第68話 恋の素人
狙って作った曲より、何気ない瞬間に生まれた曲の方が、心に残ることもある。
春子とのデートから数日。
風呂でぼんやりしていた徹の頭に、突然ひとつのメロディが流れ始める。
「……これ、結構いいかも」
その夜、予定になかった一曲が生まれる。
湯船に肩まで浸かり、徹は長く息を吐いた。
「はぁ……」
ここ数日は、ずっと曲のことばかり考えていた。
葵の次のシングルを決めるコンペ。
何を歌わせたいのか悩み、葵に東京での生活を聞き、優子からも高校生の日常について話を聞いた。
そうしてできた『夕暮れのホーム』も、ようやくデモまで完成した。
あとは提出するだけだ。
久しぶりに、何も考えなくていい夜だった。
徹は湯船の縁に頭を預け、目を閉じる。
すると、不思議なものだった。
曲のことを考えなくなった途端、別のことが頭に浮かんだ。
春子だった。
一月十二日。
二人で出かけた日のこと。
いつもより近い距離で話していた春子。
何度も目が合った。
そのたびに嬉しそうに笑った。
そして、春子の方から手を繋いできた。
あのときの感触まで、妙にはっきり覚えている。
(……何考えてるんだ、俺)
徹は目を開けた。
別に嫌ではない。
むしろ思い出すと、少し気分がいい。
前の人生で恋愛を知らなかったわけではない。
好きな女性だっていた。
それなのに今は、女の子に笑いかけられただけで嬉しくなる。
目を見て話されれば意識する。
少し身体が触れただけでも気になる。
手を繋いだくらいのことを、何日経っても思い出している。
(中学生の恋愛って、こんな感じなのか……?)
自分でも少しおかしくなった。
そのときだった。
ふいに、言葉が浮かんだ。
(まるで初めて……恋に落ちたような)
同時に、音がついた。
「……ん?」
徹は身体を起こした。
今のは何だ。
もう一度、頭の中で繰り返す。
(まるで初めて、恋に落ちたような……)
同じメロディが流れた。
しかも、それだけでは終わらない。
(ドキドキ……鼓動止まらない)
続きまで自然に出てくる。
「……曲?」
作ろうとしていたわけではない。
歌詞を考えていたわけでもない。
ただ春子のことを思い出していただけだ。
なのに頭の中では、確かに曲が鳴っている。
徹は何度か繰り返した。
悪くない。
いや。
(これ、結構いいかも)
そう思った瞬間、急に不安になった。
「やばい、忘れる」
徹は勢いよく湯船から立ち上がった。
身体を洗うのもそこそこに風呂を出る。
タオルで髪と身体を乱暴に拭き、パジャマを着ると、そのまま二階へ向かった。
「徹、ちゃんと髪乾かしなさいよ」
一階から母の声が飛んできた。
「あとで!」
「風邪ひくわよ!」
「分かってる!」
今はそれどころではない。
部屋へ飛び込み、キーボードの電源を入れる。
椅子へ座るより先に鍵盤を押した。
「違う……これでもない」
頭の中の音を探す。
一音。
また一音。
「あ……これだ」
見つかった。
風呂で浮かんだメロディと同じ音が、キーボードから鳴る。
忘れないうちに五線紙へ書き留めた。
もう一度弾く。
そこへコードを当てていく。
「こっちか……いや」
別のコード。
「……うん」
しっくりきた。
そこからだった。
一つ決まると、次が出てきた。
メロディを弾く。
コードを当てる。
歌詞を書く。
また弾く。
普段なら途中で手が止まるところなのに、今夜は止まらない。
むしろ、次の音が先で待っているような感覚だった。
『夕暮れのホーム』とはまるで違う。
あの曲は、何を歌うか決めるところから始めた。
葵の話を聞いた。
優子の話も聞いた。
みんなで何度も演奏した。
美奈子に歌ってもらって、歌詞の問題にも気づいた。
足立からアドバイスを受けて、アレンジまで変えた。
少しずつ、一つの曲にしていった。
けれど、今作っている曲は違う。
考えるより先に出てくる。
最初はバラードになるような気がしていた。
ところがコードをつけて弾いてみると、それも違った。
「……もっと軽いな」
テンポを少し上げる。
もう一度弾いた。
「これだ」
自然と身体がリズムを取る。
明るい。
けれど、ただ明るいだけでもない。
恋をして浮かれているような、それでいて自分でもどうしていいのか分からないような。
サビに入ると、メロディが一気に開く。
まるで初めて恋に落ちたような。
ドキドキ、鼓動止まらない。
自分で口ずさんでから、徹の手が止まった。
「…………」
歌詞を見る。
もう一度見る。
(これ……)
