第61話 ほんとに聞きたいこと
久しぶりに一日休みになった葵。
気になっていた喫茶店へ行くため、徹を誘って渋谷へ向かいます。
ただの休日になるはずだった二人の一日は、思わぬ出会いから少し違う方向へ。
十二月に入って最初の日曜日。
午前九時を少し回った頃、葵は自分の部屋でベッドの上に服を並べていた。
「……なんか違う」
一度手に取ったセーターを戻し、今度は淡い色のものを胸元に当てて鏡を見る。
これも何となく違う気がする。
仕事なら衣装を用意してもらえるし、学校へ行くなら制服がある。自分で服を選ぶこと自体は珍しくないのに、今日は朝から妙に決まらなかった。
(普通でいいの。普通で)
そう思っているのに、その「普通」が分からない。
派手すぎれば気合いを入れてきたように見える。地味すぎるのも嫌だし、仕事で着るような服では休日らしくない。
「……もう、これでいい」
ようやく決めた服に着替え、もう一度鏡の前に立つ。
髪を整えながら、数日前の電話を思い出した。
『徹くん、今度の日曜日って空いてる?』
『空いてるけど』
『じゃあ、どこか行かない? 渋谷にちょっと気になってるお店があるの』
雑誌で見つけた喫茶店だった。
一人では入りづらいというのは嘘ではない。ただ、それなら高校の友達を誘うことだってできた。
けれど、最初に思い浮かんだのは徹だった。
『せっかくの休みなのに、俺なんか誘っていいの?』
あの言葉を思い出しただけで、葵の眉間に小さなしわが寄る。
『俺なんかって何?』
『いや、高校の友達とかいるだろ』
なんでそこで他の人を勧めるの。
受話器を握りながら、本気でそう言いそうになった。
『いいの。私が徹くんと出かけたいの』
勢いで言ってしまったあと、電話を切ってからしばらく動けなかった。
徹と二人で出かけたことなら、これまでにもある。
なのに今回は違う。
自分の気持ちに気づいてしまってから、初めて二人で出かける。
(私が徹くんと出かけたい、って……)
葵は鏡の中の自分を見つめた。
「……デートみたいじゃん」
呟いた途端、また服が気になってきた。
「やっぱりこっち……?」
結局、出かける直前まで、葵は鏡の前を離れられなかった。
渋谷駅は日曜日らしい賑わいに包まれていた。
十二月の冷たい風が人の流れを縫うように吹き抜け、コート姿の若者たちが次々と駅から吐き出されてくる。街にはクリスマスを意識した飾りも増え、店先には赤や緑の装飾が目立っていた。
葵が待ち合わせ場所へ急ぐと、人混みの向こうに徹を見つけた。
「徹くん!」
呼びかけると、徹がこちらを向く。
「おはよう」
「ごめん、待った?」
「十分くらい」
「それ、待ったって言うんだけど」
葵が唇を尖らせると、徹は腕時計を見た。
「俺が早く来ただけだから」
「ならいいけど……」
言いながら、葵はそっと徹の様子を窺った。
何も言わない。
(……やっぱり気にしすぎたかな)
朝から何度も着替えた自分が急に恥ずかしくなる。
ところが歩き出そうとしたところで、徹が葵をもう一度見た。
「その服、似合ってるな」
「え?」
「仕事のときと雰囲気違うから。そっちもいいと思う」
「……そ、そう?」
葵は思わずコートの襟元を触った。
「ありがとう」
徹はそれ以上何も言わず、行こうか、と歩き始める。
葵も慌てて隣へ並んだ。
(そういうのは普通に言うんだ……)
何度も服を替えた甲斐があったと思ってしまう自分が、少し悔しかった。
葵が行ってみたかった喫茶店は、大通りから少し奥へ入ったところにあった。
木目を基調とした店内には観葉植物が置かれ、壁には外国映画のポスターが飾られている。低く流れる洋楽とコーヒーの香りが混ざり合い、外の雑踏が嘘のように遠く感じられた。
「ここ、一回来てみたかったんだ」
窓際の席に座った葵は、嬉しそうにメニューを開いた。
「仕事の途中じゃ来られないの?」
「来られなくはないけど、次の時間が気になるもん。桜田さんもいるし」
「今日は?」
「今日は何もない」
葵はメニューから顔を上げた。
「久しぶりの完全なお休み」
「それなら、もっとゆっくりすればいいのに」
「もう」
葵の眉が上がる。
「だから、徹くんと出かけたかったの」
「そう?」
(そう? じゃない!)
