第73話 届かない声
突然倒れてしまった葵。
電話の向こうで起きた出来事に、徹の不安は募るばかり。
大切な人を失う怖さを知っている徹は、何を思うのか。
第73話『届かない声』、お楽しみください。
「如月葵さんの検査結果ですが……脳腫瘍です」
白衣を着た医師の言葉に、俺は耳を疑った。
「……今、何て言いました?」
「脳腫瘍です」
聞き間違いではなかった。
頭の中が真っ白になる。目の前にいる医師の顔が、急に遠くなったように感じた。
脳腫瘍。
その病名を、俺は誰よりもよく知っている。
前世の俺、黒沢恒一の命を奪った病気。そして去年、母さんの由香里を苦しめた病気でもあった。
成功率一割。
母さんの手術を前に告げられた数字が、今でも忘れられない。
どうして葵まで。
石丸家の血を引く人間には、頭の病気で倒れる者が多い。以前、おじいちゃんから聞かされた話が頭をよぎった。
それに、葵には不思議な力がある。
未来の出来事を感じ取る、石丸家に伝わるあの力が。
『見えすぎる人間は、壊れやすい』
おじいちゃんの言葉が耳の奥で響いた。
「……日下部先生は?」
俺は医師に詰め寄った。
「日下部先生に診てもらえませんか? 母さんの手術をしてくれた先生なんです!」
あの先生なら、きっと何とかしてくれる。
母さんだって助かったんだ。
「お願いします! 日下部先生に連絡してください!」
ところが、医師は何も答えなかった。
ただ黙って俺を見つめている。
「先生!」
その瞬間、周囲の景色が変わった。
気づくと、俺は薄暗い病室に立っていた。
さっきまで目の前にいた医師はいない。窓の外も真っ暗で、静かな部屋には心電図の電子音だけが響いていた。
ベッドには葵が横たわっている。
「葵……?」
近づくと、葵がゆっくり目を開けた。
「……徹くん」
「よかった。葵、聞いて。日下部先生にお願いするから。母さんを助けてくれた先生なんだ。きっと葵も……」
葵は小さく首を振った。
「ごめんね、徹くん」
「何が?」
「私、もう駄目みたい……」
「何言ってるの。大丈夫だよ」
手を伸ばした。
けれど、指先が葵の手に触れる直前、その姿が薄くなり始めた。
「……葵?」
まるで霧が晴れていくように、葵の身体が透けていく。
「待って。どこに行くの?」
「徹くん……ありがとう」
「嫌だ! まだ歌いたいんだろ? 俺の曲だって、まだ聴いてないじゃないか!」
必死に手を伸ばしても、何もつかめない。
葵が寂しそうに微笑んだ。
そして、消えた。
「葵ーっ!」
「長浜!」
突然、別の声が飛び込んできた。
「……え?」
目を開けると、目の前には黒板があった。
教壇には教師が立ち、教室中の視線が俺に集まっている。
「長浜、どうした?」
「……先生?」
「先生はここにいるぞ。誰を呼んでたんだ?」
その言葉をきっかけに、教室が笑いに包まれた。
俺はようやく、自分が机に突っ伏して眠っていたことに気づいた。
「す、すみません」
「お前が授業中に居眠りとは珍しいな。それに、ずいぶん大きな声だったぞ」
また笑いが起こる。
顔が熱くなった。
けれど、恥ずかしさよりも、胸の奥に残る恐怖の方が大きかった。
夢だった。
葵が脳腫瘍だと言われたのも、目の前から消えたのも、全部。
それでも、最後に見た葵の寂しそうな笑顔が、頭から離れなかった。
「顔色が悪いな。具合でも悪いのか?」
「いえ……大丈夫です」
「そうか。なら、あと少し頑張れ」
教師はそう言って授業を再開した。
俺は教科書へ視線を戻したが、黒板の文字はほとんど頭に入ってこなかった。
昨夜のことを思い出していた。
