第62話 二人のつもりだった
冬休みに入った徹たち。
春子に誘われた買い物は、いつもの仲間との楽しい一日になるはずでした。
けれど徹の何気ない行動が、春子との間に小さなすれ違いを生んでしまいます。
終業式を終えた教室には、いつもの放課後とは少し違う浮ついた空気が漂っていた。
通知表を見せ合う者もいれば、冬休みの予定を話している者もいる。明日からしばらく学校へ来なくていいというだけで、教室全体がどこか軽くなっていた。
徹も帰る準備をしていると、机の横に人影が止まった。
「ねぇ徹、年末ってどこか空いてる?」
顔を上げると、春子が鞄を肩に掛けて立っていた。
「年末?」
「うん。冬休み入ってから」
頭の中で予定を確認する。年末に家族で出かける話は聞いていないし、バンドの練習も今のところ入っていなかった。
「たぶん空いてるけど」
「じゃあ、買い物付き合ってよ」
「買い物?」
「楽器も見たいし、服も見たいし。年末だから、いろいろ安くなってるかもしれないでしょ」
春子はそう言って、少しだけ首を傾けた。
「嫌?」
「いや、別にいいよ」
「ほんと?」
春子の表情がぱっと明るくなった。
「いつにする?」
「えっと……二十八日は?」
「二十八日なら大丈夫」
「じゃあ十時ね。駅前で待ち合わせ」
「分かった」
「遅刻しないでよ」
「しないよ」
春子は満足そうに頷くと、自分の席へ戻っていった。
その後ろ姿を見送りながら、徹は鞄のファスナーを閉める。
二十八日。買い物。
春子と。
そこまで考えたところで、手が一瞬止まった。
(……二人で?)
春子は誰かほかに来るとは言っていなかった。
だからといって、二人で行くことに特別な意味があるとも限らない。夏祭りでは二人きりで花火も見たし、普段から一緒にいる時間は長い。
わざわざ考えるほどのことでもない。
徹は鞄を持ち上げた。
そう思ったはずなのに、胸の奥に生まれた小さな引っかかりだけは、なぜか残った。
その日の帰り道。
徹は達也、春樹、こずえと四人で駅へ向かっていた。春子は委員会の用事があり、学校に残っている。
「冬休みって言っても、年末は暇なんだよなあ」
達也が両手を頭の後ろで組みながら、白い息を吐いた。
「正月になったら親戚来るし。自由なの最初だけだわ」
「僕は少し練習したいかな。声がまだ安定しないから」
春樹は喉元に手を当てた。
文化祭から二か月近く経った今も、声は以前より低くなったり、急に戻ったりを繰り返しているらしい。
「そういえば二十八日、春子が楽器見に行くって言ってたぞ」
徹が何気なく口にすると、達也がすぐに反応した。
「マジ? どこ?」
「まだ聞いてない。買い物付き合ってくれって」
「じゃあ俺も行こうかな。新しいスティック見たいんだよ」
「僕も行っていい?」
「春樹も何か見るの?」
「サックス」
「サックス?」
予想していなかった答えに、徹は春樹を見る。
「前からちょっとやってみたかったんだ。冬休みだし、始めるならいい機会かなって」
達也が振り返った。
「お前、歌だけじゃなくてサックスもやるのか?」
「まだやるって決めたわけじゃないよ。値段も分からないし、まず見てみたいだけ」
「いいんじゃない? じゃあ一緒に行く?」
「うん」
「こずえは?」
話を振られたこずえは、マフラーに半分埋まっていた顔を上げた。
「……二十八日は、家の用事ある」
「そっか」
「ごめん」
「いや、急に言ったの俺だから」
こずえは小さく頷いたが、すぐには前を向かなかった。
「……春子が、徹を誘ったの?」
「うん」
「二人で?」
「そこまでは言ってないけど」
「……そう」
それだけ言うと、こずえは再び前を向いた。
徹は少しだけ気になったものの、達也がスティックの話を始め、春樹がサックスについて話し始めたため、そのまま会話は流れていった。
十二月二十八日。
朝からよく晴れていたが、空気は刺すように冷たかった。
徹が駅前へ着くと、すでに達也と春樹が待っていた。
「寒っ。早く店入ろうぜ」
「まだ春子来てないだろ」
「だから駅の中で待とうって話」
「桐谷さん、あと五分くらいじゃないかな」
春樹が腕時計を確認する。
その直後、人混みの向こうから春子が歩いてきた。
いつもより少しだけ違って見えた。
髪をきれいに整え、淡い色のコートにマフラーを合わせている。学校で見る姿より少し大人びて見えて、徹は何となく目を止めた。
春子もこちらを見つけた。
一瞬、嬉しそうに足が速くなる。
だが、徹の隣にいる二人へ視線が移ったところで、その歩みがゆっくりになった。
「おはよう、春子」
「……おはよう」
「寒いな」
「うん」
春子は達也を見る。
次に春樹を見る。
もう一度、徹へ戻った。
「……なんで二人がいるの?」
「徹に誘われた」
達也が何の疑問もなく答えた。
「楽器見るって聞いたからさ。俺もちょうどスティック欲しかったし」
「僕もサックスを見てみたくて。急にごめん」
