第55話 選ばれる音
文化祭に向けた軽音部の部内選考。
春樹が加わったDIGITAL FANTASYにとって、五人で挑む初めての審査です。
そして徹たちの音を初めて本気で聴いた五十嵐先生は……。
放課後の音楽室は、いつもより落ち着かない空気に包まれていた。
壁際にはギターケースやベースケースが並び、アンプの周りでは出番を待つ生徒たちが小声で話している。ドラムの椅子に座ってスティックを回している者もいれば、何度もコードを確認している者もいた。
今日は文化祭で演奏するバンドを決める部内選考の日だ。
出演を希望したのは十組。
けれど、文化祭のステージで軽音部に与えられた時間を考えると、出られるのは八組までだった。
「じゃあ、始めるぞ」
前に立った五十嵐先生が、ざわつく部員たちを見渡した。
三十二歳の社会科教師で、軽音部の顧問。普段は冗談も通じる話しやすい先生だが、今日は手に評価用の紙とペンを持っている。
若い頃には自分でもバンドをやっていたらしい。
「先に言っておくけど、単純に演奏が上手い順で決めるつもりはないからな」
何人かが顔を上げる。
「文化祭は発表会じゃない。最後までちゃんと演奏できるか、それから見てる生徒が楽しめるか。そこも含めて俺が決める」
最後までちゃんと演奏できるか。
その言葉を聞いたとき、隣にいた春樹が小さく唾を飲み込んだ。
「後藤くん、緊張してる?」
春子がすぐに気づく。
「してないよ」
「してる顔だけど」
「桐谷さんは緊張しなさすぎなんだよ」
「私たち七番目だよ?」
「だからだよ。待ってる時間が長いんだって」
春樹はそう言いながら、膝の上で何度も指を動かしていた。
一組目の演奏が始まった。
俺は壁にもたれ、順番を待ちながら他のバンドの音を聞く。
一年生中心のバンドは少し危なっかしかった。ギターが走り、それにつられてベースまで速くなる。それでも勢いはあるし、文化祭なら盛り上がりそうだ。
二組目、三組目と続いていく。
四組目の三年生バンドはかなり上手かった。
ボーカルは安定しているし、ドラムも崩れない。ギターの音作りもしっかりしている。
「うまいね」
春子が感心したように呟く。
「うん。かなり練習してると思う」
「徹でもそう思うんだ」
「俺を何だと思ってるんだよ」
春子が小さく笑った。
五組、六組と聞いていくうちに、俺の中では別の感覚も大きくなっていた。
上手いバンドはいる。
俺たちより技術がある先輩だっている。
それでも。
間違いない。
俺たちが一番だ。
別に仲間びいきでそう思っているわけじゃない。
音が違う。
俺は前の人生で、この時代よりずっと先まで音楽を聴いてきた。
リズムの組み方、曲の展開、キーボードの使い方。自分では当たり前だと思っている感覚を少しずつ持ち込み、それを春子たちと一年以上かけて形にしてきた。
最初は四人。
そこへ春樹の声が加わった。
技術だけなら負ける部分はある。
でも、この五人で出す音なら。
「次。DIGITAL FANTASY」
五十嵐先生の声が飛んできた。
「よし、行くぞ」
達也が立ち上がる。
春子はギターを肩にかけ、こずえもベースを抱えた。
春樹だけが座ったままだ。
「春樹?」
俺が呼ぶと、ようやく立ち上がった。
「……大丈夫」
「まだ何も聞いてないけど」
「顔見たら分かるよ。大丈夫だから」
全然大丈夫そうには見えなかった。
マイクの前に立つと、さらに表情が硬くなった。
いつもなら曲について誰より喋る男が、今日は何も言わない。
「曲名は?」
五十嵐先生が聞く。
「『もしあの時』です」
俺が答えた。
「オリジナルか?」
「はい」
「そうか。じゃあ始めてくれ」
達也がスティックを打ち合わせる。
カッ、カッ、カッ、カッ。
俺の指が鍵盤に触れた。
何度も練習してきたイントロ。
春子のギターが入り、こずえのベースが下から支える。達也のドラムもいつも通りだった。
