第30話 運命の手術
十一月。
長かったようで短かった一か月が過ぎ、ついに手術の日を迎えました。
家族や仲間たちは、それぞれの想いを胸に由香里を見送ります。
祈り、覚悟、そして小さな希望。
すべてを胸に、運命の手術が始まります。
十一月七日、水曜日。
まだ夜が明けきらない早朝。
病院の廊下には静かな空気が流れ、窓の外には冷たい秋の景色が広がっていた。
徹は昨夜、ほとんど眠ることができなかった。
何度も時計を見ては布団に入り直し、気づけば朝を迎えていた。
今日は由香里の手術の日。
その事実だけが、胸の中で何度も繰り返されていた。
病室へ入ると、由香里はすでに起きていた。
病衣姿のまま窓辺に立ち、朝焼けに染まり始めた空を静かに眺めている。
「おはよう」
振り返った由香里は、いつもと変わらない穏やかな笑顔だった。
「おはよう、母さん」
「眠れた?」
「……少しだけ」
「嘘ね」
由香里は優しく笑う。
「顔を見れば分かるわ」
徹は照れくさそうに頭をかいた。
しばらくすると、泰造と優子も病室へやって来た。
四人で過ごす朝。
誰も明るく振る舞おうとしていた。
けれど、ぎこちない笑顔の裏に、それぞれの不安が隠れていることは誰の目にも分かった。
午前八時。
看護師が病室へ入ってきた。
「長浜さん、そろそろ準備をお願いします」
「はい」
由香里は静かに返事をする。
その落ち着いた様子に、徹の方が緊張してしまう。
「徹」
由香里が優しく呼んだ。
「少しだけ、二人で話せる?」
泰造と優子は何も言わず病室を出ていく。
二人きりになると、由香里は枕元の引き出しから小さな木箱を取り出した。
「これを預かっていて」
徹は箱を受け取る。
「もしもの時だけ開けてね」
その言葉を聞いた瞬間、徹は首を横に振った。
「嫌だ」
由香里は少し驚いたような顔をした。
「これは退院したら返す」
「だから開けない」
「約束だから」
徹は木箱をバッグの奥へしまう。
絶対に開けない。
母さんが退院して、この箱を笑いながら返す。
それだけを信じていた。
由香里は少し目を潤ませながら笑った。
「本当に強くなったね」
「母さんの子だから」
照れ隠しのように言うと、由香里は嬉しそうに笑った。
「それなら安心ね」
午前八時三十分。
ストレッチャーが病室へ運ばれてきた。
由香里はゆっくりと横になる。
「じゃあ、行ってきます」
優子は涙をこらえながら母の手を握る。
「お母さん……」
「泣かないの」
由香里は優しく娘の頭を撫でた。
「また帰ってくるから」
泰造は大きく頷く。
「待ってる」
その短い一言に、すべての想いが込められていた。
徹はポケットから小さなお守りを取り出す。
「母さん」
「これ」
「昨日、葵がくれたんだ」
「神社で母さんの手術がうまくいくようにお願いしてきたって」
由香里はお守りを受け取り、胸の前でそっと握りしめた。
「ありがとう」
優しく微笑む。
「これはちゃんと返さないとね」
「うん」
「約束」
その笑顔を見て、徹は少しだけ安心した。
母さんは帰ってくる。
その気持ちは誰よりも強かった。
ストレッチャーは静かに病室を出る。
長い廊下を進み、手術室の前で止まった。
由香里は家族を見回し、最後まで笑顔を崩さなかった。
「行ってきます」
静かに扉が閉まる。
赤いランプが灯る。
午前九時。
手術が始まった。
待合室には重い沈黙が流れていた。
時計の秒針だけが静かに時を刻んでいる。
泰造は腕を組んだまま、じっと床を見つめていた。
優子はハンカチを握りしめ、何度も目元を拭いている。
徹は時計を見ることしかできなかった。
一時間。
二時間。
三時間。
時間だけがゆっくりと過ぎていく。
その時だった。
「ごめん、遅くなった!」
待合室に聞き慣れた声が響く。
葵だった。
制服姿のまま、小さく息を切らしている。
「葵」
「学校、休んできちゃった」
少し照れくさそうに笑う。
「事務所にも先生にもちゃんと話したから大丈夫」
「どうしても今日だけは来たかったの」
その言葉に、徹は何も返せなかった。
葵は徹の隣へ腰を下ろす。
待合室には再び静かな時間が流れた。
誰も口を開かない。
ただ祈ることしかできなかった。
その時だった。
そっと右手に温もりを感じる。
「え?」
視線を向けると、葵が何気ない表情で徹の手を握っていた。
「お、おい」
思わず声が漏れる。
葵はきょとんと首をかしげた。
「どうしたの?」
「急に手なんか握って……」
「あっ」
葵は徹の手を見る。
「ずっと冷たかったから」
「すごく力も入ってたし」
「少しでも安心するかなって思って」
本当に、それだけだった。
照れた様子もない。
特別な意味もない。
ただ、隣で不安そうに座る徹を見て、自然と手を握っただけ。
だからこそ、徹の方が少しだけ照れてしまう。
「びっくりするだろ」
「そう?」
葵はくすっと笑った。
「ごめんね」
「でも、こうしてた方が少し安心できる気がして」
徹は握られた手を見る。
少し照れくさい。
けれど、その温もりは張りつめていた心をゆっくりとほどいてくれた。
時計を見る。
手術開始から、すでに三時間以上が過ぎていた。
それでも手術室の赤いランプは消えない。
誰も何も言わない。
ただ、それぞれの胸の中で、同じ願いを祈り続けていた。
第30話を読んでいただきありがとうございます。
今回は、由香里の手術当日を描きました。
手術そのものではなく、その時を待つ家族の気持ちを中心に書いています。
由香里から託された小さな箱。
葵から贈られたお守り。
そして、何気なく徹の手を握る葵の優しさ。
それぞれが不安の中でも前を向こうとする想いを込めた場面でした。
いよいよ次回は、長かった由香里編のクライマックスです。
果たして手術は無事に終わるのか。
そして由香里は再び家族の前で笑顔を見せることができるのか。
ぜひ最後まで見届けていただけたら嬉しいです。




