第66話 『普通の十六歳』
葵の次のシングルを決めるコンペに参加することになったDIGITAL FANTASY。
まだ曲の形すら見えていないのに、当の葵はすっかり楽しみにしている様子。
徹は「十六歳の葵に何を歌わせたいのか」、その答えを探し始めます。
その日の夜。
夕食を終えて部屋へ戻った徹は、机の上にノートを広げていた。
木崎から持ちかけられた、葵の次のシングル候補を決めるコンペ。
締め切りは約一か月後。
参加するとは答えたものの、まだ曲の形どころか、何を歌わせたいのかさえ決まっていない。
木崎から最後に言われた言葉だけが、ずっと頭に残っていた。
『十六歳の葵に、どんな歌を歌わせたいか』
「簡単に言ってくれるよな……」
徹が鉛筆を転がしたとき、一階から母の声が聞こえてきた。
「徹、電話よー」
「誰?」
「葵ちゃん」
徹は椅子から立ち上がり、一階へ下りた。
受話器を取る。
「もしもし」
『徹くん!』
いきなり弾んだ声が飛び込んできた。
思わず受話器を耳から少し離す。
「……なんか機嫌いいな」
『聞いたよ!』
「何を?」
『私のために曲書いてくれるんだって?』
「話早いな……」
どうやら木崎から聞いたらしい。
『今日、木崎さんに会ったの。それで徹くんたちもコンペに参加するって』
「参加するだけだよ。採用されるかどうかは分からないからな」
『でも、曲は作ってくれるんでしょ?』
「それは作るけど」
『楽しみ!』
葵の声は明らかに浮かれている。
コンペだとか、プロの作家も参加するとか、今の葵にはあまり関係ないらしい。
「まだ原型もできてないぞ」
『じゃあ今から楽しみにしておく』
「ハードル上げるなよ」
『上げてないよ。楽しみにしてるだけ』
「似たようなもんだろ」
『全然違う』
何が違うのか徹には分からなかった。
『どんな曲にするの?』
「だから、まだ決まってない」
『バラード?』
「決まってないって」
『明るい曲?』
「葵、人の話聞いてる?」
『聞いてるよ。でも気になるんだもん』
徹は思わず苦笑した。
ここまで楽しみにされるとは思っていなかった。
木崎から話を聞いたときは、プロの作家と同じ場所に自分たちの曲を出すということばかり考えていた。
けれど、その曲を実際に歌うのは葵なのだ。
『徹くん』
「ん?」
『楽しみにしてるからね』
「……分かったよ」
電話を切ったあと、徹はしばらく受話器を見つめていた。
(あんなに楽しみにされたら、変なもの出せないな)
結局、自分でハードルを上げてしまった。
翌日の放課後。
軽音楽部の部室に、普段とは違う音が響いた。
「プォ……」
何とも頼りない音だった。
サックスを構えていた春樹が、ゆっくり楽器から口を離す。
「……今のは結構よかったと思う」
「昨日よりはな」
ドラムの椅子に座っていた達也が答えた。
「昨日よりは、って付ける必要ある?」
「まだ人前で吹ける音じゃないからな」
「始めたばかりなんだから当たり前だよ」
春樹は不満そうに言いながら、もう一度サックスを構えた。
三月の三年生を送る会まで、あと二か月ほど。
春樹はしばらくサックスの練習に集中することになっている。
その間、徹、春子、達也、こずえの四人でコンペ用の曲を考える。
「で、どうする?」
春子がギターを抱えたまま徹を見る。
「葵ちゃんの曲」
「それを今から考えるんだよ」
「何か考えてる顔してるけど」
「まあ、少しだけ」
徹はキーボードへ指を置いた。
昨夜から頭の中に残っている音があった。
前の人生で何度も聴いた曲。
くるりの『東京』。
もちろん、今の時代にはまだ存在しない。
くるりが世に出るのも、もっと先のことだ。
その曲を真似したいわけではない。
ただ、派手な音で押し切るのではなく、街の中で暮らす人間の何気ない日常や感情を、少し気怠さのあるロックに乗せる。
あんな空気を、十六歳の葵の声で表現したらどうなるのだろう。
「……こんな感じかな」
徹が鍵盤を鳴らす。
短いフレーズを繰り返しながら、コードを変えていく。
