第71話 一日遅れのバレンタイン
バレンタイン翌日の土曜日。
昨日までと同じはずなのに、少しだけ違って見える一日が始まります。
二月十五日、土曜日。
徹が教室へ入ると、いつもの席に鞄を置くより先に、無意識に春子の姿を探していた。
すぐに見つかった。
春子はこずえと何かを話している。
昨日と変わらない。
笑いながら話している姿も、その声も、何一つ変わっていない。
ただ一つ違うとすれば、昨日から春子が自分の彼女になったことだ。
その言葉を頭に浮かべた途端、徹は妙に落ち着かなくなった。
(普通にしよう。昨日までと同じでいい)
誰にも言わない。
昨日、二人でそう決めた。
ならば学校では今まで通りにしていればいい。
そう思いながら自分の席へ向かうと、春子がこちらに気づいた。
一瞬、目が合う。
「おはよう、徹」
「……おはよう」
少し間が空いた。
それだけだった。
春子は何事もなかったように、またこずえとの話に戻っている。
(……普通だな)
徹は席に座りながら、もう一度春子を見る。
昨日、自分の家へ連れていき、手作りのティラミスを食べさせたあと、顔を真っ赤にして告白してきた女の子と同一人物とは思えない。
しかも最後には抱きしめられた。
そこまで思い出して、徹は慌てて前を向いた。
(思い出すのはやめよう)
意識しないようにしよう。
そう思えば思うほど意識してしまう。
「何してんの?」
突然横から声がして、徹は顔を上げた。
達也が不思議そうに見ている。
「何が?」
「いや、朝からぼーっとしてるから」
「別に」
「眠いの?」
「そうかもな」
「昨日夜更かししたんじゃない?」
「してないよ」
適当に返していると、春子の笑い声が聞こえてきた。
またそちらを見そうになって、徹はぐっと堪えた。
(意識しないつもりだったんだけどな)
五十年生きた記憶があるくせに、十四歳の女の子一人に振り回されている。
我ながら情けない。
それでも、悪い気分ではなかった。
土曜日の授業は午前中で終わった。
しかし今日はそのまま帰宅ではない。
三年生を送る会が近いため、午後から部活の練習が入っていた。
昼になると、徹たちはいつもの五人で集まった。
机を寄せ、それぞれ持ってきた弁当を広げる。
「腹減った」
達也が弁当箱の蓋を開けるなり、勢いよく食べ始める。
「達也、食べるの早すぎ」
こずえが呆れたように言った。
「午後ずっと練習なんだから食っとかないと」
「だからって三分で食べなくてもいいでしょ」
「三分じゃない」
「じゃあ五分」
「そんな変わらないだろ」
いつものやり取りを聞きながら、徹も弁当を食べていく。
最後に一つだけ残った。
卵焼き。
徹は昔から好きなものを最後に食べる。
恒一だった頃から変わらない癖だった。
さて食べようかと箸を伸ばしたところで、隣から春子の声がした。
「徹、それ嫌いなの?」
「ん?」
春子が卵焼きを見ている。
「いや、これは最後に……」
「じゃあ、もーらい」
「あっ」
言い終わるより早く、春子の箸が伸びた。
徹の弁当箱から卵焼きが消える。
そのまま春子の口の中へ。
「ちょっと、それ最後に食べようと思ってたのに」
「そうなの?」
「今言おうとしたじゃん」
「美味しい」
「もう食べてるし……」
春子は悪びれる様子もなく笑っている。
「またやってるよ」
達也は特に気にした様子もなく、自分の弁当を食べ続けていた。
こずえも笑っている。
「春子、人の好きなもの取ったら駄目でしょ」
「だって残してるから」
「普通、嫌いだから残してるとは限らないだろ」
春樹まで呆れたように言う。
「次から気をつけまーす」
「絶対思ってないよね」
徹が言うと、春子はまた笑った。
みんなにとっては、いつもの春子なのだろう。
徹のものを勝手に取って、からかって、笑う。
昨日までだって、似たようなことは何度もあった。
なのに徹には、少し違って感じられた。
(……前より距離が近くなった気がする)
付き合うことになって、春子の中で何か一つ遠慮がなくなったのかもしれない。
春子がこちらを見る。
目が合った。
春子はほんの少しだけ笑う。
徹は何も言わず弁当箱を閉じた。
結局、楽しみにしていた卵焼きは食べられなかった。
