第32話 夢の中の約束
長かった手術を乗り越え、迎えた翌朝。
家族全員が願っていた、その瞬間がついに訪れます。
由香里が見た不思議な夢とは。
そして長浜家に、ようやく笑顔が戻ります。
翌朝、徹はいつもより早く病院へ向かった。
十一月の朝は冷たく、吐く息が白く見えた。
病院の玄関をくぐると、暖房のぬくもりと消毒液の匂いが混ざった空気に包まれる。
昨日とは違う朝だった。
手術は終わった。
由香里は生きている。
それでも、まだ目を覚ましていない。
その事実が、徹の胸を静かに締めつけていた。
集中治療室の前には、すでに泰造がいた。
椅子に座ったまま、じっと両手を組んでいる。
「父さん」
「来たか」
「寝たの?」
「少しだけな」
そう答える泰造の顔には、明らかに疲れが残っていた。
けれど昨日より少しだけ、表情が柔らかい。
優子も少し遅れてやって来た。
目元は赤いが、昨日のように泣き崩れることはなかった。
三人で、ガラス越しに由香里を見る。
白いベッドの上で、由香里は静かに眠っていた。
機械の音。
点滴。
胸元にある小さなお守り。
徹はそれを見つけて、少しだけ息を吐いた。
まだ持っていてくれている。
それだけで、なぜか救われた気がした。
「母さん」
ガラス越しに小さく呼ぶ。
当然、返事はない。
それでも徹は続けた。
「箱、まだ返してないからな」
バッグの中には、由香里から預かった小さな木箱が入っている。
もしもの時だけ開けて。
そう言われた箱。
だが、徹は開けるつもりなどなかった。
返す。
必ず返す。
それが、由香里と交わした約束だった。
しばらくして、看護師が中へ案内してくれた。
「短い時間ですが、声をかけてあげてください」
徹たちは慎重にベッドのそばへ近づいた。
由香里の顔色は昨日より少し落ち着いているように見えた。
だが眠ったままだ。
優子が震える手で由香里の手に触れる。
「お母さん」
声が小さく震える。
「優子だよ」
泰造もそばへ立つ。
「由香里」
それ以上、言葉が続かない。
徹は最後に手を伸ばした。
由香里の指先に触れる。
温かい。
それだけで胸が熱くなる。
「母さん」
昨日から何度も呼んだ言葉だった。
けれど今日は、昨日より少しだけ強く呼べた。
「迎えに来たよ」
その時だった。
由香里の指先が、ほんのわずかに動いた。
「え?」
徹は息を呑む。
見間違いかと思った。
だが次の瞬間、もう一度、指が小さく動いた。
「父さん」
泰造が身を乗り出す。
優子も涙を浮かべながら由香里を見る。
「お母さん?」
由香里のまぶたが、かすかに震えた。
ゆっくりと。
本当にゆっくりと。
閉じられていた目が開いていく。
焦点の合わない瞳が、ぼんやりと天井を見た。
それから、そばにいる家族へ向く。
「……」
由香里の唇がわずかに動く。
声はまだ出ない。
徹は怖くなった。
言葉が出ないのかもしれない。
俺たちのことが分からないのかもしれない。
日下部先生の言葉がよみがえる。
麻痺。
言語障害。
記憶障害。
「母さん」
徹は恐る恐る呼んだ。
由香里の目が、徹を捉える。
少しだけ眉が動く。
そして、かすれた声が聞こえた。
「……徹」
その一言だけで、世界が戻ってきた気がした。
徹の目に涙が滲む。
「うん」
「俺だよ」
由香里はゆっくり瞬きをした。
それから、優子を見る。
「……優子」
「お母さん!」
優子はその場で泣き崩れそうになった。
泰造が由香里の手を握る。
「由香里」
由香里は少しだけ目を細めた。
「……あなた」
泰造は何も言えなかった。
ただ、何度も頷いた。
看護師がすぐに日下部先生を呼びに行った。
数分後、日下部明が病室へ入ってくる。
いつもの落ち着いた表情だったが、その目には少しだけ安堵が見えた。
「長浜さん、分かりますか」
由香里はゆっくり頷く。
「……はい」
「お名前を言えますか」
「……長浜、由香里です」
日下部は静かに頷いた。
続けて、手足の動きや受け答えを確認していく。
由香里は疲れた様子ではあったが、言葉も理解している。
手も足も、わずかに動く。
日下部は最後に家族の方を向いた。
「現時点では、大きな麻痺や言語障害は見られません」
その言葉を聞いた瞬間、徹は深く息を吐いた。
今度こそ、胸の奥の何かがほどけていく。
「ただし、まだ術後間もない状態です」
日下部は続ける。
「しばらくは慎重に経過を見ます」
「ですが」
少しだけ表情を緩めた。
「とても良い目覚め方です」
優子が泣いた。
泰造も目元を押さえた。
徹は由香里の手を握ったまま、何度も頷いた。
由香里が生きている。
目を覚ました。
自分たちの名前を呼んでくれた。
それだけで、十分だった。
日下部が病室を出ると、それまで張りつめていた空気が少しだけ和らいだ。
由香里はまだ疲れた表情ではあったが、家族の顔を一人ひとり見つめ、小さく微笑んでいる。
