第40話 夢を計画に
ゴールデンウィークを迎え、徹はあらためて自分の未来と向き合います。
芸能プロダクションを作りたいという思いは以前からありましたが、葵のデビューをきっかけに、その夢は少しずつ具体的な計画へ変わっていきます。
二度目の人生だからこそ、今度は「いつか」で終わらせない。
そんな徹の新しい一歩を、ぜひ見届けてください。
五月三日。
ゴールデンウィーク初日の朝は、普段よりもゆっくりと始まった。
窓から差し込む日差しは明るく、庭の木々には春の柔らかな緑が広がっている。遠くから聞こえる子どもたちの声も、いつもの休日より少し浮き立っていた。
学校は四日間の休み。
軽音部の練習も、今日はない。
長浜徹は自室の机に教科書を広げていたが、ほとんど頭に入っていなかった。
部屋の隅では、ラジカセから『風のメロディ』が流れている。
何度も聴いた曲だった。
明るく軽やかな旋律の中に、知らない場所へ踏み出していく少女の不安と期待が込められている。
最初にカセットテープで聴いた時より、歌声は少しだけ整えられていた。それでも、葵らしい真っすぐさは失われていない。
徹は鉛筆を置き、机の上に飾ってあるCDへ目を向けた。
如月葵。
その名前が印刷された一枚のCDが、今では全国のどこかに並んでいる。
けれど、発売日に回った店のうち、二軒には置かれていなかった。見つけた三軒目でも、棚の一番下に数枚だけだった。
デビューさえすれば、すぐに大勢の人へ歌が届く。
どこかで、そんなふうに考えていたのかもしれない。
だが、現実は違った。
どれほどいい歌でも、存在を知られなければ聴いてもらえない。
歌手本人が頑張るだけでも足りない。
そして先日のパーティーでは、葵が水着のグラビア撮影を前に、不安を口にしていた。
歌を届けるために、本人が望んでいたことだけをすればいいわけではない。
徹は流れている曲を聴きながら、前の人生を思い返した。
四十九歳の頃、自分はレイナの歌手活動を支えていた。
ライブ会場を探し、宣伝を手伝い、少しでも多くの人へ歌が届く方法を一緒に考えた。
まったくの素人だったわけではない。
だが、あの頃と今では、音楽を取り巻く環境があまりにも違う。
前の人生では、インターネットがあった。
動画を公開し、個人でも多くの人へ歌を届けられた。宣伝にはSNSを使い、離れた場所にいる人とも、簡単につながることができた。
しかし、今は一九九一年。
中心にあるのはテレビ、ラジオ、雑誌、そしてCDだ。
音楽番組へ出演するにも、ラジオで曲を流してもらうにも、雑誌で取り上げてもらうにも、本人の力だけではどうにもならない。
芸能プロダクション。
レコード会社。
広告代理店。
テレビ局。
作詞家や作曲家、編曲家。
マネージャーやカメラマン。
いくつもの人と会社が関わり、その中で歌手の未来が作られていく。
「知らないことが多すぎるな……」
徹は小さく呟いた。
芸能プロダクションを作りたい。
その思いは、今初めて生まれたものではない。
二度目の人生を歩き始め、もう一度音楽に関わるようになってから、ずっと心のどこかにあった。
前の人生で果たせなかったことを、今度こそ実現したい。
歌手を目指す人が、歌うことだけに集中できる場所を作りたい。
そして、葵のように夢を追う人を、そばで支えたい。
だが、それは今まで、遠い未来に置いたままの願いだった。
いつか。
大人になったら。
できるようになったら。
曖昧な言葉ばかりで、そこへ向かう道筋を真剣に考えたことはなかった。
葵がデビューしたことで、ようやく気付いた。
時間は、待ってくれない。
自分が大人になる頃、葵はすでに何年も芸能界で活動している。
その時になって初めて勉強を始めても、遅いかもしれない。
徹は立ち上がった。
机の引き出しから財布を取り出し、階段を下りる。
「母さん、ちょっと本屋へ行ってくる」
居間で洗濯物を畳んでいた由香里が顔を上げた。
「勉強の本?」
「勉強ではあるかな」
「宿題なら、ちゃんと自分でやるのよ」
「そっちの勉強じゃないよ」
由香里は不思議そうな顔をしたが、深くは聞かなかった。
「お昼までには帰ってきなさい」
「分かった」
外へ出ると、五月の風が頬を撫でた。
商店街には家族連れが多く、菓子店や玩具店の前には子どもたちが集まっている。徹はその中を抜け、駅前の大きな書店へ向かった。
店内へ入ると、紙とインクの匂いがした。
最初に向かったのは音楽雑誌の棚だった。
人気歌手の写真が表紙を飾り、今月の売上順位や新曲情報、インタビュー記事が並んでいる。
徹は一冊を手に取り、目次を開いた。
歌手本人の記事だけではない。
楽曲を作った作詞家や作曲家、レコーディングを担当した音楽プロデューサーの名前も載っている。
別の雑誌には、レコード会社の新人発掘についての記事があった。