葵はメニューで口元を隠した。
しばらくすると、注文したケーキと紅茶が運ばれてきた。
高校の話、徹の学校の話、文化祭の話。
特に文化祭の話になると、葵はまだ諦めていなかった。
「結局、徹くんが歌ってるところ聞けなかった」
「まだ言ってる」
「だって春子ちゃんたちは聞いたんでしょ?」
「同じバンドだからな」
「私も聞きたかったのに」
「また機会があれば」
「じゃあ歌って」
「ここで?」
「今じゃないよ!」
思わず声が大きくなり、近くの席の女性がちらりとこちらを見る。
葵は慌てて声を落とした。
「……今度でいいから」
「覚えてたら」
「絶対忘れるつもりでしょ」
ケーキを切り分けながら文句を言っていた葵だったが、ふとフォークを止めた。
「そういえばね」
「ん?」
「セカンドシングル、あんまり売り上げ良くなかったんだ」
それまでの軽い空気が、ほんの少しだけ変わった。
「『あなたのために』?」
「うん。最初からあんまり伸びなかったみたい」
葵は紅茶へ視線を落とした。
落ち込んでいるというより、結果を自分の中で受け止めようとしているように見える。
「でも、まだ二枚目だしね」
そう言って、葵は顔を上げた。
「もっと頑張らないと。歌ももっと上手くなりたいし、もっといろんな人に知ってもらわないとね」
徹はすぐには答えなかった。
発売日に葵から貰ったCDは何度も聴いた。
一枚目より歌は明らかに上手くなっていた。曲そのものだって悪いとは思わない。
「俺は、前の曲より上手くなってたと思うけど」
「ほんと?」
「うん」
葵の頬が少し緩んだ。
「徹くんに言われると、ちょっと嬉しい」
「なんで?」
「……そういうところだよ」
「何が?」
「なんでもない」
葵は紅茶へ口をつけた。
徹は首を傾げたものの、それ以上は聞かなかった。
ただ、胸の奥には小さな違和感が残った。
葵がもっと頑張れば、次は売れる。
本当にそうなのだろうか。
喫茶店を出た二人は、特に目的を決めず渋谷の街を歩いた。
葵が店先の小物を覗けば徹も足を止め、徹が書店を気にすれば葵もついていく。仕事の時間を気にする必要がないせいか、葵の歩調はいつもよりゆっくりしていた。
やがて大通りへ戻ったところで、葵が足を止める。
「あっ、タワーレコード」
「寄ってく?」
「うん。近くまで来たし」
二人はそのまま店内へ入った。
棚には国内外のCDがぎっしりと並び、色とりどりのジャケットが視界を埋める。店内で流れる音楽に混じって、ケースを手に取る音や客同士の会話が聞こえていた。
葵が女性歌手の棚へ向かい、徹もその後を追おうとしたときだった。
「……葵?」
男の声に、葵が振り返る。
「木崎さん?」
少し離れた棚の前に木崎が立っていた。
仕事のときとは違うラフな格好で、片手にはすでに数枚のCDを抱えている。
「珍しいところで会ったな」
「木崎さんこそ。今日、休みですよね?」
「俺にだって休みくらいある」
木崎は手元のCDを軽く持ち上げた。
「休みの日くらい、自分の好きなものをゆっくり聴きたいんだよ」
「休みの日までCDなんですね」
「仕事で聴くのと、好きで聴くのは別だ」
その答えに徹は少し意外そうに木崎を見た。
やはり、この人は音楽そのものが好きなのだろう。
木崎も徹に気づいた。
「長浜くんも一緒だったのか」
「こんにちは」
木崎は徹と葵を交互に見たあと、わずかに口元を緩めた。
「なんだ。デートか?」
「デッ……!」
葵の声がひっくり返った。
徹は何でもないことのように答える。
「違いますよ。葵が行きたい喫茶店があるっていうから付き合ってただけです」
(なんでそんなに早く否定するの!)
葵が横から睨んでいることにも、徹は気づかない。
「ふうん」
木崎は何か言いたそうな顔をしたが、それ以上からかうことはなかった。
しばらく三人で店内を見ていたが、葵が気になるCDを見つけて別の棚へ向かった。
木崎は輸入盤を一枚手に取り、裏面を眺めている。
その横顔を見ていた徹は、喫茶店での話を思い出した。
「木崎さん」
「ん?」
「葵、気にしてましたよ」
木崎がCDから顔を上げる。
「何を?」
「セカンドシングルです。売り上げが良くなかったって」
木崎の指が止まった。
「本人から聞いたのか」
「さっき。もっと頑張らないとって言ってました」
「……あいつらしいな」
木崎は手にしていたCDを棚へ戻した。
徹は少し迷った。
ここから先は、自分が口を出すことではない。
そう思ったのに、喫茶店からずっと引っかかっていたものが口をついて出た。
「でも……葵がもっと頑張ればいいって話なのかなって」
木崎がこちらを見る。
その視線を受けて、徹はしまったと思った。
「すみません。余計なこと言いました」
「いや」
木崎の声は変わらなかった。
「どういう意味だい?」
「俺もよく分からないんですけど」
徹は目の前に並ぶCDへ視線を移した。
「曲はいいと思いました。葵も一枚目より歌が上手くなってたし。でも……」