「…………そっか」
春子は短く答えた。
「別に、二人が謝ることじゃないよ」
そう言って歩き出す。
徹はその背中を見ながら、わずかに眉を寄せた。
何かがおかしい。
けれど、その理由を尋ねられる空気でもなかった。
楽器店へ入ると、達也はすぐにドラム用品の棚へ向かい、春樹はサックスが並ぶ一角へ吸い寄せられるように歩いていった。初めて間近で見る楽器が気になるのか、ショーケース越しに細かな部分まで眺めている。
春子はギターの弦やピックを見ていた。
徹もその隣へ立った。
「その弦買うの?」
「うん」
「いつもの?」
「たぶん」
それだけだった。
いつもの春子なら「これどう思う?」だとか「徹ならどっちにする?」と聞いてくる。今日はそれがない。
「春子」
「なに?」
「もしかしてなんか怒ってる?」
「別に」
商品をそのまま返される。
今度は徹にも分かった。
これは確実に何かある。
ただ、思い当たることがない。
店を出たあと、服を見たり、本屋へ寄ったりしながら時間は過ぎていった。
春子は達也や春樹とは普通に話している。達也の服を見て「それ絶対似合わない」とからかうし、春樹が音楽雑誌を長々と読んでいれば「買わないなら戻しなよ」と呆れている。
徹に対してだけ、どこか違った。
昼を過ぎた頃だった。
「そういや徹、この前もここら辺来たんだろ?」
達也が突然言った。
「ここら辺?」
「渋谷。なんか言ってたじゃん」
「ああ」
徹が答えた瞬間、春子がこちらを向いた。
「渋谷来たの?」
「少し前にな」
「誰と?」
「葵」
春子の足が止まった。
「……葵ちゃん?」
「うん。休みだったから、行きたい喫茶店があるって誘われて」
「二人で?」
「そうだけど」
春子は黙った。
その横で達也の顔が少しずつ引きつっていく。
春樹もようやく何かに気づいたらしく、徹と春子を交互に見た。
「……葵ちゃんとは二人で行ったんだ」
「うん」
「私も買い物行きたいって言ったよね」
「言ったけど」
「じゃあ、なんで今日はみんないるの?」
「え?」
「私、みんなで行こうって言った?」
徹は記憶を辿った。
そんなことは一度も言っていない。
「……言ってない」
「じゃあ、なんで勝手に誘うの?」
春子の声は大きくなかった。
むしろ静かだったからこそ、徹はすぐに言葉を返せなかった。
「いや……みんなで行った方が楽しいと思って」
「それ、徹がそう思っただけじゃん」
胸の奥を小さく突かれた気がした。
春子は唇を結び、少し俯いた。
「春子、もしかして……」
「もういい」
春子は顔を上げると、達也と春樹を見た。
「ごめん。二人に怒ってるわけじゃないから」
「いや、俺らも知らなくて……」
「分かってる」
春子は小さく首を振った。
「私、今日は帰る」
「春子」
「本当に帰るの?」
追いかけようとして、徹の足が止まった。
何を言えばいいのか分からなかった。
呼び止めて、それからどうする。
謝るとしても、自分が何を間違えたのか、まだ頭の中で整理できていない。
春子の姿は人混みに紛れ、やがて見えなくなった。
三人の間に、気まずい沈黙だけが残った。
しばらくして、達也が息を吐いた。
「……とりあえずどっか入ろうぜ」
近くにあった喫茶店へ入り、三人は奥の四人掛けの席に座った。
春樹はコーヒーを注文した。
達也はメニューをしばらく眺めた末、なぜか大きなチョコレートパフェを頼んだ。
「この空気でよくパフェ食えるな」
「腹減ったからな」
徹は何も頼まなかった。
店員が置いていった水のグラスだけが、目の前にある。
やがて春樹のコーヒーから湯気が立ち、達也の前にはクリームと果物を山のように盛ったパフェが運ばれてきた。
達也は一口食べてから、スプーンを徹へ向けた。
「で?」
「何が」
「春子だよ」
徹は水のグラスへ視線を落とした。
春樹がコーヒーを一口飲む。
「僕も途中まで分からなかったけど……桐谷さんは、長浜くんと二人で出かけるつもりだったんだよね?」
「……たぶん」
「たぶんじゃないよ」
達也のスプーンが止まる。
「あそこまで言われて、まだ分かんねえの?」
「それは分かってる。春子が俺と二人で行くつもりだったのは」
「分かってんじゃん!」
思わず声を上げた達也が、周囲を見て少し声を落とした。
「だったら、なんで俺ら誘ったんだよ」
「みんなで行った方が楽しいと思ったから」
答えてから、徹自身がその言葉に引っかかった。
嘘ではない。
けれど、本当にそれだけだったのか。
春樹が静かにカップを置いた。
「如月さんと渋谷へ行ったときは、僕たちを誘わなかったんだよね?」
徹は顔を上げた。
「……うん」
「じゃあ、どうして今回は誘ったの?」
「それは……」
言葉が続かなかった。
葵に誘われたときは、二人で行くことを深く考えなかった。
ところが春子に誘われたときは違った。
教室で春子が去ったあと、確かに思ったのだ。
二人で?