オーディション。
原盤制作。
宣伝費。
営業。
知らない言葉が次々と出てくる。
前の人生で音楽活動を手伝った経験はあっても、会社として歌手を売り出す仕組みまでは理解していなかった。
徹は気になる本を抱え、今度は経営関係の棚へ向かった。
会社の作り方。
経営の基本。
広告と宣伝。
中学生には難しすぎる内容も多かったが、今すぐすべて理解する必要はない。
分からないことが何かを知る。
まずは、そこからだった。
音楽雑誌を二冊と、初心者向けの経営入門書を一冊選び、会計を済ませる。
本を入れた紙袋は思っていたより重かった。
けれど、その重さが妙に心地よかった。
帰宅すると、徹は昼食を済ませてすぐ自室へ戻った。
机の上に買ってきた本を並べる。
そして、本棚の端に残っていた新しい大学ノートを一冊取り出した。
表紙を開きかけて、手を止める。
今まで考えていたことを、初めて文字にする。
ただの思いつきで終わらせないために。
徹は黒い油性ペンを持ち、表紙の中央へゆっくりと書いた。
『芸能プロダクション設立計画』
書き終えてから、しばらくその文字を見つめた。
大げさに見えた。
十四歳の中学生が書くには、あまりにも遠い目標だった。
それでも、消そうとは思わなかった。
一ページ目を開く。
最初に書いたのは年だった。
『二〇〇〇年』
自分が大学を卒業する年。
会社を作るなら、そこを最初の目標にする。
その下へ、必要だと思うものを書き並べていった。
『芸能界の仕組みを学ぶ』
『音楽の勉強』
『経営の勉強』
『資金』
『人材』
『レコード会社との関係』
『テレビ、ラジオ、雑誌での宣伝』
資金の横で、鉛筆が止まる。
普通に働いて貯金するだけでは、会社を作る資金には足りないかもしれない。
前の人生で覚えている競馬の結果を利用する方法もある。
もちろん、今の自分は馬券を買える年齢ではない。使えるのは、もっと先の話だ。
それまでに、どの競走を覚えているのか整理しておく必要がある。
記憶が薄れる前に、書き残さなければならない。
次に、人材という文字を丸で囲む。
歌手だけでは会社は成り立たない。
優秀なマネージャー。
作詞家。
作曲家。
編曲家。
そして、これから大きな影響力を持つプロデューサー。
未来で有名になる人物を知っていたとしても、今の彼らがどこにいるのかまでは分からない。
有名になる前に出会い、信頼を得る必要がある。
名前を知っているだけでは、人は動かせない。
未来の知識は近道になる。
だが、歩くのは自分自身だ。
徹はページの下へ、もう一つ書き加えた。
『この時代を知る』
前の人生の経験だけに頼ってはいけない。
一九九一年には、一九九一年の仕組みがある。
その中で人と出会い、信頼を積み重ねなければ、会社など作れない。
しばらくして、ノートの最初のページは文字で埋まった。
まだ計画と呼ぶには粗い。
資金がいくら必要なのかも、会社を作る手続きも、従業員をどう集めるのかも分からない。
けれど、昨日までとは違った。
頭の中に浮かんでいただけの夢に、年と項目が加わった。
徹はノートを閉じ、表紙をそっと撫でた。
夢は、前からあった。
今日生まれたわけではない。
ただ、遠くに霞んでいたものへ、初めて輪郭を与えた。
「二〇〇〇年か」
あと九年。
長いようで、きっとすぐに過ぎる。
前の人生で、自分は何度も「まだ時間がある」と思っていた。
そして気付いた時には、何も始めないまま多くの時間を失っていた。
今回は、同じことを繰り返さない。
今できることは小さい。
本を読む。
音楽を学ぶ。
未来の記憶を書き残す。
人を見る目を養う。
その一つ一つが、いつか会社を作るための土台になる。
ラジカセから『風のメロディ』の最後の旋律が流れた。
徹はCDのジャケットに写る葵を見つめる。
「待ってろよ」
誰に聞かせるでもなく、静かに呟いた。
葵の夢は、すでに動き始めている。
自分も、いつまでも遠くから眺めているだけではいられない。
五月の風が開いた窓から入り、机の上のノートをわずかに揺らした。
漠然としていた夢が、この日、初めて一つの目標へ変わった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
今回は、徹の中に以前からあった夢が、初めて明確な目標へ変わる回でした。
前の人生でレイナの歌手活動を支えた経験はあるものの、今は一九九一年。音楽の売り方も、宣伝の方法も、人とのつながり方もまったく違います。
未来を知っているだけでは足りない。
この時代を学び、資金を作り、人材を集め、少しずつ準備していく必要があります。
まだ十四歳の徹が書き始めた一冊のノート。その小さな一歩が、将来どんな芸能プロダクションへつながっていくのか。
ここから、徹自身の夢も本格的に動き始めます。




