第70話 笑ってるところが好き
「これから、うちに来ない?」
バレンタインの放課後。
突然の一言に、徹の思考は停止。
そんな徹を待ってくれるほど、今日の春子はのんびりしていないようで……。
二月十四日は、まだ終わりません。
「……え?」
徹の口から出てきたのは、それだけだった。
春子はそんな徹をじっと見ていたが、いつまで経っても次の言葉が出てこないことに焦れたのか、少し眉を寄せた。
「何、その反応」
「いや……だって」
「今日、何か予定あるの?」
「ないけど」
「じゃあいいじゃん。うち、ここから近いから」
「近いって、どれくらい?」
「歩いて十五分くらい」
「十五分……」
徹はまだ状況を飲み込めずにいた。
春子の家。
これから。
二月十四日の放課後。
頭の中にいくつもの言葉が浮かぶのに、それらがうまく一つにつながらない。
「ほら、行くよ」
「え?」
「いいから」
春子が徹の腕を取った。
「ちょ、春子」
「徹がいつまで経っても動かないからでしょ」
そのまま半ば引っ張られるように歩き出す。
校舎を出て、校門を抜ける。
春子に腕を掴まれたまま歩きながら、ようやく徹の思考が動き始めた。
(待て待て……)
今日は二月十四日。
バレンタインデーだ。
そして数日前、春子から好きなお菓子を聞かれた。
せんべい。
饅頭。
そしてティラミス。
(もしかして……何か用意してるのか?)
そこまでは考えられた。
だとすれば、学校で渡さず家へ呼んだ理由も何となく分かるような気がする。
そもそも、好きな女の子から突然「うちに来ない?」などと言われた経験が、徹にはなかった。
前世の恒一だって同じだ。
中学、高校と女っ気などほとんどなく、初めて彼女ができたのは二十歳になってから。
五十歳まで生きた経験があるからといって、中学生の恋愛まで経験豊富になるわけではない。
「……あっ」
春子が小さく声を漏らした。
「何?」
「いや……」
春子はそこでようやく気づいたらしい。
まだ徹の腕を掴んでいた。
ぱっと手を離す。
「ごめん」
「別にいいけど」
「徹が動かないから」
「だからって引っ張ることないだろ」
「じゃあ、ちゃんとついてきてよね」
「ついていってるだろ」
いつものやり取り。
なのに今日は、どこか違う。
春子もそれ以上何も言わなくなった。
二人で並んで歩く。
普段なら春子の方から次々と話題が出てくるのに、今日は妙に静かだった。
徹も何を話せばいいのか分からない。
十五分という時間が、いつもよりずっと長く感じられた。
「ここが私のうち」
春子が足を止めた。
「……ここ?」
「うん」
徹は目の前の家を見た。
そして、もう一度見た。
「春子んち?」
「そうだけど」
「……でかくない?」
「そうかな?」
「いや、でかいだろ」
門から玄関までにも距離がある。
手入れされた庭があり、その向こうには二階建ての立派な家が建っていた。
派手な装飾があるわけではない。
それでも、造りや敷地の広さを見れば、普通の家とは明らかに違う。
「春子って……もしかして、お嬢様?」
「何よそれ」
春子が笑う。
「だって、この家見たら誰だってそう思うだろ」
「ずっとここに住んでるから分かんない」
「普通ではないと思うけどな……」
今まで春子から家の話をほとんど聞いたことがなかった。
学校でも、裕福な家庭の子だと感じたことはない。
服装も普通だし、自慢めいた話をすることもない。
春子は鞄から鍵を取り出した。
「入ってよ」
「鍵?」
「うん」
「うちに誰もいないの?」
「お父さんもお母さんも会社」
「二人とも?」
「うん。お父さんが会社やってて、お母さんもそこで働いてるから」
「へえ……」
そこで徹は別のことに気づいた。
(待て)
両親がいない。
つまり、この家には今から春子と二人だけ。
(……いいのかこれ?)
