第37話 新しい春
徹も二年生になり、それぞれが新しい春を迎えます。
少し穏やかな日常回ですが、葵にとっては大きな一歩となる春の始まりです。
ぜひ最後までお楽しみください。
四月。
朝の柔らかな陽射しが街を包み込み、満開だった桜は春風に乗って少しずつ花びらを散らしていた。通学路は淡い桃色のじゅうたんのようになり、新しい制服に身を包んだ学生たちが、それぞれ期待と少しの緊張を胸に歩いている。
長浜徹も、その中の一人だった。
新しい学年章を付けた制服に袖を通し、見慣れた坂道をゆっくりと上っていく。
一年前、この道を歩いた時は、中学校生活のすべてが初めてだった。
どんな先生なのか。
友達はできるのか。
軽音部はどんな場所なのか。
不安ばかりが頭をよぎっていたことを、昨日のことのように思い出す。
だが、この一年でたくさんの出来事があった。
春子や達也、こずえという仲間に出会い、一緒に音楽を楽しみ、文化祭ではステージにも立った。
そして何より、自分の人生を大きく変える少女と出会った。
如月葵。
あの日、病室で初めて言葉を交わした少女は、今ではかけがえのない存在になっている。
徹は桜並木を見上げ、小さく息を吸った。
「もう二年生か……。」
時間が過ぎるのは、本当に早い。
校門へ近付くにつれ、校庭からは新入生たちの初々しい声が聞こえてくる。
一年前の自分も、あんな顔をしていたのだろうか。
そんなことを思いながら昇降口へ向かうと、新しいクラス分けの掲示板には大勢の生徒が集まっていた。
「二組だ!」
「やった、一緒だ!」
「あー、離れちゃった。」
あちこちから歓声やため息が聞こえ、新年度らしい賑やかな空気が広がっている。
徹も自分の名前を探した。
ほどなくして見つけた。
二年二組。
「また一緒だね。」
後ろから聞き慣れた声がした。
振り返ると、春子が笑顔で立っていた。
「春子。」
「よかったぁ。今年も同じクラス。」
「俺も安心した。」
そこへ達也が肩を組むように割って入る。
「おいおい、俺を忘れてないか?」
「達也もか。」
「当然。」
胸を張る達也に、二人は思わず笑ってしまう。
さらに少し遅れて、息を切らしたこずえが駆け寄ってきた。
「待って、私も一緒!」
「こずえも二組?」
「うん!」
嬉しそうに何度も頷く。
「これで四人そろったね。」
「今年も賑やかになりそうだな。」
徹がそう言うと、達也がすぐに笑う。
「文化祭は去年以上だぞ。」
「まだ始まったばかりだろ。」
「今から考えとかないとな。」
春子が苦笑する。
「達也は相変わらずだね。」
四人は笑いながら教室へ向かった。
新しい教室には、まだ少し木の香りが残っていた。
窓際から見える桜は春風に揺れ、教室へ花びらが一枚舞い込んでくる。
始業式が終わり、新しい担任の自己紹介が始まる。
徹は先生の話を聞きながら、ふと窓の外へ目を向けた。
今日から葵も新しい生活を始めている。
高校一年生。
だが、普通の高校生活ではない。
芸能活動が本格的に始まり、レッスンやレコーディング、取材の日々。
入学式には出られたとしても、その後は学校へ通える日が少ないと聞いていた。
同じ春でも、自分とはまったく違う毎日を送っているのだろう。
それでも葵なら、きっと笑顔で頑張っている。
そう思うと、不思議と自分まで元気が湧いてくる。
放課後。
軽音部で少しだけ練習をして帰宅すると、玄関を開けた瞬間、夕食の支度をする香りが漂ってきた。
「ただいま。」
「おかえり。」
台所から由香里が顔を出す。
穏やかな笑顔は、病気をする前と変わらない。
その姿を見るたび、徹は胸の奥が温かくなった。
「学校どうだった?」
「去年と同じメンバーがほとんど同じクラスだったよ。」
「それはよかったわね。」
由香里も自分のことのように嬉しそうに笑う。
そんな何気ない会話ができることが、今は何より幸せだった。
その時、居間の電話が鳴った。
由香里が受話器を取る。
「はい、長浜です。」
少し話したあと、優しく微笑みながら徹を振り返った。
「徹、電話よ。」
「俺?」
「葵ちゃん。」
その名前を聞いた瞬間、徹の表情が自然とほころんだ。
胸の鼓動が少しだけ早くなる。
受話器を受け取りながら、小さく深呼吸した。
「もしもし。」
『徹くん?』
受話器の向こうから聞こえてきたのは、聞き慣れた明るい声だった。
「葵?」
『うん!』
その一言だけで、離れていても笑顔になっているのが伝わってくる。
「高校はどう?」
徹が尋ねると、葵は少し照れたように笑った。
『まだ全然、高校生って感じがしないかな。』
「そうなのか?」
『入学式はちゃんと出られたんだけど、そのあとすぐレッスンでしょ。それにレコーディングもあるし、お仕事も始まってるから、学校へ行ける日があんまりないの。』
想像していた以上に忙しい毎日なのだろう。
「大変だな。」
『うん。でもね。』
少しだけ声の調子が変わる。
『夢だったから、頑張れる。』
その一言には迷いがなかった。
病室で出会った頃から変わらない、まっすぐな葵らしい言葉だった。
「友達はできた?」
