第36話 最初に聴いてほしい人
いつも読んでいただきありがとうございます。
今回は、葵のデビュー曲が完成し、徹が初めてその歌を聴くお話です。
二人にとって大切な時間を、ゆっくり描いてみました。
二月後半の日曜日。
午前九時を少し回った頃、居間の電話が鳴った。
徹は二階の自室で教科書を開いていたが、一階から呼ばれ、鉛筆を置いた。学年末試験が近づいているため、午前中だけでも勉強しておこうと思っていたところだった。
「徹、電話だぞ」
父の声に返事をし、階段を下りる。
受話器を受け取ると、聞き慣れた声が耳に届いた。
『徹くん?』
「葵?」
『うん。朝早かった?』
「もう起きてたけど。どうしたんだ?」
『今日、少し会えないかなと思って』
声がいつもより弾んでいた。
葵はこの春のデビューを控え、最近は学校と事務所を行き来する毎日を送っている。休日であっても、午後から仕事が入ることは珍しくないらしい。
「今日は仕事じゃないのか?」
『お昼前から事務所。でも、それまでなら少し時間があるの』
「午前中に?」
『うん。急でごめんね』
「別にいいけど」
徹が答えると、受話器の向こうで葵がほっとしたように息を吐いた。
『じゃあ、十時にいつもの公園で』
「十時?」
『無理?』
「いや、間に合うけど」
『よかった。じゃあ待ってるね』
「何かあるのか?」
徹が尋ねると、葵は少し間を置いた。
『聴いてほしいものがあるの』
「聴いてほしいもの?」
『会ってからのお楽しみ』
そう言って、葵は電話を切った。
徹は受話器を置いたまま、しばらく考えた。
聴いてほしいもの。
葵がそう言うのなら、歌に関係するものだろうか。
急いで部屋へ戻り、教科書を閉じる。厚手の上着を羽織り、財布と手袋をポケットへ入れた。
外へ出ると、冬の空気が頬を刺した。
空はよく晴れていたが、陽射しにはまだ春の温かさがない。道端には数日前の雪がわずかに残り、日陰の部分だけが白く凍っていた。
徹は冷えた指先を上着のポケットへ押し込み、公園へ向かった。
約束の時間より少し早く着いたが、葵はすでに入口の近くに立っていた。
白いコートに淡い水色のニット、膝丈の紺色のスカート。肩には小さな鞄を提げている。休日らしい私服姿だが、これから事務所へ向かうためか、普段より少しだけ大人びて見えた。
徹を見つけると、葵は笑顔で手を振った。
「徹くん、こっち」
「早いな」
「私が呼んだんだから、先に来るのは当たり前でしょ」
「いつもそうならいいけど」
「どういう意味?」
「前に一回、待たされた」
「それは電車が遅れたの」
「十分くらいだったけどな」
「細かいこと覚えてるね」
葵は少し頬を膨らませたあと、すぐに笑った。
二人で公園の中へ入る。
冬の午前中ということもあり、人影は少なかった。小さな子供を連れた家族が遠くにいるくらいで、ベンチの周りは静かだった。
「今日、何の仕事なんだ?」
並んで歩きながら、徹が尋ねる。
「衣装合わせと写真撮影。たぶん夕方までかかると思う」
「日曜日なのに大変だな」
「でも、楽しいよ」
葵はそう答えたが、少しだけ緊張したような表情を見せた。
「衣装、もう決まったのか?」
「だいたいはね。今日、細かいところを直すんだって」
「どんな服?」
「まだ秘密」
「また秘密か」
「デビューするまで楽しみにしてて」
葵は軽く笑い、空いていたベンチへ腰を下ろした。
徹もその隣に座る。
「それで、聴いてほしいものって?」
「あ、うん」
葵は膝の上に鞄を置いた。
中を探る手つきは、どこか慎重だった。
やがて取り出したのは、透明なケースに入った一本のカセットテープだった。白いラベルには青い文字で曲名と、如月葵という名前が書かれている。
徹は思わずカセットへ目を向けた。
「それって」
「昨日、事務所でもらったの」
葵はケースを両手で包むように持った。
「私のデビュー曲」
その言葉を聞いた瞬間、徹の胸が少しだけ高鳴った。
葵が歌手になることは分かっていた。