葵との電話が突然途切れた、あの瞬間からのことを。
電話の向こうで何かが倒れる音がして、寮母さんの悲鳴が聞こえた。
何度名前を呼んでも、葵から返事はなかった。
「徹くん! 葵ちゃんが倒れたの! 救急車を呼ぶから、一度電話を切るわね!」
「分かりました! お願いします!」
電話が切れた。
俺は受話器を握りしめたまま、しばらく動けなかった。
何が起きたのか分からない。ただ、葵が倒れたという事実だけが、頭の中を何度も駆け巡っていた。
それからどれくらい経っただろう。
ようやく電話が鳴った。
慌てて受話器を取ると、寮母さんだった。
「徹くん、葵ちゃんは救急車で病院に運ばれたわ。搬送先が分かったから連絡したの」
葵が以前、寮の連絡帳に書いていた俺の家の電話番号を見て、かけてくれたらしい。
俺は病院の名前を聞き、すぐに母さんを起こした。
「母さん、葵が倒れた!」
事情を聞いた母さんは、驚きながらも落ち着いていた。
「徹、まず病院へ行きましょう。着替えてきなさい」
その言葉に従って部屋へ戻ったとき、机の上に置いてあったカセットが目に入った。
明日、葵に聴かせる約束をしていた二曲。
俺はそれを手に取り、鞄に入れた。
母さんとタクシーで病院へ向かう間、ほとんど会話はなかった。
夜の東京を流れていく街灯を眺めながら、俺は何度も同じことを考えていた。
石丸家の血。
前世の俺の死。
母さんの脳腫瘍。
そして、蔵で見つけた少女の絵。
あの絵の少女と同じ顔をした葵が、今、病院に運ばれている。
偶然だと考えようとしても、嫌な想像ばかりが浮かんできた。
「徹」
隣に座る母さんが、そっと俺の手に触れた。
「まだ何も分かっていないんだから、悪い方に考えすぎちゃ駄目よ」
「……うん」
「葵ちゃんはきっと大丈夫だから」
母さんの声は優しかった。
去年、命に関わる手術を受けた母さんだからこそ、その言葉には重みがあった。
病院に着くと、寮母さんが待っていた。
葵は検査を受け、病室に移されたところだった。
医師の説明では、極度の疲労や睡眠不足、脱水などが考えられるという。今のところ検査で明らかな重大異常は確認されていないものの、倒れたあと反応が乏しいため、引き続き慎重に経過を見ているとのことだった。
ひとまず命に差し迫った危険はないと聞いて、少しだけ胸を撫で下ろした。
けれど、葵はまだ目を覚ましていなかった。
面会はできず、俺たちは病室の外から様子を確認することしかできなかった。
静かに眠る葵を見ていると、胸が苦しくなった。
つい数時間前、電話であんなに元気に話していたのに。
もっと歌いたい。
次のシングルを何とか成功させたい。
そう言っていた葵が、今はベッドの上で眠っている。
「……無理してたんだな」
俺の呟きに、母さんが静かに頷いた。
「頑張り屋さんだからね。でも、今は休むことが一番よ」
俺は鞄からカセットを取り出した。
「これ、葵に渡したかったんだ」
「曲ができたって言ってたものね」
「うん。今日、聴かせる約束だったんだ」
カセットを見つめていると、母さんが言った。
「何か一言、書いてあげたら?」
「……そうだね」
母さんが看護婦さんに尋ねると、紙とペンを貸してもらえた。
俺は待合室の椅子に腰を下ろし、葵への言葉を考えた。
『葵へ
突然倒れたから、本当にびっくりしたよ。
約束していた曲を置いていくね。
でも、今は仕事のことも歌のことも忘れて、ゆっくり休んでほしい。
元気になったら、感想を聞かせてね。
また会いに来るから。
徹』
書き終えた紙を折り、カセットと一緒に寮母さんへ預けた。
寮母さんは、必ず葵に渡すと約束してくれた。
