第29話 手術前日
手術前日。
いよいよ、その日が目前まで迫ってきました。
学校では文化祭の準備が始まり、いつも通りの時間が流れています。
けれど、徹にとっては何気ない日常さえ、どこか遠く感じられるものでした。
それぞれが不安を抱えながら迎える、手術前最後の一日。
長浜家、そして徹を支える仲間たちの想いを描きます。
十一月に入っていた。
朝の教室は、いつもより少し騒がしかった。
原因は文化祭だ。
黒板の端には、文化祭実行委員が書いたらしい文字が残っている。
出し物案。
お化け屋敷。
喫茶店。
展示。
劇。
教室のあちこちで、その話ばかりが飛び交っていた。
「やっぱお化け屋敷だろ!」
「準備大変じゃん」
「喫茶店なら楽しいって」
「うちのクラスで接客できる人いる?」
「無理だろ」
そんなやり取りを聞きながら、俺は机に頬杖をついていた。
文化祭。
中学生らしい響きだ。
普通なら、もう少し楽しみにしていたのかもしれない。
DIGITAL FANTASYで演奏できるかもしれない。
春子や達也やこずえと、また何かを作れるかもしれない。
少し前の俺なら、そんなことを考えただろう。
だが今は違った。
頭の中にあるのは、明日のことだけだった。
由香里の手術。
午前九時。
その時間が、ずっと胸の奥に貼り付いている。
「長浜」
声をかけられて顔を上げる。
春子だった。
「また変な顔してる」
「変な顔ってなんだよ」
「考えごとしてる顔」
「それは顔じゃなくて状態だろ」
「細かいな」
春子は俺の前の席に勝手に座った。
文化祭の話で周囲が騒いでいる中、春子だけは少し真面目な顔をしていた。
「お母さんのこと?」
小さな声だった。
俺は少し迷ってから頷いた。
「明日、手術なんだ」
春子の表情が変わった。
「明日……?」
「明日」
言葉にすると、急に現実味が増した。
「朝九時からなんだ」
「そっか」
春子はそれだけ言って黙った。
何か言おうとして、でも言葉が見つからないような顔をしている。
それがかえって自然だった。
簡単に励ませる話じゃない。
春子も、それを分かっているのだろう。
「ごめん」
春子がぽつりと言った。
「何が?」
「文化祭の話ばっかりしてた」
「なんで謝るんだよ」
「だって、長浜はそれどころじゃないじゃん」
俺は少し笑った。
「いいんだよ」
「いいの?」
「みんなが普通に文化祭で騒いでるの、少し助かる」
「助かる?」
「病院にいるとさ」
言葉を探す。
「全部が重くなるんだ」
「うん」
「だから、学校が普通に騒がしいと、少しだけ現実に戻れる」
春子は静かに聞いていた。
「変かな」
「変じゃない」
春子はすぐに言った。
「全然変じゃない」
その言い方があまりにも真っ直ぐで、少しだけ胸が軽くなった。
春子は机の上に肘をつき、黒板を見る。
「文化祭、軽音部でも何かやると思う」
「そうだよね」
「長浜は無理しなくていいから」
「悪い」
「悪くない」
春子は少し強めに言った。
「お母さん優先でしょ」
「そうだな」
「でも」
そこで少し言葉を止める。
「戻ってきたら、また弾いてよ」
俺は春子を見る。
「未完成のメロディ、まだ未完成だし」
「タイトル通りだな」
「そういう意味じゃない」
春子が軽く睨む。
その顔を見て、少しだけ笑えた。
「分かった」
「うん」
春子は立ち上がる。
その時、教室の入り口から明るい声が響いた。
「徹くん!」
葵だった。
三年生なのに、もう一年の教室に来ることが当たり前みたいになっている。
周囲の男子たちは相変わらず少しざわつく。
葵はそんな視線をまるで気にしない。
「おはよう!」
「もう昼前だぞ」
「じゃあ、こんにちは!」
「そういう問題じゃない」
春子が少し呆れたように笑う。
「葵先輩、今日も元気ですね」
「元気だけが取り柄だから!」
「歌は?」
「それも取り柄にする予定!」
葵らしい返しだった。
だが、その明るさの奥に、今日は少しだけ真剣なものが見えた。
「明日だよね」
葵が言った。
「おばさんの手術」
「ああ」
「私もお見舞い行くから」
「レッスンは?」
「夕方から」
「忙しいな」
「忙しい方が考えすぎなくていいよ」
その言葉に、俺は少しだけ驚いた。
葵はただ明るいだけじゃない。
きっと、葵なりに不安を感じている。
でもそれを笑顔で包んでいるのだ。
「行こう」
春子が言った。
「え?」
「私も病院までは行く」
「春子まで?」
「病室には入らないよ。迷惑になるし」
春子は少し視線を逸らす。
「でも、途中まで一緒に行くくらいはいいでしょ」
俺は何も言えなかった。
文化祭で騒いでいる教室。
明日の手術。
春子。
葵。
全部が同じ一日の中にある。
不思議だった。
人生は、どれか一つだけでできているわけじゃない。
楽しいことも、怖いことも、くだらない会話も、祈るような気持ちも。
全部が同時に存在している。
放課後。
俺は春子と葵と一緒に学校を出た。
秋の風が制服の袖を揺らす。
商店街を抜ける途中、文化祭の話をしている生徒たちとすれ違った。
俺はその声を聞きながら、病院へ向かって歩いた。
明日。
すべてが決まるわけじゃない。
でも大きく動き出す。
そのことだけは分かっていた。
病院へ着くと、いつもの消毒液の匂いが鼻をくすぐった。