どう考えても春子だった。
目が合っただけで意識する。
笑っているのを見ると嬉しい。
近くにいると落ち着かない。
手が触れれば、そのことばかり気になる。
「俺、何書いてんだ……」
誰も見ていないのに恥ずかしくなった。
前世では五十歳まで生きた。
そして今は十四歳。
二つの人生を合わせれば、六十四年分の人生経験がある。
恋愛経験だってある。
それが今はどうだ。
中学生の女の子一人に、見事に振り回されている。
「……恋の素人かよ」
呆れたように呟いた。
そのまま次の音を弾こうとして、指が止まる。
「恋の素人……」
徹は歌詞の一番上を見た。
まだ空欄になっているタイトル。
そこへ鉛筆を走らせる。
『恋の素人』
「……悪くないな」
曲の雰囲気にも合っている。
そこからさらに細かな部分を整えていった。
大げさなアレンジは必要ない気がした。
この前、足立に言われたことも頭に残っている。
何を一番聴かせたいのか。
今回はメロディと歌詞だった。
だから必要以上に音を重ねない。
キーボードを中心に、頭の中で簡単なリズムを組み立てる。
そして一度、最初から最後まで通して弾いてみた。
「……うん」
もう一度。
二度目を弾き終え、時計を見る。
「え?」
風呂から飛び出してきてから、二時間ほどしか経っていなかった。
それなのに、目の前にはほぼ一曲分の譜面と歌詞がある。
「二時間……?」
徹は椅子の背にもたれた。
『夕暮れのホーム』にかかった時間を考えると、自分でも信じられない。
曲というのは、こんなふうにできることもあるのだろうか。
もう一度、サビだけ弾いてみる。
やっぱり悪くない。
「……なんか、いいのできたかも」
誰もいない部屋で、小さく呟いた。
そのまま徹は机の横に置いてあるラジカセへ目を向けた。
せっかくここまでできたのなら、忘れないように音でも残しておきたい。
新しいカセットを入れ、録音ボタンを押す。
キーボードの前に座り、軽く息を吸った。
演奏を始める。
そして、自分で歌った。
歌が上手いわけではない。
あくまでメロディを残すための仮歌だ。
途中で一度間違えて録り直し、二度目で最後まで歌い切った。
録音を止め、巻き戻す。
再生すると、少し籠もったキーボードの音と自分の声が流れてきた。
「……まあ、こんなもんか」
歌そのものには満足していない。
ただ、メロディを伝えるには十分だった。
翌日の夜。
「姉ちゃん、ちょっといい?」
徹は優子の部屋を覗いた。
「何?」
優子は雑誌を読んでいた。
「ちょっと歌ってほしいんだけど」
「歌?」
「うん」
優子が雑誌から顔を上げる。
「何で私が?」
「姉ちゃん、カラオケ好きだろ」
「好きだけど」
「次にバンドでやろうと思ってる曲があるんだよ。女の子の声で一回録ってみたいんだ」
「春子ちゃんじゃダメなの?」
「春子はボーカルじゃないし」
「ふーん」
優子は少し不思議そうな顔をしたものの、歌うこと自体は嫌ではないらしい。
「まあ、いいけど」
「本当?」
「変な曲だったら嫌だからね」
「とりあえず一回聴いて」
徹は優子を自分の部屋へ連れていった。
ラジカセに昨日録音したカセットを入れる。
「これ?」
「うん」
再生ボタンを押す。
キーボードのイントロに続いて、徹自身の声が流れ始めた。
優子が徹を見る。
「何?」
「いや……あんたが歌ってるんだと思って」
「仮歌だよ。メロディ覚えるための」
「へえ」
優子はそれ以上何も言わず、曲を聴き始めた。
一度最後まで聴く。
「もう一回」
「覚えられそう?」
「たぶん」
もう一度再生する。
今度は優子も小さく口ずさみながら聴いていた。
三度目には、サビをほぼ覚えていた。
「これなら歌えそう」
「じゃあ歌詞」
徹が紙を渡す。
優子が目を通す。
「タイトル……『恋の素人』?」
「うん」
「へえ」
そのまま歌詞を読み進める。
徹は何となく落ち着かなくなった。
自分の気持ちを姉に読まれているような気分だった。
実際、かなり近い。
やがて優子が歌詞から顔を上げた。
「ねえ、徹」
「何?」
「あんた、恋してるの?」
「俺じゃないよ!」
思わず即答した。
数秒。
優子がじっと徹を見る。
「……私、誰が書いた歌詞か聞いてないけど」
「…………」
「怪しい」
「いいから歌って」
「ふーん」
「何だよ」
「別に」
優子は明らかに面白がっている。
「誰なんだろうねえ」
「歌わないならもういいよ」
「歌うって。そんなムキにならなくてもいいじゃん」
完全に墓穴を掘った。