急に落ち着かなくなった。
好きな女の子の家で二人きり。
しかも家は想像以上に立派。
(ご両親が帰ってきたらどうするんだよ)
娘が男を家に連れ込んでいる。
いや、連れ込まれたのは自分の方だ。
そんな言い訳が通用するとも思えない。
「徹?」
「ん?」
「何してるの?」
春子はすでに玄関を開けていた。
「入らないの?」
「……入ります」
「なんで敬語なの?」
「いや、なんとなく」
春子が笑う。
徹は覚悟を決めて玄関へ入った。
「お邪魔します」
返事はない。
分かっていたことなのに、それが余計に緊張を増した。
「そこ座ってて」
リビングへ通された徹は、言われた通りソファに腰を下ろした。
家の中も広い。
家具も落ち着いたものばかりで、派手ではないのにどこか高そうに見える。
春子は鞄を置くと、そのまま台所へ向かった。
「何か飲む?」
「何でもいいよ」
「じゃあ紅茶でいい?」
「うん」
しばらくして、春子が紅茶と一緒に何かを持って戻ってきた。
小さな皿。
その上に乗っているものを見て、徹は目を瞬かせた。
「……ティラミス?」
「そうだよ」
春子が少し照れたように笑った。
「徹が好きって言ってたから作ってみた」
「春子が?」
「当たり前でしょ」
そこでようやく、数日前の会話が完全につながった。
『徹って、お菓子何が好き?』
あれは、このためだったのか。
「これ、俺のために?」
「今日、何の日だと思ってるの」
「あ……」
「一日かけて作ったんだから、ちゃんと食べてよ」
「一日?」
「初めてだったからちょっと時間かかったの」
春子は自分の分もテーブルへ置いた。
「味見したけど、意外とうまくできたと思うんだけど」
「じゃあ、いただきます」
徹はスプーンを入れた。
一口食べる。
「……うまい」
春子の顔がぱっと明るくなる。
「ほんと?」
「うん。うまいよ」
「よかった」
春子は心底安心したように息を吐いた。
嘘をついたわけではない。
確かに美味しい。
ただ、本当のところ、徹には味などほとんど分かっていなかった。
(何時に帰ってくるんだ、ご両親)
そればかりが気になっている。
時計を見る。
まだ夕方。
(いや、そもそも女の子の家に二人きりって普通じゃないよな?)
恒一だった頃の経験を探ってみても、中学生の自分に役立ちそうな記憶は何一つ出てこない。
「徹」
「ん?」
「ほんとに美味しい?」
「美味しいよ」
「なんか心ここにあらずって感じなんだけど」
「そんなことない」
「なんか怪しい」
春子がじっと徹を見る。
徹はもう一口食べた。
「ほんとに美味しいって」
「ならいいけど」
春子も自分のティラミスを食べ始める。
しばらくは他愛もない話をした。
学校のこと。
三年生を送る会のこと。
春樹のサックスのこと。
けれど、ティラミスを食べ終わった頃から、春子の口数が少なくなった。
徹にも分かった。
何かある。
「……春子?」
「うん」
「どうかした?」
春子はすぐには答えなかった。
膝の上で両手を組み、一度視線を落とす。
学校を出たときから、ずっとどこか落ち着かなかった。
その理由が、まだ残っているらしい。
「徹」
「何?」
「今日、家に来てもらったのね」
「うん」
「ティラミス食べてもらうためだけじゃないの」
徹は春子を見る。
春子も顔を上げた。
頬が少し赤い。
それでも、目は逸らさなかった。
「私……徹のことが好き」
「…………」
徹の思考が止まった。
まただ。
今日は何度止まればいいのだろう。
「ずっと好きだった」
春子は続けた。
「だから今日、ちゃんと言おうって決めてた」
「……俺に?」
「ほかに誰がいるのよ」
「いや……」
徹は言葉を失った。
春子が自分を好き。
それも、わざわざバレンタインにティラミスを作り、家へ呼んで告白するくらいに。
(……なんで俺なんだ?)
そんな疑問が最初に浮かんだ。
前世の恒一は、決して女にモテる男ではなかった。
初めて彼女ができたのだって二十歳になってからだ。
確かに今の自分は、恒一だった頃より顔はいいのかもしれない。
中身が五十歳まで生きた人間だから、同年代より落ち着いて見える部分もあるのだろう。
それが余裕のある男に見えたのか。
けれど、そんなことでここまで好きになってくれるものなのか。
考えても答えは出ない。
「……徹は?」
春子の声で我に返った。
「え?」
「私は徹が好き」
「うん」
「徹は……私のこと、どう思ってる?」
答えは、もう分かっていた。
春子のことを考えて曲まで作った。
一緒にいると楽しい。
二人きりになると嬉しい。
今日だって、春子から何ももらえないと思ったとき、あれだけ残念だった。
これを好きと言わずして何と言うのか。
「俺も……春子のこと好きだよ」
「えっ?」
春子が目を大きくする。
「ほんとに?」
「うん」
「ほんとにほんと?」
「何回聞くんだよ」
「だって……」
春子の顔が一気に明るくなった。
けれど、すぐに何かを思いついたように徹を見る。
「じゃあ、私のどこが好きなの?」