問題ない。
八小節。
次から春樹だ。
俺は鍵盤を弾きながら、一瞬だけ横を見る。
春樹がマイクを握っている。
歌い出しの一拍前。
大きく息を吸った。
「……っ」
声が出ない。
一拍が過ぎた。
春樹の目が大きくなる。
二拍。
「……もし……」
ようやく声が出た。
けれど遅れている。
春樹自身も分かったのだろう。遅れを取り戻そうとして、今度は歌が一気に走った。
達也が春樹に合わせようとテンポを落とす。
春子は元のテンポのまま弾いている。
ギターとドラムがずれた。
こずえが春子と達也を交互に見る。
俺もどちらに合わせるべきか、一瞬迷った。
まずい。
五人の音が、バラバラになっていく。
「ご、ごめん! ストップ!」
春樹が叫んだ。
俺は鍵盤から手を離した。
春子のギターも止まり、最後に達也のシンバルだけが、シャァァン……と長く音楽室に残った。
静かだった。
春樹はマイクを握ったまま俯いている。
「はっ……はっ……」
走ったわけでもないのに、肩が上下していた。
「……ごめん」
春樹が呟く。
「ほんと、ごめん。最初に入れなくて、それで取り返そうとして……田崎くんが合わせてくれたのに、俺がまた走って……」
「春樹」
「俺のせいで全部ずれた」
マイクを握る指が震えている。
春樹は顔を上げた。
その視線の先で、五十嵐先生が時計を確認していた。
まだ三組残っている。
このまま終わっちゃう。
春樹にも、それが頭をよぎったんだと思う。
「先生!」
声が裏返った。
春樹自身が一瞬驚いた顔をしたが、それでも続けた。
「すみません。もう一回、お願いします!」
五十嵐先生はすぐには答えなかった。
「後藤。本番なら今ので終わりだぞ」
「分かってます」
「時間も決まってる」
「はい。でも……お願いします。もう一回だけやらせてください」
春樹が頭を下げた。
五十嵐先生が時計を見る。
それから後ろで待っている三組を確認した。
「一回だけだぞ」
「ありがとうございます!」
春樹が勢いよく頭を上げた。
「よかったね」
春子が笑う。
「今度はちゃんと入ってよ」
「桐谷さん、今それ言う?」
「それだけ喋れるなら大丈夫でしょ」
「春子、容赦ないな」
達也が笑う。
「田崎くんまで……」
春樹の口元が少しだけ緩んだ。
俺は鍵盤の前から春樹を見る。
「春樹」
「何?」
「今のはもう忘れよう」
「そんな簡単に忘れられる?」
「もう一回失敗したんだから」
「……え?」
「最初から完璧にやらなきゃって緊張する必要、もうないでしょ」
春樹がぽかんとする。
やがて、肩から少し力が抜けた。
「徹って、たまに変な励まし方するよね」
「効いた?」
「……ちょっとだけ」
「ならいいよ」
達也がスティックを構えた。
「今度は五人で最後まで行くぞ」
「うん」
春樹がマイクを握り直した。
カッ、カッ、カッ、カッ。
二回目のイントロ。
春子のギターが鳴る。
こずえのベースが重なり、達也のドラムが前へ押し出す。
俺の指も鍵盤を走った。
さっきよりいい。
八小節。
春樹が息を吸った。
今度は見ない。
そのまま鍵盤を弾いた。
次の瞬間。
春樹の声が、四人の音の真ん中へ飛び込んできた。
よし来た。
ぴったりだった。
しかも、練習のときより声が出ている。
最初のフレーズを歌い切った春樹の姿勢が変わった。
縮こまっていた肩が開く。
顔が上がる。
次のフレーズでは、さらに声が伸びた。
達也が反応する。
ドラムが強くなる。
春子も楽しそうに身体を揺らしながらギターを弾いている。
こずえまで、ベースのリズムに合わせて小さく肩を動かしていた。
俺の指も勝手に動く。
すごく楽しい。
何度も練習してきた曲なのに、今日はまるで別の曲のようだった。
一人が弾けると、ほかの四人まで引っ張られる。
これだ。
俺がさっきまで感じていた確信が、音になって返ってくる。
やっぱり俺たちは強い。