病院を出た頃には、日付が変わってずいぶん経っていた。
家に帰って布団に入っても、なかなか眠れなかった。
ようやく眠れたと思ったら、あの悪夢だ。
我ながら情けない。
けれど、葵が消えてしまう夢だけは、二度と見たくなかった。
そんなことを考えているうちに、授業終了のチャイムが鳴った。
「起立!」
号令に合わせて立ち上がる。
教師が教室を出ていくと、さっそく達也が近づいてきた。
「おいおい徹! お前、さっきの何だったんだよ!」
「……忘れてくれ」
「無理だろ! あんな大声で叫んでたんだから!」
達也が腹を抱えて笑う。
そこへ春子もやってきた。
「本当にびっくりしたよ。徹が居眠りなんて珍しいね」
「ちょっと寝不足でさ」
「達也なら分かるけど、徹が寝るなんて思わなかった」
「おい! なんで俺なんだよ!」
「だって、よく寝てるじゃん」
「最近はちゃんと起きてるだろ!」
「最近は、ね」
春子が笑う。
俺もつられて笑ったが、彼女はすぐに俺の顔を覗き込んだ。
「でも、本当に大丈夫? 顔色、あんまりよくないよ」
「うん。ちょっと嫌な夢を見ただけだから」
「……葵ちゃんの?」
春子の声が少し小さくなった。
俺は頷いた。
「うん」
その瞬間、春子の笑顔がわずかに曇った。
付き合い始めて、まだ三日。
ようやく徹の彼女になれたばかりなのに、授業中に彼が必死に叫んだのは、自分ではなく葵の名前だった。
もちろん、夢に誰が出てくるかなんて選べない。
それでも、胸の奥に小さな引っかかりが残ってしまう。
「……どんな夢だったの?」
春子はなるべく普段通りの声で尋ねた。
「葵が病気で死んじゃう夢」
「えっ?」
春子の表情が変わる。
「実は昨日の夜、葵が倒れたんだ。電話してる途中で」
「葵ちゃんが!?」
思わず声が大きくなり、春子は慌てて口元を押さえた。
俺は昨夜の出来事を説明した。
母さんと病院へ行ったこと。検査では今のところ重大な異常は見つかっていないこと。それでも、俺が帰るときにはまだ目を覚ましていなかったこと。
春子は真剣な顔で聞いていた。
「……そうだったんだ」
「だから、ちょっと心配でさ」
「それなら、あんな夢を見るのも仕方ないよ」
春子はほっとしたように息をついた。
徹が葵の名前を叫んだ理由は分かった。
けれど、どれほど心配していたら、夢の中であんな声を出すのだろう。
そんなことも考えてしまう。
「なあ、葵ちゃん、大丈夫なんだよな?」
達也も心配そうに聞いてきた。
「うん。今のところは。ただ、まだ眠ってたから」
「そっか……早く元気になるといいな」
普段はふざけてばかりの達也も、さすがに真面目な顔をしていた。
そのとき、春子が何かを決めたように口を開いた。
「ねえ、徹」
「ん?」
「今日の放課後、私も一緒にお見舞いに行っていい?」
「もちろん。葵も喜ぶと思うよ」
「……うん」
春子は微笑んだ。
葵が心配なのは本当だった。
バンドのみんなで作った曲を、誰よりも楽しみにしてくれていた人なのだから。
ただ、それだけではないことも、自分では何となく分かっていた。
徹の隣にいたい。
今は、その気持ちがいつもより少し強かった。
放課後。
俺と春子は学校を出て、葵が入院している病院へ向かった。
病院までの道すがら、春子は何度も葵の様子を尋ねてきた。
「葵ちゃん、昨日も仕事だったんだよね?」
「うん。朝からずっと忙しかったみたい」
「最近、あんまり休めてなかったのかな」
「そうだと思う。次のシングルのことも気にしてたし」
「そっか……」
春子は少し考えてから言った。
「私たちの曲、早く聴いてほしいね」
