第59話 五人で鳴らす音
いよいよ文化祭ライブ本番。
春樹の突然の声変わりで、予定とは違う形でステージに立つことになったDIGITAL FANTASY。
徹がボーカルを務める一曲目、そして五人で作った『もしあの時』。
予定外だらけのステージが始まります。
七組目の演奏が終わった。
ジャァァン……。
最後のギターが体育館の高い天井へ抜け、その余韻が消えるより早く、大きな拍手が湧き上がった。
パチパチパチパチッ!
「ありがとうございました!」
ステージ上のバンドが頭を下げる。
舞台袖で待っていた徹は、思わず息を吐いた。
次だ。
「DIGITAL FANTASY、準備しろ」
五十嵐先生の声に、五人が動き出す。
達也がドラムセットへ向かい、こずえがベースを肩に掛ける。春子はギターを抱え、徹もキーボードの前へ立った。
春樹だけが、いつもとは違う場所にいる。
一曲目のボーカルは徹。
そう決めたのは数時間前だ。
分かっていたはずなのに、マイクを自分の前へ引き寄せた途端、急に現実味が増した。
「……近いな」
「何が?」
隣の春子が振り向く。
「マイク」
「今さら?」
「ステージで歌うのは初めてなんだよ」
「家では歌ってるんでしょ?」
「家には客がいないからな」
徹が客席を見る。
ステージからだと、思っていた以上に顔が見えた。
前の方で騒いでいる生徒。友達を探している生徒。壁際には教師や保護者もいる。
その中に、由香里を見つけた。
目が合った。
由香里が嬉しそうに手を振る。
隣には父と優子もいた。
その顔を見た瞬間、徹の中に去年の体育館が重なった。
あの時、自分は客席にいた。
春子たちが演奏するステージを見上げ、自分が弾くはずだったキーボードには別の部員が座っていた。
そして母は、病院にいた。
それから、まだ一年も経っていない。
今は母が客席にいる。
自分はステージの上だ。
「……よし」
小さく呟き、さらに客席へ目を向ける。
少し離れたところに、恒一がいた。
隣には女の子。
安元佳奈。
「あいつ本当に連れてきたんだな」
六月に聞いた話を思い出して、口元が緩んだ。
前の人生で、自分が好きだった女の子。
何も言えないまま終わった初恋の相手が、今は恒一の隣にいる。
不思議な光景なのに、胸は痛まなかった。
むしろ、少し嬉しかった。
『好きだったら言うだろ、普通』
恒一の言葉が蘇る。
「徹」
春子に呼ばれた。
「そろそろだよ」
「うん」
返事をしながら、もう一度だけ客席を見渡す。
葵はいなかった。
仕事で間に合わなかったか。
少し残念に思った自分に気づいたが、今は考えている場合ではない。
「行くぞ」
達也がスティックを構える。
カッ、カッ、カッ、カッ。
乾いたカウントが響く。
次の瞬間。
チュク、チュン。
春子のギターが、印象的な音を鳴らした。
それだけで客席が反応する。
「あっ!」
「これ知ってる!」
今年、街でもテレビでも何度も耳にした曲。
小田和正の『ラブ・ストーリーは突然に』。
ジャッ、ジャッ。
ギターへベースが絡み、達也のドラムが入る。
ドン、タン、ドン、タン。
徹の指も鍵盤を走った。
いつもなら、このあと春樹の声が入る。
だが今日は。
(俺だ)
歌い出しが迫ってくる。
家なら何度もやった。
キーボードを弾きながら歌うこと自体は難しくない。
なのに。
マイクの向こうに何百という目があるだけで、喉が狭くなったように感じた。
徹は息を吸う。
そして歌った。
客席がざわめいた。
普段はキーボードの後ろにいる徹が歌っている。
それだけでも意外だったのだろう。
最初の数小節は、自分でも分かるほど硬かった。
(まずい。声ばっかり気にしてる)
鍵盤へ意識を戻す。
すると。
ドンッ!
達也のバスドラムが腹に響いた。
ジャッ!