「みんな……心配かけちゃったね」
かすれた声だった。
それでも、その声は間違いなくいつもの由香里だった。
「そんなことない!」
優子は涙を拭いながら笑う。
「お母さんが無事なら、それでいいの」
泰造も静かに頷いた。
「本当によく頑張ったな」
由香里は少し照れくさそうに笑う。
「私、一つだけ覚えてることがあるの」
その言葉に、徹は首をかしげた。
「覚えてること?」
「そう」
由香里は少しだけ天井を見上げる。
「夢を見ていたの」
病室が静かになる。
「夢?」
「ええ」
由香里はゆっくり話し始めた。
「どこか分からない場所だったわ」
「すごく広い草原で、お日様がぽかぽかしていて……」
「そこを、徹が楽しそうに走り回っていたの」
徹は思わず苦笑する。
「俺?」
「うん」
「でも、今の徹じゃなかった」
「もっと小さかったかな」
「小学生くらいだったと思う」
由香里は目を閉じ、夢を思い返すように続ける。
「その隣にね、小さな女の子がいたの」
「二人とも本当に楽しそうで」
「ずっと笑っていたわ」
徹は静かに聞いていた。
「知らない子?」
「それがね……」
由香里は困ったように笑う。
「顔だけ思い出せないの」
「不思議なくらい、そこだけぼんやりしてる」
その言葉に、徹の胸が少しだけざわついた。
顔だけ思い出せない。
それなのに、その夢だけは鮮明に覚えている。
「その子がね」
由香里は小さく笑った。
「急に私のところへ来たの」
「それで、こう言ったの」
病室の全員が耳を傾ける。
「『心配しないで』って」
「『徹くんは幸せになるから』って」
優子が静かに微笑んだ。
「いい夢だね」
「そうね」
由香里も優しく頷く。
「それだけじゃないの」
「そのあと、その子が徹の方を向いて……」
少し吹き出すように笑う。
「『大きくなったら徹くんのお嫁さんになる!』って言ったのよ」
一瞬、病室が静まり返る。
次の瞬間。
「ぶっ!」
徹が思わず吹き出した。
「何それ!」
「夢だもの」
由香里も笑っている。
「徹は何て答えたと思う?」
「知らないよ」
「『いいよ!』って元気よく返事してたわ」
「そんなこと言うか!」
徹は顔を赤くする。
優子はお腹を抱えて笑っていた。
「徹、お嫁さん決まってたんだ」
「からかうなよ」
泰造まで小さく笑っている。
「まだ中学生だぞ」
「夢の中の話よ」
由香里は楽しそうだった。
手術の翌日とは思えないほど、病室には穏やかな笑い声が広がる。
その時だった。
コンコン、と病室の扉がノックされた。
「失礼します」
葵だった。
学校帰りなのだろう。
制服姿のまま、小さく頭を下げる。
「おばさん!」
由香里の顔を見るなり、ぱっと笑顔になった。
「葵ちゃん」
「来ちゃいました」
「ありがとう」
由香里は嬉しそうに微笑む。
葵はベッドのそばまで来ると、ふと胸元へ目を向けた。
そこには、小さなお守りが見えていた。
昨日、徹から受け取ったものだった。
葵は安心したように目を細める。
「ちゃんと持っててくれたんだ」
その一言に、由香里もお守りへ視線を落とした。
「もちろん」
「大切なお守りだもの」
そっと胸元から取り出し、優しく撫でる。
「これのおかげかもしれないわね」
葵は照れくさそうに首を振った。
「違いますよ」
「私はお願いしただけ」
「頑張ったのは、おばさんと先生です」
その答えが葵らしかった。
由香里は嬉しそうに笑う。
「それでも、勇気をもらえたわ」
「ありがとう」
葵も少し照れながら笑い返した。
病室の窓から午後の柔らかな陽射しが差し込んでくる。
昨日までとは違う景色だった。
不安しかなかった病室には、今、小さな笑顔があふれている。
徹はバッグの中へそっと手を入れた。
そこには、まだ返せていない小さな木箱がある。
開ける日は来なかった。
そのことが、何より嬉しかった。
もう少し元気になったら返そう。
笑いながら。
「約束どおり返すよ」と言って。
徹は窓の外へ目を向ける。
高く澄み渡る秋の空が広がっていた。
長かった闘いは、ようやく終わった。
そして今日からまた、新しい毎日が始まろうとしていた。
第32話を読んでいただき、ありがとうございました。
由香里編の大きな山場となった手術を乗り越え、ようやく家族全員が笑顔になれる瞬間を書くことができました。
由香里が語った夢は、ただの夢なのか、それとも何か意味を持つものなのか。
今はまだ誰にも分かりません。
けれど、徹の未来へと繋がる小さな伏線として、心に留めていただけたら嬉しいです。
また、由香里から託された木箱は、徹が約束を守り続けた証でもあります。
「開けなかった」という何気ない出来事が、家族の絆を表す一つの象徴になればと思い、この場面を描きました。
次回からは少しずつ日常が戻り、新たな物語が動き始めます。
これからの徹たちの歩みも、温かく見守っていただけたら嬉しいです。