徹は誤魔化すようにキーボードへ向き直った。
「とりあえず、俺が弾くから合わせてみて」
「分かった」
イントロを弾く。
優子が歌い始めた。
ところが最初の部分で、優子の声が少し苦しそうになる。
「ちょっと待って」
優子が手を上げた。
「何?」
「これ、キーが低い」
「ああ……やっぱりそうだよね」
「サビはまだ歌えるけど、最初が歌いにくい」
徹は鍵盤をいくつか鳴らした。
自分が歌いやすい高さのまま作っていた。
女性の優子が同じキーで歌えば、合わなくても不思議ではない。
「じゃあ、少し上げるよ」
キーを変える。
「ここから歌ってみて」
優子がもう一度歌う。
「さっきよりいい」
「もう少し上げる?」
「うーん……ちょっとだけ」
さらに調整する。
何度か試しながら、優子が無理なく歌える高さを探していった。
「ここは?」
「あ、歌いやすい」
「じゃあ、これでいこう」
徹は新しいキーで最初から弾いてみる。
優子が歌う。
今度はさっきまでより声が自然に出ていた。
(なるほどな……)
歌う人間が変われば、同じ曲でもそのままでは駄目なことがある。
当たり前と言えば当たり前だ。
けれど、自分で実際に合わせてみるとよく分かる。
「じゃあ録るよ」
「一回でいい?」
「失敗しなかったら」
「プレッシャーかけないでよ」
徹はラジカセを準備した。
録音ボタンを押し、キーボードの前へ戻る。
イントロ。
優子が歌い始める。
カラオケが好きなだけあって、思っていたよりちゃんと歌える。
もちろんプロとは違う。
美奈子ほど安定しているわけでもない。
それでも女性の声が入るだけで、徹が歌ったときとは印象が大きく変わった。
そしてサビ。
まるで初めて恋に落ちたような。
ドキドキ、鼓動止まらない。
優子の声に乗った瞬間、徹は鍵盤を弾きながら少しだけ目を見開いた。
(……やっぱり、ここいいな)
一度目は途中で優子が入りを間違えた。
二度目は徹がコードを一つ間違えた。
「今の私じゃないからね」
「分かってるよ」
「さっき私が間違えたとき、すぐ言ったじゃん」
「はいはい。もう一回」
三度目。
今度は最後まで止まらなかった。
録音を終える。
「こんなもん?」
「うん。ありがとう」
「じゃあ私、戻るね」
優子は部屋を出ようとして、扉の前で振り返った。
「徹」
「何?」
「恋、頑張ってね」
「だから違うって!」
「はいはい」
笑いながら出ていった。
「……絶対疑ってるな」
徹はため息をついた。
一人になってから、録音したカセットを巻き戻す。
再生ボタンを押した。
少し籠もった音。
キーボードの伴奏。
そこへ優子の声が流れる。
録音としては、とてもプロに聴かせるために準備したものではない。
けれど曲そのものは、思っていた以上に悪くなかった。
キーを合わせたことで優子の声も自然に聞こえる。
何より、サビが耳に残る。
一度最後まで聴き、もう一度巻き戻した。
再び聴く。
「……やっぱり、いいかも」
徹は机の上に置いてある二本のカセットを見た。
一つは、みんなで時間をかけて作った『夕暮れのホーム』。
もう一つは、風呂で突然思いつき、二時間ほどでほとんど形になった『恋の素人』。
比べるようなものではない。
本命は『夕暮れのホーム』だ。
『恋の素人』は葵のために書いた曲ですらない。
コンペに出そうと思って作ったわけでもない。
ただ、勝手に浮かんできた。
それだけだった。
徹は『恋の素人』と書いたカセットを手に取る。
しばらく眺めたあと、小さく呟いた。
「……まあ、せっかくだし」
どうせコンペに出すなら、一曲でも二曲でも同じだろう。
本気で選ばれると思っているわけではない。
ただ、作ったまま机の中にしまっておくのも惜しい気がした。
「これも、ついでに出してみるか」
そのときの徹は、本当にその程度にしか考えていなかった。
最後までお読みいただきありがとうございます。
みんなで悩みながら作った『夕暮れのホーム』とは対照的に、わずか二時間ほどで生まれた『恋の素人』。
前世では五十歳まで生き、今は十四歳。
それでも春子を前にすると、まるで初めて恋をしたように振り回されてしまう。
そんな徹自身の気持ちが、そのまま曲になったのかもしれません。
本人にとっては、あくまで「せっかくだから、ついでに出してみよう」程度の一曲。
果たしてこの曲が、コンペでどんな評価を受けるのでしょうか。
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