第76話 新しい春への第一歩
三月を迎え、少しずつ春の気配が近づいてきました。
三年生を送る会、春休みの約束、そして新しい生活への準備。
そんな穏やかな日々の中、徹のもとに思いがけない知らせが届きます。
第76話、よろしくお願いします。
三月十三日、金曜日。
体育館には、いつもとは違う華やかな空気が流れていた。
今日は三年生を送る会。卒業を間近に控えた先輩たちへ、在校生が感謝の気持ちを伝える日だった。
ステージの袖では、DIGITAL FANTASYの五人が出番を待っていた。
「なんか、文化祭のときより緊張するな」
達也がドラムスティックを握り直しながら呟いた。
「……私も、少し」
こずえが小さな声で答えた。ベースのストラップを直しながら、落ち着かない様子でステージの方を見つめている。
「大丈夫だって! あれだけ練習したんだから」
春子が明るく声をかけた。
「春子は緊張しないのかよ?」
「するよ。でも、楽しみの方が大きいかな」
その言葉に、こずえも小さく頷いた。
「……うん。楽しみ」
以前のこずえなら、緊張していることさえ口にできなかったかもしれない。
けれど今は、仲間たちの前で少しずつ自分の気持ちを伝えられるようになっていた。
そんな中、春樹だけは静かにサックスの状態を確認していた。
ここ二か月ほど、春樹は驚くほど熱心に練習を続けていた。以前は難しかった音のつながりも滑らかになり、音そのものにも力強さが増している。
「春樹、今日は期待してるよ」
徹が声をかけると、春樹は顔を上げた。
「期待されると困るんだけどな」
「でも、自信はあるんでしょ?」
「まあ、前よりはね」
控えめな返事だったが、その表情には確かな手応えが感じられた。
やがて、司会の生徒がバンド名を紹介する。
五人は顔を見合わせ、ステージへと歩き出した。
演奏が始まると、体育館の空気が一変した。
達也のドラムがリズムを刻み、こずえのベースがそれを支える。春子のギターが軽快に響き、徹のキーボードが音に広がりを与えていく。
そして、春樹のサックスが加わった。
以前とは明らかに違う、伸びやかで力強い音だった。
その音色が体育館いっぱいに響くと、客席から歓声が上がった。
徹は鍵盤を弾きながら、思わず春樹に目を向けた。
春樹は夢中になって演奏している。
その姿を見て、徹も自然と笑顔になった。
演奏が終わると、大きな拍手が五人を包んだ。
文化祭ほどの熱狂ではなかったものの、三年生たちは楽しそうに手を叩いてくれている。
ステージを降りた達也が、大きく息を吐いた。
「あぁー終わったぁ!」
「お疲れさま」
こずえが小さな声で言い、ほっとしたように微笑んだ。
「春樹、すごく良かった!」
春子が声をかけると、春樹は照れくさそうに頭をかいた。
「まだまだだけどね」
「いや、本当に良かったよ」
徹がそう言うと、春樹は嬉しそうに笑った。
「ありがとう。これからもっともっと練習するよ」
その言葉に、徹は小さく頷いた。
春樹の努力を見ていると、自分も負けていられないと思う。
音楽でも、勉強でも。
互いに刺激し合える友人がいることを、徹はありがたく感じていた。
その日の放課後。
片づけを終えた五人は校門で別れ、徹と春子はいつもの道を並んで歩いていた。
三月も半ばになり、夕方の風には少しずつ春の暖かさが混じり始めている。
「今日、楽しかったね」
春子が弾むような声で言った。
「うん。いい演奏ができたと思う」
「春樹、本当に上手くなったよね」
「毎日練習してたからね。努力した分だけ音に出てるよ」
「徹も負けてられないね」
「そうだね」
そんな話をしながら歩いていると、春子がふと周囲を見回した。
少し先には人通りの少ない道が続いている。
春子は徹との距離を詰めると、そっと手を伸ばした。
指先が触れ、やがて二人の手が重なる。
徹が隣を見ると、春子は前を向いたまま、少しだけ頬を赤くしていた。
「……どうしたの?」
「別に。手、つなぎたくなっただけ」
「そっか」
「嫌?」
「そんなわけないよ」
