第34話 退院の日
長かった入院生活を終え、由香里がついに退院します。
当たり前だった日常が、どれほど大切なものだったのか。
そして、冬休みには新たな出会いと、音楽がつないだ小さな縁が待っていました。
少し穏やかな時間を楽しんでいただけたら嬉しいです。
十二月の澄んだ青空が広がっていた。
吐く息は白く、街路樹の葉もほとんど落ちている。
今日は、長浜家にとって特別な日だった。
由香里が退院する日。
徹は朝から落ち着かなかった。
病院へ着くと、由香里はすでに退院の準備を終えていた。
病衣ではなく、久しぶりに私服へ着替えた母は、少し痩せたようにも見えたが、その表情は手術前とは比べものにならないほど明るかった。
「お待たせ」
そう笑う姿を見た瞬間、徹はようやく実感した。
本当に帰れる。
あの日、手術室へ向かっていった母が、こうして自分の足で歩いている。
それだけで胸が熱くなった。
病室を出る前、日下部明が姿を見せた。
「長浜さん」
「先生」
由香里は深く頭を下げる。
「本当にありがとうございました」
日下部は静かに微笑んだ。
「お礼は必要ありません。私は医師としてやるべきことをしただけです」
そう言うと、徹たち家族へ視線を向けた。
「退院はしますが、これで終わりではありません。定期的な検査は必要ですし、しばらくは無理も禁物です」
「はい」
泰造が力強く頷く。
「それでも、経過は非常に順調です」
日下部は由香里を見る。
「ここまで回復されたのは、ご本人の努力も大きいでしょう」
「ありがとうございます」
「次は外来でお会いしましょう」
短い言葉だった。
だが、その言葉には「もう入院する必要はない」という安心感が込められていた。
病院を出ると、冬の冷たい風が頬を撫でた。
由香里は空を見上げ、小さく息を吸い込む。
「やっぱり外の空気は気持ちいいわね」
「家までゆっくり帰ろう」
泰造が荷物を持ち、優子が由香里の腕をそっと支える。
徹は少し後ろから、その光景を眺めていた。
こんな日が来るなんて、数か月前までは想像もできなかった。
夕方。
久しぶりに家族全員が同じ食卓を囲んでいた。
湯気の立つ鍋。
由香里の好きだった煮物。
いつもの食卓。
それだけなのに、今日は特別だった。
そこへ玄関のチャイムが鳴る。
「こんばんはー!」
聞き慣れた明るい声だった。
優子が玄関を開けると、紙箱を抱えた葵が立っていた。
「退院おめでとうございます!」
「葵ちゃん!」
由香里は嬉しそうに笑う。
「わざわざ来てくれたの?」
「もちろんです!」
葵は箱を差し出した。
「ケーキ買ってきました!」
「今日は退院のお祝いです!」
徹は苦笑する。
「相変わらず元気だな」
「元気が取り柄だからね!」
由香里は優しく言った。
「せっかくだから、一緒に食べていきなさい」
「えっ、本当にいいんですか?」
「もちろん」
「ありがとうございます!」
葵は満面の笑みで頭を下げた。
食卓には笑い声が戻ってきた。
葵が楽しそうに話し、優子が笑い、泰造まで時折笑顔を見せる。
「やっぱり家のご飯は最高ですね!」
「病院じゃこうはいきませんから」
由香里も嬉しそうに頷いた。
「みんなで食べるご飯って、本当にいいものね」
食事が終わり、少し落ち着いた頃だった。
徹は部屋へ戻り、バッグの奥から小さな木箱を取り出した。
由香里の前へそっと置く。
「母さん」
「これ」
由香里は箱を見るなり、小さく微笑んだ。
「あら」
「返すよ」
徹は照れくさそうに続ける。
「約束どおり」
「結局、開けなかった」
由香里は箱を両手で包み込む。
「そう」
「開ける理由なんて、なかったから」
その一言を聞いた瞬間、由香里の目に涙が浮かんだ。
「ありがとう」
「それが、一番嬉しい」
徹は照れ隠しのように笑う。
「だから言っただろ」
「退院したら返すって」
由香里は何度も頷いた。
あの日、「もしもの時だけ」と託した木箱は、とうとう開かれることなく持ち主のもとへ戻った。
それは、長浜家が再び当たり前の日常を取り戻した証でもあった。
食後、テレビでは冬休みを前にした特集が流れている。
葵はそれを見ながら、ふと思い出したように顔を上げた。
「そうだ!」
「来週からレッスンがお休みなんだよね!」
「久しぶりに自由なんだけど!」
徹は嫌な予感がした。
「それで?」
葵はにっこり笑う。
「徹くん、一緒に遊ぼうよ!」
家族みんなが笑う中、徹は苦笑いしながらため息をついた。
「分かったよ」
「約束だからな」
「やった!」
葵は子どものように喜んだ。
その約束が、数日後に思いがけない出会いへと繋がることを、この時の徹はまだ知らなかった。
数日後。
学校は冬休みに入り、街もすっかり年末の雰囲気に包まれていた。