デビューが決まったという話も聞いていた。
けれど、こうして名前の書かれたテープを目の前にすると、急に現実味が増した。
「もうできたんだな」
「うん。まだ発売するものとは少し違うらしいけど、歌はこれで決まりだって」
「俺が聴いてもいいのか?」
「たくさんの人には駄目だけど、徹くんならいいって」
「事務所の人が?」
「徹くんに聴かせたいって話したら、外では絶対に流さないならって」
葵はそう言って、徹の顔を見た。
「どうして俺なんだ?」
尋ねると、葵は少しだけ目を伏せた。
「デビュー曲ができたら、最初に聴いてほしいって思ってたから」
「俺に?」
「うん」
「最初って言っても、仕事の人は聴いてるだろ」
「それは仕事だから」
葵はカセットのケースを指先でなぞった。
「仕事じゃない人に聴いてもらうなら、徹くんがよかったの」
その言葉は、冬の冷たい空気の中でも不思議なくらいはっきり聞こえた。
「変な顔しないでよ」
「してない」
「してる」
「どんな顔だよ」
「困ってるみたいな顔」
「急にそんなこと言うからだろ」
徹が答えると、葵は小さく笑った。
「嫌だった?」
「嫌じゃないよ」
「じゃあ、聴いて」
葵は鞄から携帯用のカセットプレーヤーを取り出した。少し使い込まれた銀色の機械だった。
テープを入れ、ふたを閉じる。
イヤホンは左右に分かれており、葵が片方を徹へ差し出した。
「一緒に聴こう」
「片方ずつ?」
「うん。その方がいいでしょ」
「近くないと外れそうだな」
「少しくらい我慢して」
葵が身体を寄せる。
肩が触れそうな距離になり、徹は少しだけ座る位置を直した。
「緊張してる?」
徹が尋ねると、葵は再生ボタンに指を置いたまま頷いた。
「自分で何回も聴いたのに、徹くんに聴かせる方が緊張する」
「変だな」
「変じゃないよ」
「感想、何て言えばいい?」
「思ったことを言って」
「それで怒らない?」
「怒らない」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんなのかよ」
葵が笑う。
その笑顔で少し緊張が解けたのか、彼女はゆっくりと再生ボタンを押した。
小さな機械音がして、テープが回り始める。
最初に聞こえたのは、かすかな無音と、録音特有の微かな雑音だった。
やがて明るいイントロが流れ始める。
軽やかなリズムに、春を思わせる柔らかな旋律。
そして、その音に重なるように葵の歌声が聞こえてきた。
普段、隣で話している声とは違っていた。
少し高く、澄んでいて、それでいて思っていたよりも力強い。
徹は黙ったまま前を向いた。
隣にいる葵も何も言わず、膝の上で両手を組んでいる。
歌は、これから新しい場所へ歩き出す少女の気持ちを描いたものだった。
不安を抱えながらも、前を向こうとする歌。
それは今の葵によく似ている気がした。
徹は歌を聴きながら、ふと前の人生のことを思い出した。
如月葵。
その名前を、自分は知っていただろうか。
何度考えても、はっきりとした記憶はなかった。
少なくとも、有名な歌手として覚えてはいない。
もしかすると、デビューしても思うようにはいかなかったのかもしれない。
けれど、今イヤホンから流れてくる歌は悪くなかった。
葵の声も、ちゃんと耳に残る。
それなのに知られていないとしたら、少しもったいない気がした。
曲が終わる。
テープが回る音だけが、しばらく耳に残った。
葵はすぐには止めず、徹の顔を横から見ていた。
「どうだった?」
恐る恐る尋ねるような声だった。
徹はイヤホンを外し、手のひらに乗せた。
「よかった」
「本当?」
「うん。思ってたより、ちゃんと歌手だった」
「何それ」
葵は笑ったが、その顔には安堵が浮かんでいた。
「声もよかったし、曲も覚えやすいと思う」
「ならよかった」
葵は胸の前で小さく息を吐いた。
「変だったらどうしようって思ってた」
「変じゃないよ」
「じゃあ、売れるかな」
「それは分からない」
徹が正直に答えると、葵は少し口を尖らせた。