徹が握り返すと、春子は嬉しそうに笑った。
付き合い始めてから、もうすぐ一か月。
つい先日、二人は初めてキスをした。
あの日以来、春子と目が合うだけで、徹は時々あの夕暮れの光景を思い出してしまう。
不思議なものだった。
前世では五十年を生き、恋愛だって経験してきた。それなのに、十四歳の今、こうして手をつないで歩いているだけで胸が温かくなる。
春子も同じなのだろうか。
そう思っていると、春子が口を開いた。
「ねえ、徹。春休みって、何か予定ある?」
「今のところ、特にはないかな」
「じゃあさ、どこか遊びに行こうよ。二人で」
「いいね。どこに行きたい?」
「うーん……映画もいいし、買い物もしたいし」
春子は楽しそうに考え込んだ。
「でも、どこでもいいかな」
「どこでも?」
「うん。徹と一緒なら」
あまりにも自然に言われて、徹は返事に困ってしまった。
春子はそんな徹の顔を覗き込み、いたずらっぽく笑った。
「照れてる?」
「……少しね」
「ふふっ。徹って、そういうところ可愛いよね」
「春子にはかなわないな」
そう答えると、春子は満足そうに徹の手を握り直した。
夕陽に照らされた二人の影が、道の上に長く伸びている。
春休みが待ち遠しい。
徹は心からそう思った。
それから数日が過ぎた。
三月も下旬に近づき、長浜家では新しい生活に向けた準備が少しずつ始まっていた。
その日の夕食後、居間では優子が買ってきたばかりの靴を箱から取り出していた。
「ねえ、これどう思う?」
優子が見せたのは、落ち着いたデザインの黒い革靴だった。
「仕事用?」
徹が尋ねると、優子は頷いた。
「そう。会社から届いた案内を見て、仕事でも履けそうなのを選んできたの」
高校を卒業した優子は、この春、エーストレーディング株式会社に就職することが決まっていた。
勤務先は、靴の販売店『ACE SHOES』。
以前、徹と一緒に店舗を訪れ、働いている店員の話を聞いたことが、優子にとって大きなきっかけになっていた。
「いいんじゃない? でも、一日中立ってるんだから、履きやすさも大事だよ」
「分かってるわよ。ちゃんと試し履きしたんだから」
「それなら安心だね」
徹が笑うと、優子は靴を箱へ戻した。
隣で見ていた由香里が、優しく声をかける。
「通勤の準備もしておかないとね。電車の時間は調べたの?」
「うん。乗り換えも確認したし、定期券も買いに行くつもり」
「初日は少し早めに出た方がいいわね」
「分かってるってば。お母さん、最近そればっかり」
優子が苦笑すると、由香里も笑った。
「だって、心配なんだもの」
その様子を見ながら、徹は少し不思議な気持ちになっていた。
ついこの間まで高校生だった姉が、もう社会人になる。
自分が紹介した会社とはいえ、そこで働くと決めたのは優子自身だった。
「姉ちゃん、楽しみにしてる?」
徹が尋ねると、優子は少し考えてから答えた。
「もちろん楽しみだよ。でも、やっぱり緊張もするかな。ちゃんと仕事を覚えられるか分からないし」
「最初から何でもできる人はいないよ」
「徹に言われると、なんか悔しいんだけど」
「なんで?」
「だって、あんたは何でも簡単にできそうなんだもん」
優子が口を尖らせると、徹は笑って首を振った。
「そんなことないよ。僕だって知らないことはたくさんあるし」
「本当かなぁ」
疑わしそうな優子の声に、由香里が吹き出した。
家族の笑い声が居間に広がる。
徹はその温かな光景を眺めながら、春が近づいていることを実感していた。
優子は社会人に。
自分は中学三年生に。
それぞれが、少しずつ新しい場所へ進んでいく。
そして三月二十日、金曜日。
夕食を終え、自分の部屋で本を読んでいた徹は、階下から聞こえてきた由香里の声に顔を上げた。
「徹、電話よ。木崎さんから!」
その名前を聞いた瞬間、徹の胸が小さく跳ねた。
木崎鉄平。
ビスタレコードと契約し、葵の楽曲制作を手がけている音楽プロデューサーだった。
数週間前、木崎からリード曲の選考結果を聞いている。
