第72話 もっと歌いたい
チョコと一緒に入っていた、葵からの手紙。
そこには、徹の知らなかった葵の気持ちが綴られていました。
「……手紙?」
徹は小さな封筒を手にしたまま、しばらく眺めていた。
表に書かれているのは、『徹くんへ』という短い文字だけ。
間違いなく葵の字だった。
チョコだけでも十分だったのに、手紙まで入っているとは思わなかった。
徹は椅子に座ると、封筒を裏返した。
きちんと封がされている。
少しだけ緊張しながら、それを開いた。
中には一枚の便箋が折り畳まれていた。
広げる。
『徹くんへ
一日遅れちゃってごめんね。
本当は昨日渡したかったんだけど、仕事で行けませんでした。
それとね。
徹くんに聞いてほしいことがあるの。
次のシングルで結果が出なかったら、もう歌を中心にはやらせてもらえないかもしれないの。
事務所の人から、これからはバラエティとかグラビアの仕事を増やしていくことも考えてるって言われた。
もちろん、仕事をもらえるのは嬉しいよ。
テレビに出るのも楽しいし、雑誌の仕事も嫌いじゃない。
でもね。
私、歌手になりたくてこの世界に入ったの。
もっと歌いたい。
まだ歌手として何もできてないのに、このまま歌えなくなっちゃうのかなって考えると、ちょっと怖い。
だから、徹くんが曲を作ってくれるって聞いたとき、すごく嬉しかった。
どんな曲になるのかなって、ずっと楽しみにしてる。
徹くんの曲、私が歌えたらいいな。
葵』
最後まで読み終えても、徹はすぐには便箋を畳めなかった。
「葵……」
そんな話は一度も聞いたことがなかった。
テレビの仕事が増えた。
雑誌の撮影がある。
忙しくなってきた。
そんな話をするとき、葵はいつも楽しそうだった。
実際、それが嘘だったわけではないのだろう。
ただ、その裏でこんなことを考えていたとは知らなかった。
徹はもう一度、手紙へ視線を落とした。
『もっと歌いたい』
その一文が、妙に胸に残った。
昨日、葵は徹の家へ来るまで、曲が完成していることさえ知らなかった。
当然、この手紙を書いたときも知らない。
だから玄関で、
『もう送ったよ』
そう伝えた瞬間、あんなに驚いたのだ。
『二曲?』
『聴きたい!』
あのときの葵の表情が浮かぶ。
「そういうことだったのか……」
徹は机の端に置いてあるカセットへ目を向けた。
送る前にダビングして残しておいた二曲。
プロの作曲家たちが参加するコンペだ。
自分の曲が選ばれる保証なんて、どこにもない。
それでも。
今までとは少しだけ、その二本のカセットの存在が違って見えた。
翌日。
二月十六日、日曜日。
朝食を終えた徹は、自分の部屋へ戻って机に向かっていた。
参考書を開き、問題を解いていく。
普段ならそれほど時間はかからない。
ところが今日は、同じところで何度も手が止まった。
気づけば鉛筆を持ったまま、窓の外を見ている。
「……駄目だな」
参考書を閉じた。
昨日の手紙が頭から離れない。
あれだけ明るい葵が、「ちょっと怖い」と書いていた。
もしかしたら、自分が思っている以上に悩んでいるのかもしれない。
徹は少し迷ったあと、立ち上がった。
一階へ下り、電話の受話器を取る。
もう何度もかけた番号だった。
番号を押し、呼び出し音を聞く。
やがて相手が出た。
『はい』
「もしもし、長浜です」
すぐに声が明るくなった。
『あら、徹くん』
寮母だった。
何度も電話をかけているうちに、すっかり声を覚えられている。
『葵ちゃんなら今、仕事でいないわよ』
「やっぱり仕事ですか」
『ええ。朝から出かけて行ったわ』
「そうですか……」
『今日は帰るのも遅くなるんじゃないかしら』