まだメロディと呼べるほどではない。
それでも春子はすぐに反応した。
「私、入っていい?」
「うん。合わせてみて」
「適当でいい?」
「最初は」
春子がギターを鳴らす。
徹の音を探るように、いくつかの音を重ねていく。
一度止まり、もう一度。
今度は少し違う。
「あ、今のいいかも」
徹が言うと、春子が同じフレーズを繰り返した。
「これ?」
「そう。それ」
「じゃあ俺も入るぞ」
待ちきれなくなった達也がスティックを構える。
こずえも黙ってベースを抱え直した。
四人で合わせる。
一度目は、うまく噛み合わなかった。
二度目でリズムが見えてくる。
三度目になると、こずえのベースが全体を繋ぎ始めた。
「達也、そこもう少し抑えて」
「こんな感じ?」
「うん。春子はさっきの方がいい」
「分かった」
何度も止まり、何度も最初からやり直す。
徹もキーボードを前へ出しすぎないようにした。
今回は鍵盤が主役の曲ではない。
春子のギターを中心に、ベースとドラムが作る音の中へ鍵盤を重ねていく。
やがて、短かったフレーズが一つの流れになった。
まだ粗い。
それでも曲の姿が少しずつ見えてきている。
演奏を止めた春子が、ギターを抱えたまま徹を見た。
「なんか、今までの私たちと全然違うね」
「ダメかな?」
「ううん。私は好きよ」
春子はもう一度、さっきのフレーズを軽く鳴らした。
「これ、葵ちゃんが歌ったらどうなるんだろ」
「俺もそれが聴いてみたい」
徹の頭の中にあるのは、春樹の声ではなかった。
まだ仮のメロディしかないのに、そこへ葵の声を重ねて考えている。
「問題は歌詞だな」
達也が言った。
「そうだな」
「じゃあ徹、よろしく」
「待て待て」
「何?」
「なんで当然みたいに俺なんだよ」
「『もしあの時』書いたのお前じゃん」
「一回書いたらずっと俺なの?」
春子まで不思議そうな顔をする。
「だって徹、書ける人じゃん」
「そういう問題か?」
こずえを見る。
助けてくれるかと思ったが、
「……私も徹でいいと思う」
「こずえまで……」
どうやら今回も作詞担当は自分らしい。
しかし、『もしあの時』とは違う。
今回は自分たちが歌う曲ではない。
歌うのは葵だ。
十六歳の葵だから意味のある曲。
木崎にそう言ったのは自分だった。
なら、自分がその答えを出さなければならない。
その日の夜、徹から葵へ電話をかけた。
『もしもし?』
「葵? ちょっと聞きたいことあるんだけど」
『何?』
「最近、何かハマってるものある?」
『……何、急に』
「いいから」
『最近でしょ? うーん……』
葵は少し考えてから答えた。
そこから徹は次々と質問していく。
「学校ではどんな友達と一緒にいる?」
『普通の友達だよ』
「その普通が分からないんだよ」
『よく喋る子とか、一緒にお昼食べる子とか。芸能界のこと全然知らない子もいるし』
「仕事がない日は?」
『友達と寄り道したりするよ。毎日は無理だけど』
「東京に来て、何か変わった?」
『質問多くない?』
とうとう葵が怪しみ始めた。
「ちょっと知りたいんだよ」
『なんで?』
「曲の参考としてね。十六歳の葵が東京でどんな毎日送ってるのか、俺、意外と知らないから」
一瞬、電話の向こうが静かになった。
『……私のこと知りたいの?』
「曲のためにな」
『そこは付けなくていいのに』
「何か言った?」
『何でもない』
なぜか少し不満そうだったが、すぐに声が明るくなる。
『じゃあ、何でも聞いて』
「何でも?」
『曲のためならね』
それから徹は、東京へ来て感じたこと、楽しいこと、不安なことまで聞いた。
しばらく話していると、葵がふとこんなことを言った。
『私ね、東京に来たら、もっと特別な毎日になると思ってた』
「特別?」
『うん。芸能人になって、東京に住んで、テレビに出たり、雑誌に載ったりして。毎日がもっとキラキラするのかなって』
「違った?」
『違わないけど……違うかな』
「どっちだよ」
葵が電話の向こうで笑った。
