第75話 それぞれの想い
三月に入り、少しずつ春の気配が感じられるようになりました。
三年生を送る会に向けて練習を重ねるDIGITAL FANTASY。そして、付き合い始めた徹と春子の関係にも、小さな変化が訪れます。
一方、退院して仕事に復帰した葵は、ある想いを胸に秘めていました。
それぞれの気持ちが動き始める第75話です。
三月五日、木曜日。
二月の終わりから続いていた寒さも、三月に入って少しずつ和らぎ始めていた。
校庭を吹き抜ける風にはまだ冬の冷たさが残っているものの、日差しの中には春の気配が感じられる。
徹にとって、この二週間ほどは穏やかな日々だった。
二月十四日のバレンタインデーに春子と付き合い始めてから、二人の関係は少しずつ変わっていた。
もっとも、学校では今までとほとんど変わらない。
同じクラスの友人として話し、放課後はバンドの仲間と練習する。交際していることは、まだ誰にも話していなかった。
それでも、帰り道で二人きりになると、春子は自然に徹の手を握るようになった。
最初は少し戸惑った徹も、今ではその温かさを当たり前のように感じ始めている。
一方で、気になっていることもあった。
葵のことだ。
二月十七日に病院で会って以来、葵の方から電話がかかってこなくなった。
退院後は仕事にも復帰したと聞いているし、徹が電話をかければ、いつもの明るい声で応じてくれる。
『もう大丈夫だよ! 徹くんは心配しすぎ!』
そう言って笑う声も、以前と変わらないように思えた。
ただ、何かが違う。
以前なら葵の方から他愛のない話を始め、気がつけば長電話になっていた。それが最近は、用事が済むと葵の方から電話を終わらせることが多い。
徹は少し気になっていたが、無理に理由を尋ねることはしなかった。
倒れるほど無理をしていたのだから、まだ体調が万全ではないのかもしれない。それに、新曲の制作も控えている。
今はそっとしておいた方がいいのだろう。
徹はそう考えていた。
その日の放課後。
音楽室には、DIGITAL FANTASYの五人が集まっていた。
三月十三日に予定されている三年生を送る会で、彼らは演奏することになっている。
卒業する先輩たちに向けた最後の演奏ということもあり、いつも以上に練習には熱が入っていた。
「じゃあ、もう一回、最初から合わせようか」
徹が声をかけると、達也がスティックを軽く打ち鳴らした。
「いつでもいいぜ!」
「達也、今度は走らないでよ」
こずえが笑いながら注意する。
「走ってねえって!」
「さっき、最後の方でちょっと速くなってたよ」
「……気のせいだって」
「私も速かったと思う」
春子まで加わると、達也は不満そうに口を尖らせた。
「三対一かよ。春樹、お前はどう思う?」
「僕も少し速かったと思うけど」
「全員敵じゃねえか!」
音楽室に笑い声が広がった。
こうしたやり取りも、五人にとってはすっかり日常になっている。
やがて達也がカウントを取り、演奏が始まった。
ドラムとベースがリズムを刻み、春子のギターが重なる。徹はキーボードを弾きながら、全体の音を確かめていた。
そして、春樹のサックスが入る。
その音を聞いた徹は、思わず顔を上げた。
以前に比べて、明らかに音が安定している。
息の使い方も滑らかになり、音のつながりに余裕が感じられた。
演奏を終えると、徹は真っ先に春樹へ声をかけた。
「春樹、サックスすごくよくなったな」
「本当?」
「うん。前よりずっと音が伸びてる」
「よかった。毎日練習してる甲斐があったよ」
春樹は照れくさそうに笑った。
「学校でも家でも、時間を見つけては練習してたんだ。なかなか思うように音が出なくて大変だったけど」
サックスを始めてから、およそ二か月。春樹は毎日のように練習を重ねてきた。思いどおりに吹けずに悩むこともあったが、少しずつ音が安定し、ようやく自分でも上達を実感できるようになっていた。
「先輩たちに聴いてもらうんだから、少しでも上手くなりたくて」
「いいじゃん! 今日の春樹、かなり格好よかったぞ!」
達也が肩を叩くと、春樹は嬉しそうに頷いた。
徹はそんな仲間たちを見ながら、自然と笑みを浮かべていた。
プロの音楽家と比べれば、まだまだ未熟なバンドだ。
それでも、五人で音を重ねるたびに、少しずつ成長していることが分かる。
その時間が、徹は好きだった。
練習が終わる頃には、窓の外が夕焼けに染まり始めていた。
「徹、今日、一緒に帰れる?」
楽器を片づけていた徹に、春子が声をかけてきた。
「うん、大丈夫だよ」
「じゃあ、ちょっと寄り道しない?」
春子は楽しそうに笑った。
その表情を見ただけで、徹には断る理由などなかった。
校門を出た二人は、いつもの帰り道を途中で外れ、住宅街の奥へと歩いていった。