それなのに、不思議と腹は立たなかった。
午後からは三年生を送る会の練習だった。
文化祭で演奏したインスト曲と、『贈る言葉』のインストアレンジ。
歌は入れず、メロディーを楽器でつないでいく。
徹はキーボードに向かい、全体の音を確認しながら演奏を繰り返した。
演奏が始まれば、余計なことを考える暇はない。
春子もいつも通りだった。
何度か合わせ直しながら、気になるところを確認していく。
気づけば外は夕方になっていた。
「今日はここまでにしようか」
徹が言うと、達也が大きく伸びをした。
「疲れたー」
「来週またやればいいよ」
「そうだな」
片づけを済ませ、五人で校門を出る。
途中で春樹と別れ、達也とこずえもそれぞれ帰っていった。
徹はいつものバス停へ向かう。
少し歩いたところで気づいた。
隣に春子がいる。
「……春子」
「何?」
「家、こっちじゃないよね」
「知ってるよ」
「じゃあ、どうしたの?」
「バス停まで送るよ」
あまりにも当然のように言う。
「わざわざ?」
「いいじゃん」
春子が少しだけ徹に近づいた。
「学校じゃ、あんまり話せなかったし」
その声は、さっきまでより少し小さかった。
徹は前を向く。
「普通に話してたと思うけど」
「そういう意味じゃないの」
「うん。分かってるよ」
「ならいいけど」
二人で歩く。
昨日とは違い、もう春子に腕を引っ張られてはいない。
それでも距離は昨日より近い気がした。
「なんか変だね」
春子が言った。
「何が?」
「付き合ってるのに、学校では今までと同じだから」
「内緒にしようって決めたしな」
「そうだけど」
「春子はもう言いたくなった?」
「まだ言わないよ」
春子は少し考えてから笑った。
「二人だけが知ってるのも楽しいし」
「そういうものなのかな」
「そういうもの」
バス停が見えてきた。
もう少し遠くてもよかったのに。
そんなことを思った自分に気づいて、徹は小さく笑った。
「何?」
「いや、何でもない」
やがてバスが来る。
「じゃあ、また月曜」
「うん」
徹が乗り込もうとすると、春子が小さく手を振った。
「またね、徹」
「うん。またね」
窓際の席に座る。
外を見ると、春子はまだそこにいた。
バスが動き出す。
徹は少しだけ手を上げた。
その日の夜。
夕食を終えた徹は、自分の部屋で机に向かっていた。
特に何かをしているわけではない。
何となくノートを開き、今日の部活で気になったところを書き留めていた。
そのとき、一階からチャイムの音が聞こえた。
こんな時間に誰だろう。
しばらくすると、階段の下から由香里の声がした。
「徹ー」
「何?」
「葵ちゃんが来てるわよ」
「……葵?」
思わず立ち上がった。
こんな時間に来るとは聞いていない。
階段を下り、玄関へ向かう。
そこに葵が立っていた。
「こんばんは」
「葵。どうしたの?」
驚きながらも、徹の顔には自然と笑みが浮かんだ。
玄関の外を見ると、少し離れたところに車が停まっている。
マネージャーの車らしい。
「あれ、仕事は?」
「まだあるよ」
「まだ仕事中なんだ」
「うん。ちょっと時間が空いたから、寄ってもらったの。すぐ戻らないといけないんだけど」
「そっか」
こんな時間に突然やって来た理由が分からず、徹は葵を見る。
すると葵は、持っていた紙袋を差し出した。
「はい」
「俺に?」
「うん」
徹が受け取る。
見慣れない店の紙袋だった。
かなりしっかりした作りで、徹でも何となく高そうだと分かる。
葵が少しだけ視線を逸らした。
「昨日、バレンタインだったでしょ」
「あ……」
そこでようやく意味が分かった。
「これ、チョコなの?」
「そう」
「昨日は来られなかったから」
「それで今日、わざわざ来てくれたんだ?」
「うん。どうしても直接渡したかったから」
葵は少し照れたように笑った。
徹は手元の紙袋を見る。
仕事の合間に時間を作って、わざわざここまで来てくれた。
そのことが素直に嬉しかった。
「ありがとう、葵。嬉しいよ」
「ほんと?」
「うん。もちろん」
「よかった」
葵の表情がほっと緩む。
その笑顔を見て、徹も笑った。
そのまま帰るのかと思ったが、葵は何か思い出したように徹を見る。
