■ 第5話 知っていた名前
知っていたはずのことが、
別の人生で見ると、まったく違う意味を持つことがある。
母の名前。
家の場所。
そして、何気なく聞き流していた旧姓。
それはただの偶然か。
それとも、最初から繋がっていたのか。
恒一の家へ行くことは、それから何度か続いた。
最初こそ、玄関をくぐるたびに胸が締めつけられた。
若い母の声。
懐かしい部屋の匂い。
昔の自分が、当たり前のようにそこにいる光景。
そのすべてが、俺にとっては現実離れしていた。
けれど、子供の時間というものは不思議だ。
一緒に遊び、同じおやつを食べ、同じように笑っているうちに、少しずつその異常さにも慣れていった。
いや、慣れたというより、受け入れざるを得なかったのかもしれない。
今の俺は長浜徹。
黒沢恒一の友達。
それが、この時代での俺の立場だった。
「とおる、これ見て」
恒一が画用紙を差し出してくる。
そこには、赤い車が描かれていた。
タイヤは少しいびつで、窓も傾いている。
けれど、線には妙な勢いがある。
俺はそれを見て、思わず笑いそうになった。
覚えている。
昔の俺は、車を描くのが好きだった。
それも、なぜか赤い車ばかり。
「うまいじゃん」
「ほんと?」
「ほんと」
恒一は照れたように笑った。
その顔を見るたびに、胸の奥がざわつく。
やはり、こいつは俺だ。
仕草も、好みも、変なところで意地を張るところも。
ただ、外から見るとよく分かる。
幼い頃の俺は、思っていたよりも不器用で、思っていたよりも寂しがりだった。
そのことに気づくたび、少しだけ苦しくなる。
「徹くんって、不思議ね」
台所から戻ってきた和子が、ふとそんなことを言った。
俺は顔を上げる。
「なにが?」
「ううん。初めて会った気がしないっていうか……恒一のこと、昔から知ってるみたいに見えるの」
心臓が小さく跳ねた。
俺は笑ってごまかす。
「なかよしだから」
「そうね」
和子は優しく笑った。
その笑顔が、前の人生の母そのものだった。
思わず、言いそうになる。
母さん。
その言葉を、必死に飲み込んだ。
帰り道、俺はずっと考えていた。
俺は未来を変えていいのか。
恒一と関われば、当然何かが変わる。
友達関係。
性格。
進む道。
それが良い方向なのか、悪い方向なのかは分からない。
けれど、何もしないで見ていることはできなかった。
前の人生で失ったものを、もう一度目の前にしている。
母も、家も、幼い自分も。
今度こそ、何かを守れるのなら。
そう思ってしまった時点で、俺はもう傍観者ではいられなかった。
家に帰ると、由香里が洗濯物をたたんでいた。
「おかえり、徹。楽しかった?」
「うん。こういちくんの家、行った」
「あら、また黒沢さんのおうち?」
その言い方に、少しだけ引っかかった。
「知ってるの?」
「直接はあまり知らないけどね。黒沢さんのお母さん、たしか和子さんって言ったかしら」
俺は黙った。
由香里は懐かしそうに目を細める。
「お母さんから少し聞いたことがあるの。うちの親戚筋に、黒沢へ嫁いだ人がいるって」
胸の奥が、じわりと重くなる。
親戚筋。
その言葉は、前の人生ではほとんど気にしたことがなかった。
母の旧姓は知っていた。
黒沢和子。
旧姓、石丸和子。
もちろん知っている。
息子だったのだから。
だが、今の母である長浜由香里が次に言った言葉で、俺の中の点が繋がり始めた。
「私の旧姓も、石丸なのよ」
知っていた名前だった。
驚くほどのことではない。
石丸という名字を、俺は前から知っている。
けれど、今は違う。
黒沢和子も、石丸。
長浜由香里も、石丸。
そして俺は、黒沢恒一として死に、長浜徹として生まれた。
偶然。
そう片づけることもできる。
けれど、本当にそうか?
同じ年。
同じ町。
近い家。
そして、同じ血筋。
背筋に冷たいものが走った。
前の人生では、どうでもいいと思っていた。
親戚の話。
古い家の話。
母の旧姓。
そんなものに意味があるなんて、考えたこともなかった。
だけど今は違う。
俺は、何かに選ばれたのかもしれない。
いや。
選ばれたなんて綺麗なものではない。
引き戻された。
そんな感覚の方が近かった。
「どうしたの?」
由香里が不思議そうに俺を見る。
俺は慌てて首を振った。
「なんでもない」
「そう?」
由香里は少し笑って、また洗濯物に目を落とした。
その横顔は穏やかだった。
優しくて、温かい。
この人もまた、石丸の血を引いている。
そして俺も、今はその子供だ。
偶然のようで、偶然ではない。
そんな予感が、胸の奥で静かに膨らんでいく。
その夜。
布団の中で、俺は眠れずにいた。
黒沢和子。
石丸和子。
長浜由香里。
石丸由香里。
二つの家。
二人の母。
そして、その間にいる俺。
なぜ俺は、徹として生まれたのか。
なぜ、恒一のすぐ近くにいるのか。
なぜ、母とまた出会えたのか。
答えはまだ分からない。
けれど一つだけ、はっきりしたことがある。
この転生は、ただの偶然じゃない。
石丸という名前が、俺をここへ繋いでいる。
そう思った瞬間、胸の奥がざわついた。
まるで遠くから、誰かに呼ばれているような気がした。
まだ見えない。
まだ届かない。
けれど確かに、この人生の先に何かがある。
俺はその何かへ向かって、生き直している。
そしてその道はきっと、恒一だけではなく――
まだ知らない“君”へも、繋がっている。
第5話を読んでいただきありがとうございます。
今回は、徹と恒一の距離が近づく一方で、
黒沢家と長浜家の間にある繋がりが少し見え始める回でした。
石丸という旧姓。
前の人生では気にも留めなかった名前が、
徹として生きる今、別の意味を持ち始めます。
この繋がりが偶然なのか、それとも必然なのか。
物語は少しずつ、家族と血筋の秘密へ進んでいきます。
次回もよろしくお願いします。