緩やかな坂を上った先には、小さな空き地がある。
周囲には背の低い木々が並び、そこからは遠くの街並みと、沈みかけた夕日がよく見えた。
人通りもほとんどなく、二人でゆっくり話すにはちょうどいい場所だった。
空き地の端には、古い木製のベンチが置かれていた。
二人はそこに腰を下ろし、ゆっくりと沈んでいく夕日を眺めた。
「ここ、やっぱりきれいだね」
春子が夕日を見つめながら言った。
「うん。こんな場所があったなんて知らなかったよ」
「私も最近見つけたんだ。徹と一緒に来たいなって思ってたの」
「そっか。ありがとう」
春子がそっと徹の手を握った。
徹もその手を握り返す。
付き合い始めてから、まだ三週間ほどしか経っていない。それなのに、こうして隣にいることが不思議なほど自然に感じられた。
しばらく二人で夕日を眺めていると、春子が徹の肩を軽く叩いた。
「ねえ、徹。ちょっとこっち向いて」
「ん? どうした?」
徹が横を向いた瞬間、春子が顔を近づけた。
唇に柔らかな感触が触れる。
ほんの一瞬の出来事だった。
「……え?」
「ふふっ。びっくりした?」
いたずらっぽく笑う春子だったが、その頬は夕日のせいだけではないほど赤くなっていた。
「……そりゃ、びっくりするよ」
「だって、徹からはしてくれそうにないんだもん」
徹は返す言葉を失った。
まさか、十四歳でファーストキスをするとは。
前世の黒沢恒一としての人生を思えば、考えられないことだった。
しかも、春子の方から。
徹が思わず笑みを浮かべると、春子は少し不安そうに顔を覗き込んだ。
「……嫌だった?」
「そんなことないよ。びっくりしただけ」
「本当?」
「うん。嬉しかったよ」
その言葉を聞いた春子は、ほっとしたように笑った。
「よかった」
そして、もう一度徹の手を握る。
二人は肩を寄せ合いながら、夕日が街の向こうへ沈んでいくのを眺めていた。
その日の夜。
夕食を終えて自分の部屋に戻った徹は、机に向かっていた。
三年生を送る会で演奏する曲の確認をしていると、階下から由香里の声が聞こえてきた。
「徹! 電話よ!」
「はーい!」
徹はノートを閉じ、階段を下りた。
「もしもし、長浜です」
『長浜くんかい? 木崎です』
「あ、木崎さん。こんばんは」
『こんばんは。こんな時間にすまないね』
「いえ、大丈夫です」
木崎鉄平からの電話だった。
その声を聞いた瞬間、徹は何の用件なのか察した。
『例のコンペなんだけど、結果が出たんだ』
「はい」
『先に結論から言うと、残念ながら今回は二曲ともメイン曲には選ばれなかった』
「……そうですか」
徹は受話器を握り直した。
覚悟していた結果ではある。それでも、実際に落選を告げられると、やはり悔しさが残った。
『ただ、二曲とも最後までしっかり聴かせてもらったよ。特に君が一人で作った曲は、なかなか面白かった』
「ありがとうございます」
『今回は葵の次のシングルに何が合うかという判断だからね。曲そのものが悪かったということではないよ』
「はい。分かっています」
『君たちのバンドの曲も、いい経験になったんじゃないかな』
「そうですね。みんなで作るのは楽しかったです」
『それならよかった。また機会があれば、ぜひ挑戦してほしい』
「はい。ありがとうございました」
電話を切った徹は、しばらく受話器を見つめていた。
残念ではあるが、挑戦したことに後悔はなかった。
自分たちの曲をプロに聴いてもらい、評価も聞くことができた。
今回の経験を、次につなげていけばいい。
三月六日、金曜日。
教室に入った徹は、先に登校していた春子に声をかけられた。
「徹、おはよう!」
「おはよう。そうだ、昨日の夜、木崎さんから電話があったんだ」
「えっ! もしかして、コンペの結果?」
「うん。残念だけど、今回は選ばれなかったよ」
「そっかあ……残念だったね」
春子は少し肩を落としたが、すぐに顔を上げた。
「でも、ちゃんと聴いてもらえたんだよね?」
「うん。木崎さんがそう言ってた」
「だったら、よかったじゃない。私たち、まだ中学生なんだし」
そこへ達也とこずえもやって来た。
「何の話してんだ?」
「コンペの結果が出たんだって」
「マジで!? どうだった?」
「残念ながら、メイン曲には選ばれなかったよ」
「そっかあ。駄目だったか」
達也が少し残念そうに肩を落とした。
「まあ、そんな簡単にはいかないよね」
こずえも苦笑する。
「でも、みんなで曲を作るのは楽しかったし、いい経験になったよ」
徹がそう言うと、達也も顔を上げた。
「よし! じゃあ次はもっといい曲を作ろうぜ!」
「その前に、三年生を送る会でしょ」
春子が笑う。
「分かってるって! 今度こそテンポも完璧にしてやるよ!」
「今度こそって、自分でも速かったって認めてるじゃない」