サビへ入ったところで、前を見る。
五十嵐先生のペンが止まっていた。
それまでのバンドでは演奏を聞きながら何かを書き続けていたのに、今は紙を見ていない。
俺たちを見ている。
眉を寄せていた。
でも、嫌そうな顔じゃない。
知らないものを見つけたような顔だった。
今は一九九一年。
俺にとって聞き慣れた音でも、この時代では違う。
まして、演奏しているのは中学生だ。
最後のサビを春樹が歌い切る。
達也がシンバルを鳴らし、俺は最後のコードを伸ばした。
ジャァァン……。
音が消えていく。
春樹はマイクの前で息を切らしていた。
さっきとは違う。
全部出し切った顔をしている。
五十嵐先生は何も言わない。
「……先生?」
達也が恐る恐る呼ぶ。
「ちょっと待て」
五十嵐先生が眉間を指で押さえた。
「今、整理してる」
「何をですか?」
「お前らの音をだよ」
先生が俺たちを見る。
「俺も昔バンドやってたし、それなりに音楽は聴いてきたつもりなんだけどな」
視線が最後に俺のキーボードへ向いた。
「何だよ、この音」
春子たちが一斉に俺を見る。
だから俺を見るな。
「みんなでいろいろ試してたら、こうなりました」
「試してたら?」
「はい」
「……本当か?」
五十嵐先生はまったく納得していない。
「聞いたことがありそうで、聞いたことがない。特にキーボードの使い方と曲の展開が妙に新しいんだよな」
やっぱり、分かる人には分かるらしい。
「それと歌詞。誰が書いたんだ?」
「俺です」
「長浜が?」
「はい」
先生がしばらく俺を見る。
「お前、本当に中学二年か?」
「先生までそれ言うんですか」
春子が吹き出した。
「やっぱりみんな思うんじゃん」
「俺も前に言ったぞ」
「達也は黙ってて」
笑いが起きる。
さっきまで青い顔をしていた春樹まで笑っていた。
残り三組の演奏が終わる頃には、窓の外は薄暗くなっていた。
五十嵐先生が前に立つ。
「文化祭に出てもらう八組を発表する」
一組ずつ名前が呼ばれる。
五組。
六組。
DIGITAL FANTASYはまだ呼ばれない。
春樹の膝がまた揺れ始めた。
「やっぱり最初の失敗が響いたかな……」
「きっと大丈夫だよ」
「でも」
「春樹」
俺は今日聞いた九組の演奏を思い返した。
「俺たちが一番だったよ」
「……よくそんな自信持てるね」
「全部聞いてたからね」
春樹が何か言いかけたところで、五十嵐先生の声が響いた。
「DIGITAL FANTASY」
「よっしゃ!」
達也が拳を上げる。
「田崎、うるさいぞ」
「すみません!」
春子が笑い、こずえも胸に手を当てて息を吐いた。
春樹は天井を見上げていた。
片付けを始めたところで、五十嵐先生が春樹を呼び止める。
「後藤」
「はい」
「本番に二回目はないからな」
春樹の表情が引き締まった。
「はい」
「でも、二回目はよかった。今日の感覚、忘れるなよ」
「……はい!」
「それと長浜」
「何ですか?」
五十嵐先生が、まだ何か腑に落ちないような顔で俺を見る。
「その音、文化祭までにもっと仕上げてこいよ」
「分かりました」
「俺も、もう一回ちゃんと聞きたい」
その言葉に、春子と達也が嬉しそうに顔を見合わせる。
文化祭への出場が決まった。
春樹が加わって、五人で初めて作った曲『もしあの時』。
次は、もっと大勢の前で演奏する。
それも楽しみだったが、一つだけ予定外のことが起きた。
どうやら五十嵐先生は、俺たちの音がかなり気になったらしい。
この時代には、ほんの少しだけ早い音が。
春樹、まさかの出だし失敗。
でも、一度失敗したからこそ吹っ切れた二回目。五人の音が初めて一つになった瞬間でもありました。
そして五十嵐先生が感じた、1991年には少し早いDIGITAL FANTASYのサウンド。
無事に文化祭への出場も決定。
ここから五人で『もしあの時』をさらに仕上げていきます。