DIGITAL FANTASYで作った曲も、徹が一人で作った『恋の素人』も、残念ながら選ばれなかった。
それでも木崎は、徹の曲を面白いと言ってくれた。
あの言葉は、今でも嬉しく覚えている。
何か別の用事だろうか。
徹は階段を下り、受話器を手に取った。
「お電話代わりました。長浜です」
『こんばんは、長浜くん。木崎です。今、少し時間は大丈夫かな?』
「はい。大丈夫です」
『よかった。実はね、今日は君に知らせたいことがあって電話したんだ』
木崎の声は、いつもどおり穏やかだった。
しかし、どこか楽しそうにも聞こえる。
『前に応募してもらった曲のこと、覚えているよね?』
「もちろんです」
『その中の『恋の素人』なんだけどね』
徹は思わず受話器を握り直した。
『今回の葵ちゃんのシングルに、収録することが正式に決まったんだよ』
「……え?」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
「収録、ですか?」
『そう。リード曲ではないけれど、追加収録曲として採用することになったんだ』
「本当ですか?」
『もちろん。本当だよ』
徹はしばらく声を出せなかった。
選考に落ちた時点で、今回の話は終わったものだと思っていた。
それなのに、自分の曲が葵のCDに収録されるという。
「……ありがとうございます!」
ようやく出てきた言葉は、それだけだった。
電話の向こうで、木崎が柔らかく笑った。
『喜んでもらえてよかった。ただね、今回の決定には少し事情があってね』
「事情、ですか?」
『実は、葵ちゃんがどうしても『恋の素人』を歌いたいと言ってくれたんだ』
「葵が……?」
徹は驚いた。
葵が自分の曲を気に入ってくれていたことは知っている。
以前、電話で話したときにも、温かい言葉をかけてくれた。
だが、そこまで強く希望してくれていたとは思わなかった。
『リード曲が決まったあと、葵ちゃんが僕のところへ来てね。あの曲を歌わせてほしいと頼まれたんだよ』
「そうだったんですね……」
『一度だけじゃないんだ。何度も相談に来てくれてね。どうしても歌いたいという気持ちが、よく伝わってきたんだ』
木崎はそこで少し言葉を切った。
『徹くんも知っていると思うけど、葵ちゃんは今、決して順調な状況じゃない』
「……はい」
徹の脳裏に、病室で見た葵の姿が浮かんだ。
いつも明るく振る舞っている葵が、疲れ切った顔でベッドに横たわっていた。
あのとき、徹は思っていた以上に葵が無理をしていたことを知った。
『今回のシングルは、あの子にとって大きな勝負なんだ。結果が出なければ、次のチャンスがあるとは限らない』
木崎の声が、少しだけ真剣なものに変わった。
『だからこそ、僕も慎重になっていた。少しでも多くの人に聴いてもらえる曲を選ばなければならないからね』
徹は黙って耳を傾けた。
『でもね、そんな状況でも、葵ちゃんは自分が歌いたい曲をはっきり伝えてくれたんだ』
木崎の声に、温かさが戻った。
『僕はそれが嬉しかったな。あの子には、これからも歌うことを好きでいてほしい。自分が本当に歌いたいと思える歌を、歌わせてあげたかったんだよ』
「木崎さん……」
『もちろん、それだけで決めたわけじゃない。僕自身、君の曲には魅力があると思っていたからね』
木崎は続けた。
『それでビスタレコードの制作担当者にも相談して、何度か話し合ったんだ。制作費のこともあるし、曲を一つ増やすのは簡単な話じゃないからね』
「そうですよね……」
『でも、最終的には認めてもらえた。今回は三曲入りのシングルとして発売することになったんだよ』
徹は胸の奥が熱くなるのを感じた。
葵が自分の曲を歌いたいと願ってくれた。
木崎も、その願いをかなえようと動いてくれた。
そして、レコード会社まで説得してくれた。
自分の知らないところで、そこまでのことが起きていたのだ。
「本当に、ありがとうございます。葵にも、お礼を言わないと」
『うん。きっと喜ぶと思うよ』
木崎は少し笑ってから、話を続けた。