「そういえば徹くん、昨日チョコもらった?」
「え?」
「バレンタイン」
「ああ……まあ、一応」
「誰から?」
「こずえ。部活のみんなに配ってたから」
「ふーん」
葵は少し考えるような顔をした。
そして、何気ない口調で続ける。
「春子ちゃんからは?」
「……なんで春子のこと聞くの?」
「だって、仲いいじゃない」
「まあ、そうだけど」
「もらってないの?」
徹は一瞬、返事に詰まった。
昨日、春子から手作りのティラミスをもらった。
告白された。
そして付き合うことになった。
だが、まだ誰にも言わないと二人で決めたばかりだ。
「……まあ、その辺はいろいろ」
「何よそれ」
葵が少しだけ頬を膨らませる。
「ごめん。今はそれで勘弁して」
「怪しい」
「そうかな」
「すごく怪しいよ」
徹が困ったように笑うと、葵もそれ以上は追及しなかった。
「あっ、そうだ。曲!」
「曲?」
「作ってくれるって言ってたでしょ。どうなったの?」
「あれはもう木崎さんへ送ったよ」
「えっ?」
葵が目を丸くする。
「もうできたの?」
「うん。できたよ」
「聞いてない!」
「ごめん。こっちもいろいろバタバタしてて」
「できたなら電話でも教えてくれればよかったのに」
「そうだね」
「もう」
「でも、ちゃんと二曲送ったよ」
「二曲?」
葵の表情が一気に変わる。
「二曲も作ったの?」
「一曲はみんなで作った。もう一曲は、まあ……ついでみたいなものだけど」
「聴きたい!」
「あるよ」
「え?」
「送る前にダビングしてるから」
葵の表情がぱっと明るくなる。
「じゃあ聴かせて!」
「いいよ。聴く?」
「うん!」
葵が嬉しそうに答えた直後だった。
ふと外の車を見る。
「あ……」
「どうしたの?」
「時間……」
さっきまでの嬉しそうな表情が曇る。
「もう戻らなきゃ」
「そっか」
徹も少し残念に思った。
せっかくここまで来てくれたのなら、自分たちが作った曲を聴いてもらいたかった。
「じゃあ、今度ゆっくり聴こうか」
「絶対だよ?」
「うん。約束」
「二曲ともだよ」
「分かってるよ」
「楽しみにしてたんだから」
「そこまで言われると、ちょっと緊張するな」
「なんで作った人が緊張するのよ」
二人で笑う。
葵はまだ名残惜しそうだったが、もう時間がないらしい。
「じゃあ、行くね」
「うん。忙しいのに本当にありがとう」
「うん」
「チョコ、大事に食べるよ」
「大事にしなくていいから、ちゃんと食べて」
「分かったよ」
葵が玄関を出る。
数歩進んだところで、ふと足を止めた。
「徹くん」
「うん?」
振り返った葵は、何かを言おうとしていた。
「……私ね」
「どうしたの?」
短い沈黙。
葵は徹を見つめたまま、少しだけ唇を結んだ。
何かを迷っているようにも見える。
徹が待っていると、やがて葵は小さく笑った。
「……曲、楽しみにしてるからね」
「うん。今度、ちゃんと聴いて」
「うん」
「感想も聞かせてよ」
「もちろん」
葵の笑顔が少しだけ大きくなる。
「じゃあね、徹くん」
「うん。またね」
葵は小走りで車へ向かった。
車のドアが開き、乗り込む。
徹は玄関先から手を上げる。
車の窓越しに葵も手を振った。
やがて車がゆっくりと走り出す。
見えなくなるまで見送ってから、徹は手元の紙袋へ目を落とした。
「ほんと、忙しいのに……」
それでも、直接渡したいと言ってここまで来てくれた。
徹は紙袋を大事に抱え、家の中へ戻った。
部屋へ戻った徹は、紙袋を机の上に置いた。
改めて見ると、やはり自分が普段買うような菓子とは違う。
「これ、結構高いやつじゃないのかな」
そんなことを呟きながら箱を取り出す。
包装を丁寧に外し、蓋を開けた。
綺麗に並んだチョコレート。
「すごいな……」
そのときだった。
箱の中に、チョコとは別のものが入っていることに気づいた。
「ん?」
小さな封筒。
徹はそれを手に取る。
表には見慣れた葵の字で、短く書かれていた。
『徹くんへ』
「……手紙?」
最後までお読みいただきありがとうございます。
一日遅れのバレンタイン。
最後に見つけた一通の手紙には、いったい何が書かれているのでしょうか。
次回もよろしくお願いします。