こずえの突っ込みに、また笑い声が広がった。
その後、休み時間になってから、徹は別のクラスにいる春樹にも結果を伝えた。
「そっか。残念だったね」
「うん。でも、いい経験になったと思うよ」
「僕もそう思う。またみんなで作りたいね」
「もちろん」
「今度はサックスがもっと目立つ曲もいいな」
春樹が少し照れくさそうに笑った。
「それも面白そうだね」
徹はそんな仲間たちの言葉を思い返しながら、今回の挑戦が無駄ではなかったことを改めて感じていた。
結果こそ出なかったが、何かを失ったわけではない。
むしろ、五人で音楽を続けていく理由が、一つ増えたような気がした。
その夜、徹は葵に電話をかけた。
コンペの結果を伝えるためでもあったが、最近の様子が気になっていたこともある。
何度か呼び出し音が鳴ったあと、聞き慣れた女性の声が返ってきた。
『はい、もしもし』
「こんばんは、長浜です。葵さん、いますか?」
『徹くんね。ちょっと待っててね』
「はい、お願いします」
受話器の向こうから、寮母が葵を呼ぶ声が聞こえた。
しばらくすると、足音が近づいてくる。
『もしもし? 徹くん?』
「うん、こんばんは。今、大丈夫?」
『大丈夫だよ! ちょうど休んでたところ』
「仕事、忙しい?」
『まあね。でも、前みたいに無理はしてないから安心して』
「それならよかった」
葵は明るく笑った。
電話越しに聞く声は、いつもの葵だった。
「そうだ。今日は報告があってさ」
『報告? 何?』
「この前のコンペなんだけど、結果が出たんだ」
『……うん』
「残念ながら、二曲ともメイン曲には選ばれなかった」
受話器の向こうで、葵が少し黙った。
『……そっか。残念だったね』
「うん。でも、プロの人たちに聴いてもらえただけでもよかったよ」
『うん。そうだよね』
葵はすでに、その結果を木崎から聞いていた。
どの曲が選ばれたのかも知っている。
それでも、徹には初めて聞いたように答えた。
自分が結果を知っていると話せば、徹は余計なことを気にするかもしれない。
それに今は、徹の声をもう少し聞いていたかった。
『でもね、徹くん』
「ん?」
『私は好きだったよ。徹くんの曲』
「ありがとう」
『本当だよ? すごくいい曲だと思ったんだから』
「うん。葵にそう言ってもらえると嬉しいよ」
徹の声は、いつもと変わらず優しかった。
その優しさが嬉しくて、少しだけ苦しい。
『……また曲を作ったら、聴かせてね』
「もちろん。今度はもっといい曲を作るよ」
『うん。楽しみにしてる』
そのあと二人は、学校や仕事のことを少しだけ話した。
徹が三年生を送る会で演奏すると伝えると、葵は楽しそうに笑った。
『いいなあ。私も聴きに行きたい』
「仕事があるでしょ?」
『そうなんだけどね。徹くんたちの演奏、また聴きたいな』
「いつか機会があったらね」
『うん。約束だよ』
やがて葵が、明日の朝は早いのだと話した。
「それなら、もう寝た方がいいよ」
『そうだね。徹くんも、ちゃんと寝るんだよ?』
「それはこっちの台詞だよ」
『あはは! そうだった!』
久しぶりに聞いた、葵らしい笑い声だった。
徹は少し安心した。
「じゃあ、おやすみ」
『うん。おやすみ、徹くん』
電話が切れた。
葵はしばらく受話器を見つめていた。
部屋には、時計の針が進む音だけが響いている。
徹と話せたことは嬉しかった。
けれど、以前のように何も考えず笑うことは、もうできなかった。
春子と付き合い始めた徹。
その事実を思い出すたびに、胸の奥が小さく痛む。
それでも、いつまでも立ち止まっているわけにはいかない。
葵はゆっくりと立ち上がり、机の上に置かれたカセットテープへ視線を向けた。
徹が届けてくれた、二曲入りのカセットテープ。
そのうちの一曲が、どうしても忘れられなかった。
葵はカセットテープを手に取り、指先でそっとなぞった。
「……やっぱり、好きだな」
小さく呟いた言葉が、静かな部屋に溶けていく。
それが曲への想いなのか、それとも別の想いなのか。
今の葵には、簡単に切り離すことなどできなかった。
けれど、確かなことが一つだけあった。
自分には、どうしても叶えたい夢がある。
葵はカセットテープを胸元に引き寄せ、静かに目を閉じた。
そして葵は、ある決心をする。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
徹と春子の恋が少しずつ進展する一方で、葵は自分の気持ちと向き合おうとしています。
そして、コンペの結果を受けて葵が下した決断とは……。
次回、第76話では、その決意が新たな展開へとつながっていきます。
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