『それと、今回のシングルについて説明しておくね。リード曲は僕が作った『妄想シンドローム』。二曲目が三谷和美さんの『One-Sided Romance』。そして三曲目に、君の『恋の素人』を収録する予定だよ』
「三曲目ですね」
『そう。それから、作詞・作曲者の名義なんだけど、どうしたい? 本名でもペンネームでも構わないよ』
徹は少し考えた。
自分の名前を大きく出したいわけではない。
ただ、自分の作った曲が誰かに届けば、それで十分だった。
ふと、前世でよく耳にした音楽プロデューサーの呼び名が頭に浮かんだ。
TK。
小室哲哉のイニシャルから生まれた、二文字の呼び名だった。
それなら、自分もイニシャルを使えばいい。
「TNという名前でお願いできますか?」
『TNだね。分かった。その名義で進めよう』
「ありがとうございます」
『それから、もう一つ大事な話があるんだ』
木崎の声が、少し改まった。
『正式に収録が決まったから、楽曲の使用や権利について契約を交わす必要があるんだよ』
「契約、ですか?」
『そう。徹くんはまだ未成年だからね。ご両親にも内容を確認してもらって、同意をいただく必要があるんだ』
徹は頷いた。
曲を作って応募することと、それが実際に商品になることは違う。
当然、必要な手続きもあるのだろう。
『春休みに入ってからで構わないんだけど、一度ご両親と一緒にビスタレコードの本社へ来てもらえないかな?』
「はい。両親に相談してみます」
『ありがとう。日時はご両親の都合を聞いてから決めよう。僕も本社で待っているからね』
「分かりました。よろしくお願いします」
『契約の詳しい説明は、ビスタレコードの担当者からしてもらうことになると思う。分からないことがあれば、遠慮なく聞いてほしい』
「はい」
『長浜くん』
「はい?」
『改めて、おめでとう。君の曲が、初めてCDになるんだ』
その言葉を聞いた瞬間、徹はようやく実感が湧いてきた。
自分の部屋で、誰にも聴かせるつもりもなく書き始めた歌詞。
春子との恋をきっかけに生まれた、小さな曲。
それが、葵の歌声に乗って世の中へ送り出される。
「……ありがとうございます。まだ、なんだか信じられません」
『ははは。そうだろうね。でも、これからもっと実感することになると思うよ』
木崎の声には、どこか楽しげな響きがあった。
『それじゃあ、また連絡するね』
「はい。よろしくお願いします」
徹は受話器を置いた。
しばらく、その場から動けなかった。
自分の曲がCDになる。
それも、葵が歌ってくれる。
胸の奥から、じわじわと喜びが込み上げてきた。
「徹?」
振り向くと、由香里が台所から顔を覗かせていた。
「木崎さんから何のお話だったの?」
徹は母の顔を見た。
そして、自然と笑みがこぼれた。
「母さん。ちょっと、父さんも呼んでもらえる?」
「あら、どうしたの?」
「二人に話したいことがあるんだ」
由香里は不思議そうに首を傾げたが、徹の表情を見て微笑んだ。
「分かったわ。お父さん、居間にいるから」
徹はもう一度、電話機に目を向けた。
つい先ほどまで、遠い世界の出来事だと思っていたことが、突然自分の現実になった。
十四歳の自分が、作詞家として、作曲家として、初めて世の中に名前を残す。
もっとも、その名前は長浜徹ではない。
TN。
たった二文字の、小さな名前だった。
それでも構わなかった。
自分の作った歌を、葵が歌ってくれる。
今は、そのことが何より嬉しかった。
徹は弾む気持ちを抑えながら、家族の待つ居間へと向かった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
一度は選考から外れた『恋の素人』でしたが、葵の強い想いと木崎の尽力によって、CDへの収録が決まりました。
春子への恋心から生まれた曲を、葵が歌うことになる。
それぞれの想いが重なる中、徹は音楽の世界へ新たな一歩を踏み出します。
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