『だって、朝は眠いし、学校行きたくない日もあるし、電車は混んでるし。仕事で失敗したら落ち込むし』
「それは東京じゃなくても同じだな」
『でしょ? 東京に来ても、私って普通なんだなって思った』
徹の鉛筆が止まった。
「普通か」
『うん。でもね、最近はその普通が結構好き』
「なんで?」
『友達とくだらないことで笑ったり、帰りにお店寄ったり。そういうの、仕事が忙しいとできない日もあるから』
葵は歌手だ。
テレビにも出る。
雑誌にも載る。
徹から見ても、普通の高校生とは違う生活をしている。
けれど本人が大切にしているのは、むしろ何でもない時間なのかもしれない。
翌日。
今度は優子に聞いてみた。
「姉ちゃん、学校帰りってどこで遊んでる?」
「……何?」
優子が雑誌から顔を上げた。
「友達と遊ぶとき」
「渋谷とか新宿とか」
「何するの?」
「街をぶらぶらしたり、服見たり、ご飯食べたり。何なの、その質問」
「今、学校で流行ってるものは?」
「だから何なのよ」
「今度作る曲の参考にね」
「ああ、曲ね」
ようやく納得したらしい。
徹はそのまま、よく行く店や友達との話題、学校生活の不満まで聞いてみた。
「不満なんていっぱいあるけど」
「例えば?」
「校則とか、先生とか、テストとか」
「普通だな」
「何を期待してるのよ」
「いや、高校生ってもっと特別なことしてるのかと思って」
「普通でいいじゃん」
優子は雑誌へ視線を戻した。
「高校生なんて、あとちょっとで終わるんだから」
徹は何気なく聞き返した。
「あとちょっと?」
「私、三月で卒業だよ」
「それは知ってるけど」
「最近思うんだよね。制服着て、友達と学校から帰るのも、あと何回あるんだろうって」
優子はページをめくりながら、何でもないことのように続ける。
「毎日やってると何とも思わないのに、終わるって分かると、どうでもいいことまでちょっと惜しくなるんだよね」
徹は黙った。
葵の言葉が浮かんだ。
『東京に来ても、私って普通なんだなって思った』
『でもね、最近はその普通が結構好き』
そして優子は言った。
その普通の毎日は、いつまでも続くわけではない。
部屋へ戻った徹は、机に座った。
ノートには、この数日で集めた言葉が並んでいる。
東京。
電車。
学校。
放課後。
友達。
仕事。
寄り道。
流行。
不安。
楽しいこと。
最初は、東京で暮らす十六歳の葵を書こうと思っていた。
それは間違っていない。
けれど、少し違っていた。
東京そのものを歌いたいわけではない。
芸能人の華やかな生活を書きたいわけでもない。
朝は眠い。
電車は混んでいる。
学校へ行けば友達とくだらない話をする。
帰りに店へ寄る。
仕事があれば、そこからまた別の場所へ向かう。
本人にとっては、ただの一日だ。
特別でも何でもない。
けれど、その一日は永遠には続かない。
(……これか)
徹はようやく分かった気がした。
十六歳の葵が歌う意味。
特別な十六歳を書く必要なんてない。
むしろ逆だ。
今しかない、普通の十六歳。
その何でもない毎日を、今その真ん中にいる葵が歌う。
徹はノートの新しいページを開いた。
メロディは、もう見え始めている。
サウンドも四人で合わせたことで、少しずつ形になってきた。
そして今、ようやく歌詞にも一本の芯ができた。
徹は鉛筆を握る。
真っ白なページを見つめた。
今度は、最初の一行で手が止まることはなかった。
最後までお読みいただきありがとうございます。
東京で芸能活動をする如月葵。
一見すれば特別な毎日を送っている彼女ですが、本人が大切にしていたのは、友達と笑ったり、寄り道をしたりする何でもない時間でした。
そして三月に卒業を控えた優子の言葉から、徹はもう一つのことに気づきます。
普通の毎日は、ずっと続くわけではない。
だからこそ、今しかない「普通の十六歳」を歌にする。
ようやく曲の核を見つけた徹たちが、どんな一曲を作り上げるのか。
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