吐く息は白く、商店街にはクリスマスソングが流れている。
約束どおり、徹は葵と駅前で待ち合わせをしていた。
「お待たせ!」
葵はマフラーを首に巻き、嬉しそうに駆け寄ってくる。
「寒いのに元気だな」
「寒いから動くの!」
「意味が分からない」
「徹くんは分かんなくていいの」
そう言って笑う姿は、病院で初めて会った頃と何も変わっていなかった。
二人は商店街を歩きながら、店先に並ぶ雑貨を眺めたり、本屋へ立ち寄ったりと、のんびりした時間を過ごす。
「レッスンは本当に休みなのか?」
「うん。今年は先生もお休みなんだって」
「だから久しぶりにゆっくりできるの」
「寮にいても暇だから」
葵は両手をポケットに入れながら笑う。
「たまには普通の中学生みたいに遊びたかったんだ」
その言葉に、徹は少しだけ考えた。
歌手を目指して東京へ来てから、葵は学校とレッスンを行き来する毎日だった。
周りから見れば明るく元気でも、きっと努力を重ねているのだろう。
「今日は思いきり遊べばいい」
「うん!」
その時だった。
「徹?」
聞き覚えのある声に振り向く。
「恒一」
紙袋を片手に持った恒一が、驚いた表情で立っていた。
「偶然だな」
「本当だね」
恒一は徹の隣にいる葵へ視線を向ける。
「あっ、この子が前に話してた……」
「如月葵さん!」
葵はにこっと笑って頭を下げた。
「初めまして!」
「初めまして。黒沢恒一です」
恒一も笑顔で答える。
「徹くんからいろいろ聞いてる!」
「絵も見せてもらったよ!」
恒一は少し照れくさそうに笑った。
「あんな昔の絵まで見られたのか」
「すごく上手だった!」
「ありがとう」
少し立ち話をしたあと、恒一が時計を見る。
「せっかくだし、どこかで話さない?」
「賛成!」
葵が真っ先に手を挙げた。
三人は近くの喫茶店へ入った。
温かいコーヒーの香りが店内に広がっている。
それぞれ飲み物を注文し、他愛のない話が始まった。
学校のこと。
冬休みのこと。
将来の夢。
自然と話題は音楽へ移っていく。
「恒一くんもギター弾くんでしょ?」
「うん。趣味だけどね」
「いいなあ!」
葵は目を輝かせる。
「私、ギター弾ける人って憧れるんだ」
「葵ちゃんは歌なんだよね?」
「うん!」
恒一は笑いながら言った。
「文化祭で歌ったって聞いたよ」
「めちゃくちゃ緊張した!」
「でも評判だったらしいね」
徹が頷く。
「本当にすごかった」
「徹くんまで」
葵は照れ笑いを浮かべた。
恒一は少し考えてから言う。
「一度ちゃんと聴いてみたいな」
「えっ?」
「葵ちゃんの歌」
葵は徹を見る。
徹も恒一を見る。
そして同時に笑った。
「じゃあ」
徹が立ち上がる。
「カラオケでも行くか」
「行く!」
葵は勢いよく立ち上がった。
三人は喫茶店を出て、すぐ近くのカラオケ店へ向かった。
部屋へ入ると、葵は少し緊張した様子でマイクを握った。
「なんか文化祭より緊張する」
「なんで?」
「二人しか聴いてないから」
徹は思わず笑う。
「普通は逆だろ」
「そうかなあ」
曲が始まる。
葵は静かに息を吸い込み、歌い始めた。
部屋いっぱいに澄んだ歌声が響く。
文化祭の体育館とは違う。
目の前で聴く歌声には、不思議と人を引き込む力があった。
歌い終わると、部屋は少しの間静まり返る。
最初に拍手をしたのは恒一だった。
「すごい」
その一言に、葵は照れくさそうに笑う。
「えへへ、ありがとう」
「歌が本当に好きなんだね」
「うん!」
迷いのない返事だった。
「歌ってる時が一番幸せ!」
恒一は優しく頷いた。
「きっと、その気持ちが歌に出てるんだろうね」
徹も隣で頷く。
「だからみんな聴き入るんだ」
葵は照れながら笑った。
「今日は褒められてばっかりだ」
「たまにはいいだろ」
「すごくいい!」
三人の笑い声が小さな部屋に響いた。
窓の外では、冬の夕日がゆっくりと街をオレンジ色に染め始めていた。
それぞれ違う道を歩き始めた三人。
けれど、この日交わした音楽の時間は、これから先も忘れられない思い出になっていくのだった。
第34話を読んでいただき、ありがとうございました。
今回は、由香里の退院という一区切りと、久しぶりに穏やかな日常を描いた回でした。
木箱も約束どおり由香里のもとへ戻り、ようやく長浜家に本当の意味で笑顔が戻ってきました。
そして後半では、恒一と葵が初めて顔を合わせます。
三人を結びつけたのは音楽でしたが、同時に三人には石丸家という不思議な縁があります。
今回はあえてそのことには深く触れませんでした。
今はまだ何気ない出会いでも、この時間がこれから先の物語にどんな影響を与えていくのか、少しずつ描いていきたいと思っています。
次回も楽しんでいただけたら嬉しいです。




