第58話 予定外の音
いよいよ文化祭当日。
去年とはまったく違う気持ちで、この日を迎えた徹。
DIGITAL FANTASYも本番へ向けて準備万端……のはずでした。
ところが、ステージ直前に思わぬ異変が。
予定通りにはいかない文化祭が始まります。
十月二十六日、土曜日。
朝から学校は、普段とはまるで違う顔をしていた。
校門には色とりどりの紙で作られた飾りが並び、廊下には各クラスの看板が立て掛けられている。教室からは机を動かす音や笑い声が聞こえ、どこからか焼きそばの匂いまで漂ってきた。
文化祭。
徹にとって、中学校で迎える二度目の文化祭だった。
去年は十一月。
母の手術が終わったばかりで、徹の頭の中には病院のことがずっと残っていた。
クラスの喫茶店を手伝い、葵と校内を回り、春子たちの演奏も見た。
楽しかった。
けれど、どこか心の片隅にはいつも母のことがあった。
何より、本来なら自分も立っていたかもしれない軽音部のステージを、あの日は客席から見ていた。
今年は違う。
「徹!」
後ろから呼ばれ、振り返る。
ギターケースを背負った春子が小走りで追いついてきた。
「おはよう」
「おはよう。ちゃんとキーボード持ってきた?」
「持ってきたよ。忘れるわけないだろ」
「だって今日、達也がスティック忘れそうになったんだよ」
「まだ家出る前に気づいたんだからセーフだろ!」
少し離れたところから達也の声が飛んできた。
「聞こえてたのかよ」
「聞こえるように言ったからね」
春子が笑う。
その隣では、こずえがベースケースを抱えて静かに歩いていた。
「……今日は人、多いね」
「文化祭だからな」
「緊張してきた」
「こずえまで?」
「少しだけ」
そんな話をしていると、昇降口の前に春樹が立っているのが見えた。
「おはよう」
徹が声をかける。
「おはよう」
返事を聞いて、わずかに違和感を覚えた。
「春樹、声変じゃない?」
春子も気づいたらしい。
「やっぱり?」
春樹が喉に手を当てる。
「朝からちょっと変なんだよね」
「風邪?」
「喉は痛くないし、熱もないよ」
普通に話せてはいる。
ただ、いつもの声より少し掠れているようにも聞こえた。
「本番前にやめてくれよ」
達也が冗談めかして言う。
「僕だって好きでこうなってるんじゃないよ」
「まあ、まだ午後まで時間あるし」
徹が時計を見る。
軽音部の演奏は午後。
しかもDIGITAL FANTASYは八組中、最後だった。
出演順を決めた日のことを思い出す。
箱の中へ手を突っ込んだ達也が紙を一枚引き抜き、開いた瞬間だった。
『八番』
『うわ、俺たち最後じゃん!』
『達也、なんで八番引くのよ』
『俺のせいかよ!』
結局、くじ引きだけで文化祭のトリを務めることになった。
その時は春樹が一番嫌そうな顔をしていたが、今となっては最後で助かったのかもしれない。
「午前中はなるべく喋らない方がいいんじゃない?」
春子が言う。
「そうする」
「達也も話しかけないように」
「なんで俺だけ?」
「一番どうでもいい話するから」
「ひどくない?」
いつものやり取りに笑いが起きた。
この時はまだ、誰もそれほど深刻には考えていなかった。
同じ頃。
都内のスタジオで、葵は鏡の前に座っていた。
雑誌の撮影だった。
スタッフが髪を整える間にも、葵の視線は何度も壁の時計へ向かう。
「葵」
後ろから声がした。
鏡越しに桜田由佳と目が合う。
「時計、穴が開くわよ」
「見てただけです」
「さっきから何回目?」
葵は少しだけ頬を膨らませた。
「今日、予定通り終わりますよね?」
「予定ではね」
「その言い方、嫌なんですけど」
由佳は小さく笑った。
「ちゃんと終われば間に合うんでしょう?」
「徹くんたち、最後なんです。だから大丈夫です」
言いながら、葵はもう一度時計を見た。
昼を過ぎると、軽音部のメンバーは音楽室へ集まった。
本番前、最後の音合わせ。
「一回だけ通すぞ」
五十嵐先生が腕時計を見る。
「体力使いすぎるなよ。特に後藤」
「はい」
春樹がマイクの前へ立つ。
文化祭で演奏するのは三曲。
一曲目は、小田和正の『ラブ・ストーリーは突然に』。
二曲目は、春樹が入る以前から演奏していたインスト曲。
そして最後が、五人で作った『もしあの時』。
「じゃ、行くぞ」
達也がスティックを鳴らす。
演奏が始まった。
イントロは問題ない。
春子のギター。
こずえのベース。
達也のドラム。
徹のキーボード。
いつも通りだ。
春樹が歌い始める。
最初も悪くなかった。
だが、少し高い音へ上がった瞬間だった。
「っ……」
声がひっくり返った。
春樹自身が驚いた顔をする。
演奏が止まった。
「今の何?」
達也が尋ねる。
「分かんない」
「もう一回そこだけ」
春子がギターを構える。
同じ部分からやり直す。
春樹が息を吸う。
歌う。
そして高音へ入った瞬間。
今度は声そのものが出なかった。
「……え?」