その瞬間を、今さら思い出した。
「……俺にも、よく分からない」
達也はパフェを一口食べてから、呆れたように徹を見た。
「お前、人のことなら分かるのに、自分のことになると全然ダメだな」
徹は何も言い返せなかった。
「じゃあさ。例えば俺が、こずえに二人で買い物行こうって誘われたとするだろ?」
「うん」
「そこで俺が勝手にお前ら連れてったら、どう思う?」
「こずえは達也と二人で行きたかったんじゃないかって思う」
即答した。
達也の口が開いた。
「分かってんじゃねえか!」
春樹がコーヒーカップで口元を隠した。
「長浜くん、自分が入ると急に判断がおかしくなるんだね」
「……そうかもしれない」
徹は水を一口飲んだ。
冷たいだけで、味はしなかった。
家へ帰ってからも、春子の表情が頭から離れなかった。
夕食の席でも、気がつけば箸が止まっている。
「徹、どうしたの?」
由香里に声をかけられ、徹は顔を上げた。
「何が?」
「今日、全然食べてないじゃない」
「……昼が遅かったから」
向かいに座っていた優子が、じっと徹を見る。
「なんかあった?」
「別に」
「その『別に』、絶対なんかあったときのやつじゃん」
「何もないって」
「友達と喧嘩した?」
「喧嘩じゃない」
「じゃあ、怒らせた?」
箸が止まった。
優子の眉が上がる。
「当たりじゃん」
「……まあ、ちょっと」
「女の子?」
「なんでそうなるんだよ」
「その反応」
優子の口元が緩んだが、由香里は追及しなかった。
「誰でもいいけど、自分が悪かったと思ってるなら、ちゃんと謝りなさいよ」
「……分かってる」
食事を終えて自分の部屋へ戻り、徹はベッドに腰を下ろした。
女の子。
優子にそう言われただけで、春子の顔が浮かんだ。
どうして春子のときだけ、二人で出かけることを意識したのだろう。
そしてもう一つ。
春子が自分と二人で行くつもりだった。
そのことが分かった瞬間。
自分は確かに、ほんの少し嬉しかった。
「……何考えてるんだ、俺」
徹は額へ手を当てた。
今の自分は十四歳だ。
けれど、黒沢恒一として五十年以上生きた記憶がある。その人生に、長浜徹として生きてきた十四年を重ねれば、六十年以上の時間を知っていることになる。
春子は十四歳。
頭で考えれば、自分にとっては親子どころか、孫ほど歳が離れていてもおかしくない。
そんな女の子が自分と二人で出かけたかったからといって、そこに特別な意味を期待するなんておかしい。
そもそも、春子がそういう意味で誘ったと決まったわけでもない。
自分に都合よく勘違いするのだけは嫌だった。
なのに。
理屈をいくつ並べても、あの小さな喜びだけは消えてくれなかった。
春子が楽しそうに笑うと、自分も楽しい。
花火を二人で見た夜も覚えている。
文化祭の舞台で隣にいた春子の姿も、今日、駅前でこちらを見つけた瞬間に明るくなった表情も。
そして、その表情を曇らせたのは自分だった。
徹はベッドへ身体を倒し、天井を見つめた。
春子が自分をどう思っているのかは分からない。
自分が春子をどう思っているのかも、まだうまく言葉にはできなかった。
頭では、近づいてはいけないような気がする。
それなのに心は、そんな理屈を聞いてくれない。
六十年以上の記憶があっても、自分のことになると、答え一つ出せない。
ただ一つだけ、はっきりしていることがある。
春子を怒らせたままなのは嫌だった。
その事実だけは、どれだけ考えても変わらなかった。
最後までお読みいただきありがとうございます。
人のことなら分かるのに、自分のことになると答えが出せない徹。
頭では距離を置こうとしても、心は思い通りには動いてくれません。
春子を怒らせたことで初めて気づいた、自分の中にある小さな矛盾。
徹はこの気持ちと、どう向き合っていくのでしょうか。
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