うまく言葉にならない。
「誰が歌っても成立する曲だった気がするんです」
「誰が歌っても?」
「悪いって意味じゃないですよ。むしろ、いい曲だと思います」
徹は一度言葉を切った。
「ただ、葵が歌うから意味がある曲でもいいんじゃないかなって」
木崎の表情がわずかに変わった。
「葵が歌うから?」
「葵、今十六歳ですよね」
「そうだ」
「だったら、十六歳の今しか歌えないことがあるんじゃないかなって思って」
木崎は口を挟まなかった。
徹は自分でも考えを整理するように続ける。
「大人の恋愛じゃなくて、学校で好きな人がいるとか。話したいけど、話しかける理由がないとか」
木崎の目が徹へ向いた。
「例えば?」
「例えば……宿題とか」
「宿題?」
「今日の宿題がどこか、本当は知ってるんです。でも好きな人に『今日の宿題どこだっけ?』って聞く」
話しながら、徹の頭の中に教室の風景が浮かんでくる。
「次の授業が体育館なのも知ってる。でも『次、体育館だよね?』って確認したり。ノートを見せてもらったり、消しゴムを借りたり」
「知ってるのに聞くのか?」
「話すきっかけが欲しいからですよ」
木崎の手から、CDを探す動きが消えていた。
徹はそれに気づかないまま続けた。
「用事があるから話すんじゃなくて、話したいから用事を作るんです。十六歳くらいなら、そういうのあるんじゃないですか」
そこまで言って、徹は少し考えた。
「でも……」
視線の先には、色とりどりのCDが並んでいる。
「ほんとに聞きたいのは、これじゃないんですよね」
木崎の指先が止まった。
徹は独り言のように続ける。
「宿題のことでも、次の授業のことでもなくて……今の君の気持ちとか」
数秒、木崎から返事がなかった。
店内では軽快な曲が流れ続けている。
徹はようやく木崎の方を見た。
「……木崎さん?」
「長浜くん」
「はい?」
「今の、もう一度言ってくれ」
「今の君の気持ち?」
「その前だ」
徹は記憶を辿った。
「……ほんとに聞きたいのは、これじゃない?」
「それだ」
木崎の目つきが変わった。
休日にCDを選んでいた男の顔ではない。
徹にも、それくらいは分かった。
「宿題を聞く。次の授業を聞く。全部、好きな相手と話すための口実。その積み重ねから『ほんとに聞きたいのは、これじゃない』へ持っていく……」
木崎が小さく呟く。
「十六歳の女の子が歌うなら、面白い」
「そうですか?」
「そうですか、じゃないよ」
木崎は徹をまっすぐ見た。
「長浜くん。君、いいセンスしてるな」
徹は困ったように眉を寄せた。
「いや、今のは歌詞を考えたわけじゃないですよ」
「分かってる。俺が言ってるのはそこじゃない」
木崎は近くの棚へ目を向けた。
「誰が歌うのか。その子が今いくつなのか。どんな毎日を送っていて、同じ年頃の子が何に共感するのか。そこから考えてる」
「そんな大げさなこと考えてませんよ」
「だから面白いんだ」
木崎の口元がわずかに上がった。
徹は返す言葉が見つからず、頭を掻いた。
ただ思ったことを話しただけだった。
その程度のつもりだったのに、木崎の反応は予想以上に大きい。
「それと、サビはもっと覚えやすい方がいいと思いますけど」
ついでのように徹が言うと、木崎が再びこちらを向いた。
「どうしてそう思うんだい?」
「学校で誰かが口ずさんで、それを聞いた子も歌いたくなるような曲の方が広がるでしょうし」
「売れるからか?」
「逆じゃないですか?」
徹は少し考えてから答えた。
「売ろうとするより、みんなが歌いたくなる曲を作る。好きになって自分でも歌いたくなったら、CDだって欲しくなるんじゃないですか」
木崎は何も言わなかった。
ただ、先ほどより長く徹を見ていた。
やがて、その視線が少しだけ柔らかくなる。
「……やっぱり面白いな、君は」
「何がですか?」
「こっちの話だ」
そこへ、葵が一枚のCDを手に戻ってきた。
「何の話してるの?」
徹が答えるより先に、木崎が口を開いた。
「ちょっと音楽の話をな」
「木崎さんが徹くんと?」
「そうだ」
葵は不思議そうに二人を見比べた。
「徹くん、何話したの?」
「俺もよく分からない」
「自分で話したんでしょ?」
「それはそうなんだけど」
「何よそれ」
葵は呆れたように眉を下げる。
その横で、木崎だけがもう一度徹を見た。
十四歳の中学生。
葵がよく話題にする、年下の友人。
木崎にとって、それまでの徹はその程度の存在だった。
けれど今日、その見方がほんの少しだけ変わった。
徹はまだ、そのことに気づいていなかった。
最後までお読みいただきありがとうございます。
何気なく口にした徹のアイデアに、木崎が初めて見つけた新しい可能性。
そして「ほんとに聞きたいこと」があるのは、歌の中の女の子だけではないのかもしれません。
今回生まれた小さなアイデアが、この先どんな形になっていくのか。
徹自身もまだ、その答えを知りません。