「そこは売れるって言ってよ」
「分からないことは言えないだろ」
「夢がないなあ」
「でも」
徹はもう一度、カセットへ目を向けた。
「もっとたくさんの人が聴いたらいいのにとは思った」
葵が顔を上げる。
「たくさんの人?」
「うん。いい歌なのに、知られないまま終わったらもったいないから」
それは未来を知っている者の言葉というより、今この曲を聴いた中学生の素直な感想だった。
どうすれば売れるのか。
どうすれば有名になれるのか。
そんなことは徹にも分からない。
ただ、聞いてもらう前に忘れられてしまうのは惜しいと思った。
「どうしたら、たくさんの人に聴いてもらえるんだろうな」
徹が呟くと、葵もカセットへ視線を落とした。
「私も、それは思う」
「テレビに出ればいいのかな」
「出られたらね」
「歌番組とか」
「簡単には出られないって言われてる」
「そうか」
二人はしばらく黙った。
徹はベンチの前に落ちている枯れ葉を見つめた。
何か特別な方法を知っているわけではない。
前の人生でも、芸能界のことなどほとんど知らなかった。
それでも、葵の歌を聴いているうちに考えずにはいられなかった。
歌を知ってもらうには、まず葵のことを覚えてもらわなければならないのではないか。
「葵って、好きな色ある?」
突然の質問に、葵が目を丸くした。
「好きな色?」
「うん」
「青かな」
「やっぱり?」
「どうして?」
「今日の服も水色だし、カセットの字も青だから」
徹がラベルを指すと、葵は「あ」と小さく声を出した。
「たしかにそうだね」
「だったら、青を葵の色にしたら覚えてもらいやすいかも」
「私の色?」
「分からないけど」
徹は慌てて付け加えた。
「もし俺だったら、いつも同じ色を使ってる人の方が覚えやすいかなって思っただけ」
葵は少し考え、楽しそうにカセットを見つめた。
「青い服を着るってこと?」
「毎回じゃなくても、何かに青を入れるとか」
「髪飾りとか?」
「そういうの」
「それ、いいかもしれない」
葵は嬉しそうに頷いた。
「今度、事務所の人に話してみようかな」
「俺が言ったって言わなくていいぞ」
「どうして?」
「恥ずかしいから」
「徹くんが考えてくれたのに」
「考えたっていうほどじゃないよ」
徹はそう言いながらも、少しだけ嬉しかった。
何が正しいのかは分からない。
この先、葵が本当に売れるのかも分からない。
けれど、二人でこうして考える時間は、不思議と楽しかった。
葵は腕時計を見ると、慌てて立ち上がった。
「そろそろ行かないと」
「もうそんな時間か」
「うん。駅まで歩いたらちょうどいいくらい」
葵はカセットとプレーヤーを丁寧に鞄へしまった。
「今日はありがとう」
「俺は聴いただけだよ」
「それでも」
葵は鞄を肩へ掛け、徹の前に立った。
「最初に徹くんに聴いてもらえてよかった」
冬の陽射しの中で、葵が笑う。
その笑顔を見ながら、徹は思った。
前の人生で、自分が如月葵という歌手を知らなかったとしても、それが未来のすべてではない。
今はまだ、一本のカセットテープができたばかりだ。
ここから先がどうなるかは、誰にも分からない。
「葵」
「何?」
「頑張れよ」
徹が言うと、葵は一瞬驚いたあと、強く頷いた。
「うん。頑張る」
そして駅へ向かって歩き出す。
数歩進んだところで振り返り、大きく手を振った。
「また電話するね」
「仕事に遅刻するなよ」
「しないよ」
葵は笑いながら走り出した。
白いコートの裾が、冬の風に揺れる。
徹はその背中が見えなくなるまで、公園の入口に立っていた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
今回は大きな出来事というよりも、葵が夢へ向かって一歩進む瞬間と、それを見守る徹の気持ちを中心に描きました。
次回は、デビューを前にした二人の会話をもう少し掘り下げていく予定です。
引き続き応援していただけると嬉しいです。