『少しだけね。でもまだみんなと一緒にいる時間が少ないから、これからかな。』
「きっとすぐ仲良くなれるよ。」
『そうだといいなぁ。』
一瞬だけ弱気な声を見せたかと思うと、次の瞬間には元気いっぱいの声へ戻る。
『あっ、そうだった!』
「どうした?」
『今日ね、言いたいことがあって電話したの!』
「何?」
『やっと決まったの!』
嬉しさを抑えきれない声だった。
『私のデビューの日!』
徹は思わず息をのんだ。
「本当に?」
『うん! 四月二十四日!』
ついに、その日が決まった。
葵が何年も夢見てきた歌手としての第一歩。
「おめでとう。」
自然と笑みがこぼれる。
『ありがとう!』
電話の向こうで弾むような笑い声が聞こえた。
『最近ね、急に緊張してきちゃって。今までは夢中で走ってきたから考える暇もなかったんだけど、日にちが決まったら急に実感が湧いてきたの。』
「それだけ頑張ってきた証拠だよ。」
『そうかな。』
「そうだよ。」
徹が迷いなく答えると、葵は少し安心したようだった。
『それとね、デビュー曲のタイトルも決まったんだ。』
「何ていう曲?」
『風のメロディ。』
春の風を思わせる、優しい響きだった。
「葵にぴったりだ。」
『ほんと? 私もこのタイトル大好きなの!』
その嬉しそうな声を聞いているだけで、徹まで温かい気持ちになる。
「発売されたら絶対買うよ。」
『約束?』
「約束。」
『えへへ、ありがとう。』
少し照れた笑い声が聞こえたあと、葵は何かを思い出したように言った。
『そうだ! お願いがあるんだけど。』
「何?」
『発売日にね、CDショップへ行ってきてほしいの。』
「買いに?」
『違う違う!』
慌てる声に、徹は思わず吹き出した。
『ちゃんと私のCDが並んでるか見てきてほしいの!』
「そんなに気になるのか?」
『気になるよ! だって私は仕事で行けないもん。』
少し恥ずかしそうに笑う。
『もし一枚も置いてなかったらどうしようって、最近そればっかり考えちゃうの。』
「そんな心配しなくていい。」
「絶対並んでる。」
徹がそう言い切ると、受話器の向こうは少しだけ静かになった。
『……ほんと?』
「ああ。」
「俺がちゃんと見てくる。」
『ありがとう。』
その一言は、さっきまでの元気な声とは違い、とても優しかった。
『じゃあ約束だからね!』
「任せとけ。」
『それじゃ、また電話するね!』
「うん。またな。」
電話が切れ、部屋に静けさが戻る。
徹はしばらく受話器を見つめていた。
夢だった歌手デビュー。
いよいよ葵の新しい人生が始まる。
「葵ちゃん、何て?」
由香里がお茶を持ってきた。
「デビューの日が決まった。」
「本当!」
由香里は目を輝かせた。
「よかった……本当によかった。」
まるで自分の娘のことのように喜んでいる。
そこへ玄関の戸が開いた。
「ただいまー。」
学校から帰ってきた優子だった。
「お姉ちゃん、おかえり。」
「何かいいことあった?」
徹は笑顔で答える。
「葵のデビュー日が決まった。」
「えっ、本当に?」
優子も驚いた表情を見せる。
「すごいじゃない!」
三人は自然と葵の話で盛り上がった。
どんな曲なのか。
テレビには出るのか。
発売日はいつなのか。
まるで家族のことを話しているような温かい時間だった。
しばらくして、由香里がふと思いついたように言う。
「せっかくだから、お祝いしてあげたいわね。」
「お祝い?」
「デビューのお祝いよ。」
優子はすぐに身を乗り出した。
「いいじゃん! サプライズにしようよ!」
「サプライズ?」
「うん。葵ちゃん、絶対びっくりするよ。」
徹は少し考えた。
電話で聞いた、不安そうな「ほんと?」という声が頭に浮かぶ。
あの笑顔をもっと笑顔にしたい。
「……それ、いいかも。」
由香里も優しく頷いた。
「じゃあ、葵ちゃんには内緒ね。」
「もちろん!」
優子は嬉しそうに笑う。
「ケーキは絶対いるよね!」
「料理も少し豪華にしたいわ。」
「プレゼントはどうする?」
三人の会話は次々と弾んでいく。
気付けば、葵を喜ばせることばかり考えていた。
徹は壁に掛かったカレンダーへ目を向ける。
四月二十四日。
その日に小さく丸を付けた。
「よし。」
二人を見回して微笑む。
「葵には絶対内緒で、最高のデビュー祝いにしよう。」
「賛成!」
「きっと喜んでくれるわ。」
三人は顔を見合わせ、思わず笑った。
窓の外では春風に乗って桜の花びらが舞っている。
それぞれが新しい一歩を踏み出す春。
葵の夢が大きく花開く日まで、あと少しだった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
今回は新学期と葵のデビュー決定という、二人にとって新しいスタートを描きました。
葵は夢だった歌手への第一歩を踏み出しますが、その裏では高校生活との両立やデビューへの不安も抱えています。
一方の徹も、ただ応援するだけではなく、「何かしてあげたい」という気持ちが少しずつ大きくなってきました。
次回は、長浜家の”ある計画”が少しずつ動き始めます。
葵にはまだ内緒です。
次回もよろしくお願いいたします。