春子のギターが横から飛び込んでくる。
こずえのベースが、その下を支えていた。
徹はふっと息を吐いた。
一人で歌っているわけじゃない。
いつもと同じだ。
四人の音がある。
少し高い音へ入る。
声が出た。
さらにもう一つ。
届く。
春子を見ると、演奏しながら笑っていた。
その顔につられて、徹まで笑ってしまう。
(……なんだ)
指が軽くなる。
(楽しいじゃないか)
家で一人で歌うのとは違う。
自分の声にドラムが重なる。
ギターが追いかけてくる。
目の前には、それを聞いている人たちがいる。
徹はいつの間にか、失敗しないことより演奏そのものを楽しんでいた。
そして最後。
ジャァァン!
音が止まる。
一瞬の間。
パチ、パチ、パチ。
前方から始まった拍手が、一気に広がった。
パチパチパチパチッ!
「おおー!」
声まで飛んでくる。
「……すごいな」
思わず漏れた。
家で歌っても、こんな音は返ってこない。
「徹!」
春子が呼ぶ。
振り向くと、親指を立てている。
「いけたじゃん」
「もう歌わないけどな」
「もったいない」
「一曲で十分」
二曲目は、春樹が加入する前から演奏してきたインスト曲だった。
ここからは、徹もいつもの役割へ戻る。
達也がカウントを取り、演奏が始まった。
歌がない分、春子のギターと徹のキーボードが前へ出る。
何度も演奏してきた曲だ。
身体が勝手に次の音を覚えている。
その間、春樹はステージ脇にいた。
喉を休めながらも、落ち着かない様子で何度も手を握ったり開いたりしている。
次は自分だ。
徹にも、それが分かった。
二曲目が後半へ入った時だった。
体育館の後ろが、わずかにざわついた。
演奏中なのに、何人かの生徒が同じ方向を振り返る。
(何だ?)
徹も鍵盤を弾きながら視線だけを向けた。
後方の扉が開いていた。
そこに一人の女の子が立っている。
「……葵」
すぐに分かった。
撮影帰りなのだろう。
髪はいつも以上に綺麗に整えられ、化粧もしている。服装も普段会う葵より大人びて見えた。
文化祭の体育館では、明らかに目立つ。
「あれ……」
「如月葵じゃない?」
後ろの方でそんな声まで上がっている。
けれど本人は、それどころではないらしい。
肩で息をしていた。
急いで走ってきたのだろう。
葵は入口で立ち止まると、体育館の中を見渡した。
そしてステージを見る。
徹と目が合った。
葵の表情が変わった。
胸に手を当て、ほっとしたように笑う。
声なんて聞こえない。
それでも分かった。
間に合った。
そう言っている。
徹も思わず笑った。
来てくれた。
ただそれだけなのに、妙に嬉しかった。
その時、春子が一瞬だけ徹を見た。
そして徹の視線を追うように、体育館の後ろを見る。
葵を見つけた春子の表情が、ほんの少しだけ変わった。
だが何も言わない。
ジャァァン!
二曲目が終わった。
拍手が響く中、春樹がゆっくりとマイクの前へ出てくる。
さっきまでのざわめきが、徹の中から消えた。
ここからだ。
「春樹」
声をかける。
「いける?」
「……分からない」
「そりゃそうか」
「でも」
春樹がマイクを握った。
「やるよ」
徹は頷いた。
「五人でな」
春樹が一度だけ深く息を吸った。
三曲目。
『もしあの時』
達也がスティックを上げる。
カッ、カッ、カッ、カッ。
演奏が始まった。
春子のギターが静かに入る。
こずえのベース。
徹のキーボード。
春樹が息を吸った。
歌声が出る。
以前とは違った。
少し低い。
ところどころ掠れている。
でも、出ている。
(大丈夫)
徹は鍵盤を弾きながら春樹を見る。
問題の場所が近づいてきた。
昼間、何度も失敗した部分。
春子も分かっている。
達也も。
こずえも。
五人だけが知っている。
ここだ。
春樹の声が上がる。
「っ……」
掠れた。
一瞬、音が揺らぐ。
春樹の目に焦りが浮かんだ。
選考会の時の光景が、徹の頭をよぎる。
だが。
ドンッ!
