねえ、徹。またデートしようね」
「もちろん。次はどこへ行こうか」
「どこでもいいよ。徹と一緒なら」
「じゃあ、今度は俺が考えておくよ」
「楽しみにしてる!」
春子は満面の笑みを浮かべた。
帰り道、二人の手はずっとつながれたままだった。
春子のバッグには、今日撮った写真のフィルムと、小さな写真立てが入っている。
まだどんな写真が撮れているのかは分からない。
けれど春子には、たった一つだけ確かなことがあった。
今日という日を、きっといつまでも忘れない。
初めての彼氏と過ごした、初めての一日。
そして、何度も何度も、徹のことを好きになった一日だった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
恋人になって初めてのデート。
これまでとは少し違う徹の言葉や仕草に、春子は何度も胸をときめかせることになりました。
二人の恋と、少しずつ動き始めた未来。これからも温かく見守っていただけると嬉しいです。
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