「うん。だからカセットを置いてきたんだ」
「そうなの?」
「手紙も一緒にね。目を覚ましたら聴いてくれると思う」
「気に入ってくれるといいな」
春子は嬉しそうに笑った。
俺は頷きながら、鞄の肩紐を握り直した。
昨夜、葵に預けたカセットには二曲入っている。
バンドのみんなで作った曲と、俺が一人で作った『恋の素人』。
後者については、まだ春子に話していない。
春子への気持ちがきっかけになった曲だけに、どう説明すればいいのか、少し迷っていた。
病院に着くと、受付で面会について尋ねた。
すると、思いがけず嬉しい知らせが返ってきた。
葵は午前中に目を覚ましていたのだという。
「本当ですか?」
思わず聞き返してしまった。
病棟でも確認すると、今は受け答えができており、引き続き休養と検査のため入院しているとのことだった。
胸の奥に詰まっていたものが、ようやく少しほどけた気がした。
「よかったね、徹!」
春子も嬉しそうだった。
「うん。本当によかった」
面会の許可をもらい、俺たちは病室へ向かった。
廊下を歩きながら、昨夜の光景を思い出す。
あのときは、葵がいつ目を覚ますのかも分からなかった。
今はもう、話ができるという。
それだけで、昨日とは景色まで違って見えた。
病室の扉を静かに開ける。
葵はベッドでよく眠っていた。
けれど、昨夜よりも顔色がよく見える。呼吸も穏やかで、苦しそうな様子はなかった。
「……寝てるね」
春子が小声で言った。
「うん。まだ疲れてるんだろうね」
起こさないように、そっとベッドのそばへ近づく。
そこで、俺はサイドテーブルに目を留めた。
看護婦さんから借りた紙に書いた手紙が置かれている。
折り目のついた紙は広げられ、その上には見覚えのあるカセットのケースが重ねられていた。
そして、その隣には小さなラジカセがある。
透明な窓の向こうに、一本のカセットが入っていた。
ラベルの文字までは見えない。
けれど、あのケースは間違いなく俺が持ってきたものだった。
「……聴いてくれたんだ」
「え?」
「ほら、あのカセット」
春子もテーブルへ目を向けた。
「あ、本当だ!」
小声なのに、嬉しさが伝わってくる。
「どうだったんだろうね、私たちの曲」
「さあ。でも、早く感想を聞きたいな」
「うん。私も!」
春子は葵の寝顔を見つめた。
歌手として頑張っている葵。
徹がずっと応援してきた女の子。
自分も応援したいと思っている相手なのに、さっき教室で聞いた徹の叫び声を思い出すと、少しだけ胸が落ち着かなくなる。
そんな自分を、春子は少し恥ずかしく思った。
今は葵が元気でいることを喜ぶべきなのに。
「……徹」
「ん?」
「本当によかったね」
春子はそう言って微笑んだ。
「うん。ありがとう、一緒に来てくれて」
俺がそう答えると、春子は少し照れたように笑った。
そのときだった。
ベッドの方から、小さな衣擦れの音が聞こえた。
振り向くと、葵がゆっくりとまぶたを開けていた。
まだ眠そうな目で天井を見つめ、それからこちらへ顔を向ける。
俺と目が合った。
葵は一瞬、不思議そうな顔をした。
そして、かすかに微笑んだ。
「……徹くん?」
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
葵の無事を知り、ようやく胸を撫で下ろした徹。
しかし、そんな徹の姿を見て、春子の心には少し複雑な感情も芽生えているようです。
付き合い始めたばかりの二人。そして、何も知らない葵。
次回、三人の関係にちょっとした変化が訪れるかもしれません。
引き続き応援していただけると嬉しいです!