何度も通った廊下。
何度も開けた病室の扉。
それなのに今日は、どこか違って見える。
明日。
母さんは手術を受ける。
そう思うだけで、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
「母さん」
病室へ入ると、由香里は窓際の椅子に座り、穏やかな表情で外を眺めていた。
「あら、おかえり」
その笑顔は、いつもと何も変わらない。
「学校どうだった?」
「文化祭の話ばっかりだったよ」
「そうなの」
由香里は嬉しそうに笑った。
「みんな楽しそう?」
「そうだね」
「ならよかった」
その一言が、少し意外だった。
「母さん」
「ん?」
「明日なのに……」
言葉が続かない。
由香里は俺の気持ちを察したように微笑んだ。
「怖いわよ」
「正直、すごく怖い」
「でもね」
窓の外へ目を向ける。
「怖いことばかり考えていても、明日は来ちゃうでしょう?」
「だから今日は、できるだけ普通に過ごしたいの」
その強さに、俺は何も言えなくなった。
しばらくして病室の扉が勢いよく開いた。
「こんにちはー!」
葵だった。
その後ろから春子も少し遠慮がちに顔を出す。
「こんにちは」
「春子ちゃんも来てくれたの?」
「はい」
由香里は嬉しそうに二人を迎えた。
病室には自然と笑顔が増えていく。
春子は少し緊張しながら学校の話をし、葵は相変わらず明るく話し続ける。
「文化祭ね、絶対成功するよ!」
「まだ何も決まってないだろ」
「気合い!」
「それだけか」
由香里がくすっと笑う。
「葵ちゃんは本当に元気ね」
「元気だけは負けませんからね!」
その言葉に病室の空気が少しだけ軽くなった。
夕方になり、春子は帰ることになった。
「長浜」
「ん?」
「明日は学校のみんなで祈ってるから」
短い言葉だった。
でも十分だった。
「ありがとう」
春子は小さく笑って病室をあとにした。
少しして、葵も帰る時間になる。
「じゃあ私も帰ります!」
病室を出て、廊下を歩き始めた時だった。
「徹くん」
「どうした?」
葵は制服のポケットを、ごそごそと探し始めた。
「あった!」
小さな布のお守りだった。
赤い布地に金色の糸で模様が縫われている。
「はい」
「これ」
俺は驚いて受け取る。
「お守り?」
「うん」
「今日ね、病院へ来る前に神社へ寄ってきたの」
「おばさんが元気になりますようにってお願いしてきた」
思わず言葉を失う。
「これ……」
「私が持ってても意味ないでしょ?」
葵は照れくさそうに笑った。
「だから徹くんに預ける」
「手術が終わるまで持ってて」
お守りはまだ少しだけ温かかった。
きっと、ずっと握りしめていたのだろう。
「ありがとう」
自然と頭が下がる。
葵は首を横に振った。
「お礼は、おばさんが元気になってから聞く!」
「約束ね!」
そう言って笑う。
その笑顔は、どこまでも明るかった。
「神様にはお願いしてきたから」
「あとは日下部先生を信じよう」
その言葉が、不思議なくらい胸に響いた。
病院へ戻ると、由香里はもうベッドへ横になっていた。
「葵ちゃん帰った?」
「帰ったよ」
「そう」
由香里は安心したように微笑む。
「いい子ね」
「うん」
それ以上の言葉は思いつかなかった。
夜。
優子は家へ戻り、泰造は手術の説明をもう一度確認していた。
病室には俺と由香里だけになる。
「徹」
「ん?」
「ちょっとこっちへ来て」
俺はベッドの横へ座った。
由香里はゆっくりと俺の頭を撫でる。
子どもの頃は、よくこうしてくれた。
でも最近は、そんなこともなくなっていた。
「大きくなったわね」
「急にどうしたんだよ」
「ふふっ」
優しい笑顔だった。
「最近、本当に頼もしくなった」
「そんなことないよ」
「あるわ」
由香里は静かに続ける。
「お母さんね」
「あなたが生まれてきてくれて、本当に幸せだった」
胸が熱くなる。
「だから」
「明日も頑張る」
「またみんなで家へ帰ろうね」
俺は唇を噛みしめながら頷いた。
「待ってるから」
それしか言えなかった。
病室を出る前、もう一度振り返る。
由香里は笑って手を振っていた。
その笑顔を、ずっと見ていたいと思った。
病院を出ると、秋の夜風が静かに吹いている。
俺はポケットへ手を入れた。
そこには、葵から預かった小さなお守り。
ぎゅっと握ると、不思議と心が落ち着いた。
神様。
奇跡でも何でもいい。
どうか明日だけは、母さんを守ってください。
夜空を見上げる。
星は静かに瞬いていた。
明日、午前九時。
由香里の運命を懸けた手術が始まる。
第29話を読んでいただきありがとうございます。
今回は手術前日ということで、大きな出来事よりも、それぞれの想いを丁寧に描く回になりました。
文化祭を楽しみにする学校の空気と、病院で流れる静かな時間。
その対比が、徹の心情をより際立たせてくれたように感じています。
また、葵からのお守りは、医学では説明できない「誰かを想う気持ち」の象徴として描きました。
効力があるかどうかではなく、「あなたは一人じゃない」という想いを込めた小さなお守りです。
そして、いよいよ次回は由香里の手術当日。
長かった由香里編も、大きな山場を迎えます。
最後まで見届けていただけたら嬉しいです。