「え?」
今度は徹が困る番だった。
「どこって……」
明るいところ。
人懐っこいところ。
誰とでも自然に話せるところ。
一緒にいると楽しいところ。
そして、笑った顔が可愛い。
いくつも浮かんだ。
けれど、それを綺麗に言葉にすることができない。
「……笑ってるところ」
「え?」
「春子が笑ってるところが好き」
一瞬、春子が黙った。
まずかっただろうか。
もっと気の利いたことを言うべきだったか。
徹がそう思った直後、春子の顔に笑みが広がった。
「……そっか」
照れくさそうで、それでも隠しきれないほど嬉しそうな笑顔。
それを見た瞬間、徹は思った。
(……やっぱり、この顔だ)
「じゃあ……」
春子が少しだけ徹へ近づいた。
「私と付き合ってくれる?」
「……う、うん」
「ほんと?」
「だから何回聞くんだよ」
「だって嬉しいんだもん」
春子が笑う。
そして次の瞬間、徹との距離を一気に縮めた。
「え?」
春子の腕が徹の背中へ回る。
抱きしめられている。
「春子?」
「……ずっと、こうしたかった」
耳元で小さな声がした。
徹は一瞬だけ戸惑った。
けれど、春子を押し返す理由などない。
ゆっくりと腕を上げ、その背中へ回した。
春子の身体が少しだけ強く近づく。
何を言えばいいのか分からなかった。
ただ、抱き返す。
それだけで十分な気がした。
しばらくして春子の方から身体を離した。
さっきまで積極的だったくせに、今度は自分で恥ずかしくなったらしい。
「……部屋、見る?」
「急に話変わったな」
「いいでしょ。来て」
春子は照れ隠しのように立ち上がった。
春子の部屋には、徹が想像していた以上に音楽があった。
「すごいな」
棚にはCDやレコードが並び、壁際にはギターも置かれている。
「こんなに持ってたんだ」
「全部私のじゃないよ。お父さんのも借りてる」
「へえ」
徹は棚を眺めた。
「あ、これ持ってる」
「ほんと?」
「こっちも聴いたことある」
「じゃあ、これは?」
「それは知らない」
「じゃあ今度貸してあげる」
結局、付き合うことになっても話すことは音楽だった。
好きな曲。
ギター。
バンド。
三年生を送る会で演奏する曲のアレンジ。
話し始めれば、いつもの二人に戻る。
ただ、ときどき目が合う。
そのたびに、徹は少しだけ変な気分になった。
(……彼女なんだよな)
目の前にいる春子は、昨日までと何も変わっていない。
なのに、今日からは彼女。
まだ、その言葉が自分の中に馴染まなかった。
「あっ」
春子が時計を見る。
「もう五時半」
「そんな時間?」
「うん。そろそろお母さん帰ってくるかも」
徹は反射的に立ち上がった。
「じゃあ帰る」
「早っ」
「いや、帰るだろ」
「まだ六時前だよ」
「初めて来た日に、春子のお母さんと鉢合わせするのはちょっと……」
春子が吹き出した。
「徹、そこ気にしてたの?」
「当たり前だろ」
「大丈夫なのに」
「俺が大丈夫じゃない」
「変なの」
笑いながら、春子も立ち上がった。
玄関まで見送られ、徹は靴を履いた。
「じゃあ、また明日ね」
春子が言う。
「ああ。また明日」
明日は土曜日。
午前中は学校がある。
数時間もすれば、また同じ教室で顔を合わせる。
「……学校ではどうする?」
春子が小さな声で聞いた。
「まだ内緒でいいんじゃない?」
「そうよね。私もそう思ってた」
「達也あたりに知られたら面倒そうだし」
「絶対うるさいよね」
二人で笑う。
「じゃあね、徹」
「うん」
家を出て、門のところまで歩く。
何となく振り返ると、春子はまだ玄関の前に立っていた。
目が合う。
春子が笑って手を振った。
徹も小さく手を上げる。
そして再び歩き出した。
少し歩いたところで、徹は一人で息を吐いた。
(……俺、本当に春子と付き合うことになったんだよな)
ようやく、その事実が少しずつ現実味を帯びてくる。
五十年生きた記憶があっても、十四歳から人生をやり直していても、こんな気持ちには慣れていない。
胸の奥が落ち着かない。
それなのに、不思議と嫌ではなかった。
むしろ、少しだけ浮かれている自分がいる。
徹はもう一度だけ春子の笑顔を思い出した。
そして、誰にも見られていないのをいいことに、小さく笑った。
最後までお読みいただきありがとうございます。
ついに春子が想いを伝えました。
バレンタインに告白すると決め、ティラミスまで作って準備していた春子。
対する徹は最後まで受け身でしたが、
「春子が笑ってるところが好き」
ようやく自分の気持ちを、自分の言葉で伝えることができました。
そして二人は恋人に。
とはいえ、明日は土曜日。
午前中には、もう学校で顔を合わせます。
昨日までと同じ教室、同じ仲間たち。
でも二人だけが知っていることが、一つ増えました。
付き合いたての二人がどうなるのか、次回も楽しんでいただけたら嬉しいです。
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