達也のドラムは止まらない。
こずえも弾き続ける。
春子が春樹を見たまま、ギターを鳴らす。
ジャッ。
徹も鍵盤から指を離さない。
(そのまま行け)
声には出せない。
それでも伝わったのか。
春樹が、昼間に作り直したメロディーへ入った。
高い音を追わない。
今の自分が出せる音へ降りてくる。
声が乗った。
今度は掠れない。
春樹の顔から焦りが消えた。
そして少しだけ笑った。
そこからだった。
声が変わった。
いや。
声そのものは変わったままだ。
春樹が、その声を受け入れたのだ。
以前の声を出そうとしない。
今出せる声で歌う。
少し低く、少し荒い。
それが不思議なくらい『もしあの時』に合っていた。
春子のギターが強くなる。
達也のドラムが押す。
こずえのベースが揺れない。
徹も音を重ねた。
途中、春子の入りがほんの少し遅れた。
達也がすぐに合わせる。
徹も一度、変更した部分で指が迷った。
今度は春子のギターが引っ張ってくれた。
完璧じゃない。
でも、止まらない。
(あの時とは違う)
選考会では、一人が崩れたことで全員が崩れた。
今日は違う。
一人が揺れたら、残りの四人が支える。
誰かが迷ったら、隣の音が連れていく。
五人で演奏するということが、徹にはようやく分かった気がした。
最後の部分へ入る。
春樹がマイクを強く握った。
声が少し掠れる。
それでも歌い切る。
達也が最後の一打へ入った。
ドンッ!
春子とこずえの弦が震える。
徹の両手が鍵盤を叩く。
ジャァァァン……!
音が体育館いっぱいに広がった。
五人とも動かなかった。
一秒。
二秒。
次の瞬間。
わああああっ!
パチパチパチパチパチッ!
体育館が、一気に音で満たされた。
春樹がマイクを握ったまま、呆然と客席を見る。
「……終わった」
達也が椅子から立ち上がる。
「やったぞ!」
「達也、まだステージ!」
春子が笑う。
「いいだろ! 最後までいったんだから!」
こずえも、珍しく声を出して笑った。
徹は鍵盤から手を離した。
指先が少し震えている。
失敗したところもあった。
危ない瞬間もあった。
完璧なんかじゃない。
でも。
「ありがとうございました!」
春樹の少し掠れた声が、体育館に響いた。
五人で並び、頭を下げる。
拍手が降ってくる。
顔を上げると、由香里が嬉しそうに手を叩いていた。
その隣では父と優子も、ステージへ拍手を送っている。
少し離れたところには恒一がいた。徹と目が合うと、大きく手を振ってくる。その隣で佳奈も、楽しそうに拍手を送っていた。
そして一番後ろ。
葵がいた。
まだ少し息を整えながら、両手を叩いている。
目が合うと、その表情がふっと緩んだ。
間に合ってよかった。
そんな気持ちが伝わってくるような笑顔だった。
徹は隣を見る。
達也は興奮したままスティックを握り、こずえはほっとしたように頬を緩めている。春樹はマイクを握ったまま大きく息を吐き、春子はギターを抱えて満足そうに客席を眺めていた。
みんな汗だくだった。
完璧な演奏じゃなかった。
それでも、最後まで五人でやり切った。
「……楽しかったな」
気づけば、そんな言葉が口から出ていた。
「何?」
春子が振り向く。
「文化祭って、楽しいな」
春子は一瞬きょとんとしたあと、口元を緩めた。
「今さら?」
「今さら」
徹もつられて頬を緩める。
去年とは違う。
前の人生とも違う。
いつもなら、この先のことを考えている。
高校のこと。大学のこと。そのもっと先にある、自分がやりたいこと。
けれど今だけは、そんな未来のことは頭になかった。
体育館を満たす拍手と、隣にいる仲間たち。
客席には、見に来てくれた人たちがいる。
それだけで十分だった。
徹はもう一度、鳴り止まない拍手を聞いた。
今、この場所にいることが楽しかった。
完璧ではなかった。
それでも、五人で最後までやり切った文化祭ライブ。
そして仕事を終え、なんとか最後の一曲に間に合った葵。
徹にとっても、未来のためではなく「今」を心から楽しめた一日になりました。
……ただし葵はまだ知りません。
一曲目で徹が歌ったことを。