「分かりました」
『何か伝えておこうか?』
徹は少し考えた。
「じゃあ、電話があったって伝えてもらえますか?」
『ええ。帰ってきたら伝えておくわね』
「ありがとうございます」
受話器を置いた。
「朝から仕事か……」
日曜日なのに大変だ。
徹は部屋へ戻った。
もう一度参考書を開いてみる。
だが、やはり集中できない。
しばらく問題を解いたあと、今度はレコードをかけた。
ベッドに腰掛けて音楽を聴く。
好きな曲のはずなのに、気づけば一曲終わっていた。
ほとんど耳に入っていない。
徹はため息をついて、ベッドへ倒れ込んだ。
天井を見上げる。
(そんなに悩んでたのかな……)
昨日の葵はいつも通りだった。
笑っていた。
二曲できたと聞けば目を輝かせ、早く聴きたいと言っていた。
それなのに、あの手紙には「怖い」と書かれていた。
徹は起き上がると、もう一度手紙を手に取った。
『私、歌手になりたくてこの世界に入ったの』
『もっと歌いたい』
何度読んでも、その言葉が引っかかった。
テレビに出られる。
雑誌にも載る。
仕事も増えている。
芸能人として見れば、順調なのかもしれない。
それでも葵にとっては、それだけでは駄目なのだ。
歌いたい。
歌手でいたい。
徹は手紙を丁寧に畳み、封筒へ戻した。
曲はもう送った。
あとは選ぶ側が決めることだ。
今さら自分にできることはほとんどない。
だからこそ、落ち着かなかった。
その夜。
徹は自分の部屋で本を読んでいた。
時計の針は十一時を回ろうとしている。
さすがに今日はもう電話はないだろう。
そう思い始めたころだった。
一階から電話のベルが聞こえた。
徹は反射的に本を閉じた。
少しして、由香里の声がする。
「徹ー、電話よ」
「誰?」
「葵ちゃん」
徹はすぐに部屋を出た。
階段を下り、受話器を受け取る。
「もしもし?」
『徹くん?』
聞き慣れた声だった。
「葵」
『今日、電話くれたんだって?』
「うん。寮母さんから聞いた?」
『帰ったらすぐ教えてくれたよ』
徹は時計を見る。
「今帰ったの?」
『ちょっと前かな』
「こんな時間まで仕事だったんだ。お疲れさま」
『ありがとう。今日は長かったー』
電話の向こうから聞こえる葵の声は、思っていたよりずっと明るかった。
「今日は何の仕事だったの?」
『朝から雑誌の撮影。お昼から打ち合わせして、それからまたいろいろ』
「一日中じゃん」
『そうだよ。でもね、いい話もあったの』
「何?」
『近いうちにライブイベントに出られるかもしれないの』
「ライブ?」
『うん。まだ正式には決まってないけどね。何組か出るイベントがあるみたいで、今日その話もしたの』
声だけでも、葵が嬉しそうなのが分かる。
「決まるといいね」
『うん! やっぱり人前で歌いたいし』
その言葉に、徹は昨日の手紙を思い出した。
『それに来月には新曲の選考もあるからね』
「来月なんだ」
『そうみたい。楽しみ』
「俺はちょっと緊張するけど」
『なんで徹くんが緊張するの?』
「プロの人もいっぱい曲を出してるんでしょ?」
『大丈夫。木崎さんに徹くんの曲、念入りに推しとくよ』
「それっていいの?」
『いいのいいの』
「ほんとかな」
『じゃあ、ちょっとだけ推す』
「結局推すんだ」
『だって歌いたいもん』
葵が笑う。
つられて徹も笑った。
思っていたより元気そうだ。
それだけで、朝から胸の奥にあったものが少し軽くなった。
ただ、聞いておきたいことは残っていた。
「葵」
『ん?』
「チョコありがとうね。手紙も読んだよ」
一瞬だけ、電話の向こうが静かになった。
『……うん』
「今日電話したのも、手紙の内容が気になったから」
『そうだったの?』