春樹の顔から血の気が引いた。
「もう一回」
三度目。
また駄目だった。
「なんで……」
春樹が喉を押さえる。
「昨日まで普通に出てたんだよ」
徹も近づいた。
「痛くない?」
「全然」
「咳は?」
「ない」
五十嵐先生が春樹の前へ来た。
「後藤。ちょっと普通に喋ってみろ」
「普通にって?」
「何でもいい」
「今日、文化祭で、その……」
春樹が話す。
五十嵐は少し考えたあと、眉を上げた。
「これ、風邪じゃないかもしれないな」
「え?」
「声変わりじゃないか?」
一瞬、全員が黙った。
「……今日?」
達也が真顔で聞く。
「僕に聞かないでよ!」
春樹が思わず声を上げ、その声まで少し掠れた。
笑いそうになったが、誰も笑えなかった。
春樹にとっては洒落にならない。
「先生、これ戻りますか?」
「今日中には無理だろうな」
「そんな……」
春樹が俯く。
本番まで数時間。
根性でどうにかできる問題ではなかった。
徹はキーボードへ視線を向けた。
一曲目は高い音が多い。
今の春樹には厳しい。
「徹」
突然、春子が言った。
「何?」
「一曲目、歌えるよね?」
「俺?」
「家で歌いながら弾いてるって言ってたじゃん」
全員の視線が集まる。
「歌えるけど……」
徹は思わず喉へ手を当てた。
まだ自分には、本格的な声変わりは来ていない。
高い音も出る。
「ちょっと歌ってみて」
「今?」
「今しかないでしょ」
仕方なくマイクの前へ立つ。
徹がキーボードを弾きながら歌う。
上手いわけではない。
春樹ほど声に力があるわけでもない。
それでも音程は外さず、高音も届いた。
春子が頷く。
「いける」
達也も笑った。
「一曲目、徹でいいじゃん」
「簡単に言うなよ」
「じゃあ二曲目はインストだから問題なし」
残るのは最後。
『もしあの時』。
「これは」
春樹が顔を上げた。
「僕が歌いたい」
いつもより低くなった声だった。
「春樹」
「これは五人で初めて作った歌だろ」
春樹はマイクを握り直した。
「最後だけは、僕が歌いたい」
徹は少し考え、頷いた。
「じゃあ変えよう」
「キー?」
「いや、キーはそのまま」
徹は楽譜を開く。
「高く跳ねるところだけ、メロディーを変える」
春子がすぐにギターを鳴らした。
「だったらここ、少し抑えた方がいいかも」
「ドラムも変える?」
「サビ前だけ」
達也がスティックでリズムを刻む。
「……ベース、こっちの方が合うかも」
こずえも音を変える。
急造だった。
けれど、一人で直しているわけではない。
五人で音を探している。
春樹が今出せる声。
その声に合う旋律。
春子のギターがそこへ寄り添い、達也とこずえが土台を変え、徹がキーボードで隙間を埋めていく。
何度か繰り返すうちに、別の形が見えてきた。
徹は思わず笑った。
「何?」
春子が聞く。
「いや」
楽譜を見る。
『もしあの時』。
別の道を選んでいたら。
そんな歌を作った。
そして今、その歌自身が予定とは違う道へ進んでいる。
「この曲らしいなと思って」
「何が?」
「予定通りじゃないところ」
春子は一瞬きょとんとしたあと、笑った。
「確かに」
午後二時過ぎ。
「すみません、もう一パターンお願いします!」
撮影スタッフの声に、葵が一瞬だけ目を閉じた。
予定より、もう三十分以上押していた。
由佳が近づく。
「葵」
「分かってます」
葵は小さく息を吐いた。
「今はこっちですよね」
「そう」
由佳はそれ以上何も言わなかった。
葵は笑顔を作り、カメラの前へ戻る。
けれど撮影が終わった瞬間、真っ先に時計を見た。
「桜田さん!」
「分かってる。行くわよ」
二人は急いでスタジオを出た。
体育館では、六組目の演奏が終わろうとしていた。
舞台袖で徹たちは楽器を確認する。
遠くから歓声が聞こえる。
「次が七組目」
五十嵐先生が言った。
「その次、お前らだ」
春樹が静かに息を吐く。
徹も自分の喉へ手を当てた。
まさか文化祭当日に、自分が歌うことになるとは思わなかった。
予定通りだったことなど、一つもない。
でも。
それでもステージには立てる。
「DIGITAL FANTASY」
五十嵐先生が振り返った。
「準備しろ。次だ」
「はい!」
五人が動き出す。
同じ頃。
車の後部座席で、葵は腕時計を見つめていた。
「桜田さん、あとどれくらいですか?」
「さっきから五分おきに聞いてるわよ」
「だって……」
由佳が前方を見る。
車の列が続いている。
「信号は私には動かせないの」
「分かってますけど……」
葵は窓の外へ目を向けた。
学校は、まだ見えない。
「徹くん……」
小さく呟き、もう一度時計を見る。
「始まっちゃう……」
まさかの文化祭当日に春樹の声変わり。
急遽、徹が一曲目のボーカルを務めることになりました。
そして、徹たちのステージを見るため学校へ急ぐ葵。
果たして間に合うのか。
次回、いよいよDIGITAL FANTASYの文化祭ライブです!