「うん」
また少し間が空く。
今度の葵の声は、さっきより少し小さかった。
『気にしてくれてたんだ』
「そりゃああんなこと書いてあったら、気になるよ」
『……嬉しい』
その一言に、徹は何と返せばいいか分からなかった。
『でも大丈夫だよ』
「うん」
『次、なんとかしてみせるから』
明るい声だった。
本当にそう思っているのかもしれない。
もしかしたら強がっているのかもしれない。
徹には分からなかった。
ただ、昨日までよりは葵の気持ちが少し分かった気がした。
怖くても、まだ歌いたい。
歌手を諦めるつもりはない。
その気持ちだけは本物なのだろう。
「葵、近いうちに仕事が休みの日ある?」
『休み?』
「うん。曲、聴いてほしいんだ」
『二曲とも?』
「もちろん」
『聴きたい!』
昨日と同じ答えがすぐに返ってきた。
徹は思わず笑う。
「選考で落ちたら、葵に聴いてもらう機会もないかもしれないし。結果が出る前に、葵には聴いてほしいんだ」
『うん。私も聴きたい』
「自分で言うのも変だけど、いい曲ができたと思ってる」
『ほんと?』
「うん。プロの人たちの曲には敵わないかもしれない。でも、今の自分にできることは出せたと思ってるから」
『そんなこと言われたら、もっと楽しみになる』
「期待しすぎないでよ」
『もう遅いよ』
「そっか」
葵の笑い声が聞こえる。
「それで、休みは?」
『それならね、実は明日、仕事休みなの』
「明日?」
『うん。学校はあるけど、そのあと仕事入ってないの』
「そうなんだ」
『実は明日の夕方、徹くんの家に行こうと思ってた』
「そうだったの?」
『昨日、二曲できたって聞いたから。聴かせてもらおうかなって』
「じゃあ、ちょうどよかった。俺も明日はできるだけ早く帰るよ」
『ほんと?』
「うん。学校終わったら来ればいいよ」
『やった。じゃあ、二曲ともちゃんと聴かせてね』
「もちろん」
『楽しみだな』
弾んだ葵の声を聞きながら、徹も自然と笑っていた。
今日、電話しておいてよかった。
明日は月曜日だ。
学校へ行けば春子と会う。
付き合い始めてから初めて迎える月曜日でもある。
葵が来ることを知らなければ、放課後に春子と一緒に帰っていたかもしれない。
それでも今は、明日葵に二曲を聴いてもらえることが楽しみだった。
『じゃあ、明日ね』
「うん。待ってる」
『徹くん』
「ん?」
『今日は電話してくれてありがとね』
「別にいいよ。俺が気になっただけだから」
『それでも嬉しかった』
「そっか」
『うん』
葵の声は、もうすっかりいつもの明るさに戻っていた。
朝からずっと心配していたのが、少し馬鹿らしく思えるくらいだった。
『じゃあ、おやすみ』
「おやすみ。今日はゆっくり寝てね」
『うん。おやす……』
突然、葵の声が途切れた。
「……葵?」
返事がない。
その直後だった。
ガタンッ。
受話器の向こうから、大きな音が聞こえた。
何かが床へ落ちたような音。
「葵?」
徹は受話器を握り直した。
「どうした?」
返事はない。
代わりに、少し離れたところから慌ただしい足音が聞こえてきた。
『葵ちゃん?』
寮母の声だった。
『ちょっと、葵ちゃん!』
声色が変わる。
『葵ちゃん、しっかりして!』
徹の背中を冷たいものが走った。
「葵!」
受話器を強く握る。
「葵! どうした!?」
返事はなかった。
最後までお読みいただきありがとうございます。
明日、二人で曲を聴くはずだった徹と葵。
電話の向こうで、いったい何が起きたのか。
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次回へ続きます。




