第26話 転校生と紹介状
十月十四日まで、あと二週間。
由香里を救うための希望は見え始めていましたが、まだ確かなものではありませんでした。
日下部明に本当に会えるのか。
会えたとして、母を診てもらえるのか。
不安を抱えながらも前へ進む徹。
そんな中、彼の学校に思いもよらない変化が訪れます。
東京へやって来た如月葵。
病院で出会った不思議な少女との再会が、少しずつ運命を動かし始めていました。
九月も終わりに近づいていた。
朝の空気は少し冷たくなり、夏の名残は昼間の陽射しにだけ残っている。
十月十四日まで、あと二週間と少し。
日下部明。
脳神経外科学会。
由香里の紹介状。
頭の中には、ずっとそのことがあった。
担当医は紹介状を書いてくれた。
父も一緒に動くと言ってくれた。
それでも、日下部明に本当に会えるかは分からない。
診てもらえる保証もない。
希望は見えた。
けれど、それはまだ細い糸のようなものだった。
そんな状態でも、学校は普通に始まる。
朝のホームルーム前。
教室はいつもより少し騒がしかった。
「なあ、転校生来るらしいぞ」
「今ごろ?」
「三年だって」
「女子?」
「らしい」
そんな声があちこちから聞こえてくる。
俺は机に頬杖をつきながら、ぼんやり聞いていた。
三年生の転校生。
なら、俺にはあまり関係ない。
そう思っていた。
だが、担任が教室に入ってきたあと、その考えはあっさり崩れた。
「今日は少し知らせがある」
教室が静かになる。
「三年生に転校生が来た」
クラスがざわつく。
「事情があって東京へ引っ越してきたそうだ」
「同じ学校の生徒になる。廊下で見かけても騒ぎすぎないように」
その時だった。
廊下側の窓の向こうを、三年生らしき生徒たちが通っていった。
「芸能活動って何?」
「アイドル?」
「歌手じゃね?」
その中に、見覚えのある顔があった。
長い黒髪。
明るい表情。
周囲に話しかけながら歩く姿。
如月葵だった。
彼女は俺に気づいた瞬間、ぱっと顔を輝かせた。
そして、窓越しに大きく手を振ってきた。
「徹くーん!」
声が廊下から響いた。
教室中の視線が一斉に俺へ向く。
やめてくれ。
本当にやめてくれ。
担任まで俺を見ている。
「長浜、知り合いか?」
「……少し」
少しどころではない。
由香里の病気に関わる名前を告げた少女であり、石丸家の蔵の絵にそっくりな少女であり、何より初対面から俺のペースを全部崩してくる存在だ。
だが、そんな説明ができるはずもない。
廊下では葵が先生らしき人に注意されていた。
「如月さん、先に行きますよ」
「はーい!」
そう返事をしながらも、葵はもう一度俺に手を振った。
教室のざわめきが大きくなる。
「長浜、何者だよ」
「三年の転校生と知り合い?」
「しかもめっちゃくちゃ可愛い」
面倒なことになった。
そう思った。
昼休み。
予想通り、葵は一年の教室までやって来た。
迷うことなく俺の席へ来る。
「徹くん!」
「なんか来ると思った」
「分かった?」
「分かる」
「すごい!」
「褒めてない」
葵は空いていた隣の席に勝手に座った。
周囲の男子たちが固まっている。
三年生の転校生が、一年の教室で当然のように座っているのだ。
そりゃ見る。
「学校どう?」
「すごく広いね!」
「それは感想なのか」
「あと、先生が多い!」
「学校だからな」
「あと、階段が似てる!」
「それは分かる」
葵は本当に楽しそうだった。
事務所の寮へ入ったばかりで、学校も変わったばかり。
普通なら不安そうにしていてもおかしくない。
だが、葵はむしろ新しい世界に飛び込むことを楽しんでいるように見えた。
「寮は?」
「昨日から入った」
「大丈夫そう?」
「部屋は狭いけど楽しいよ!」
「楽しいのか」
「うん。なんか合宿みたいで」
その発想が葵らしかった。
そこへ春子が近づいてきた。
「長浜」
「ん?」
「紹介してよ」
春子の視線は葵に向いている。
表情は普通だ。
でも少しだけ、声が硬い気がした。
「如月葵。前に話した、病院で会った人」
「ああ」
春子はすぐに分かったようだった。
「桐谷春子。長浜と同じ軽音部」
「春子ちゃん!」
葵はすぐに立ち上がる。
「徹くんから聞いてる!」
「え、何を?」
「ギターやってて、かっこいいって」
春子が一瞬固まる。
そして俺を見る。
「長浜」
「俺そんな言い方してないから」
「したかもしれないじゃん」
葵が笑う。
「してない」
「でもギターやってるんでしょ?」
「うん」
「すごい! 私、歌うのは好きだけど楽器できないから尊敬する」
春子は少し戸惑いながらも、悪い気はしていなさそうだった。
「歌手になるんだっけ?」
「うん。まだ全然だけど」
「全然ってことはないでしょ。デビューするんだから」
「でもレッスンでは怒られてばっかり」
葵はけろっと言った。
「歌って難しいよね。気持ちだけじゃ駄目って言われるし、でも気持ちないと駄目だし。どっちなのって思う」
春子が少し笑う。
「それ、ギターも同じかも」
「ほんと?」
「うん。ちゃんと弾けって言われるけど、ちゃんとしすぎるとつまらない」
「分かる!」
二人は思ったより早く打ち解けた。
俺は少し安心する。
同時に、少し変な気分にもなった。
春子は俺にとって、今の学校生活の中心に近い存在だった。
葵は、運命だとか石丸家だとか、もっと説明できない場所から現れた存在だった。
その二人が同じ教室で笑っている。
なんだか現実感が薄かった。
放課後。
葵はレッスンがあるらしく、部活には来なかった。
「今日は事務所に行かなきゃいけないから!」
そう言って、あっという間に駆けていった。
相変わらず台風みたいな人だった。
軽音部では達也が興味津々だった。
「なあ長浜」
「なんだ」
「あの三年の転校生、何者?」
「歌手になる人」
「いや、それは聞いた」
「なら聞くな」
「なんでお前と仲いいの?」
「いろいろあって」
「いろいろって便利だな」
こずえが小さく言った。
「……綺麗な人だったね」
春子がギターのチューニングをしながら言う。
「明るすぎてびっくりした」
「確かに」
俺は頷く。
「でも嫌な感じじゃない」
春子はそう言った。
その言葉に、少しだけほっとした。
練習はいつも通り始まった。
だが、俺はやはりどこか集中しきれなかった。
日下部明。
十月十四日。
由香里。
葵の転校。
紹介状。
全部が頭の中で混ざっている。
「長浜、そこ遅い」
春子に指摘される。
「ああ、悪い」
「また考えごと?」
「まあね」
「お母さんのこと?」
「そうだな」
春子はそれ以上何も言わなかった。
ただ、少しだけ音を柔らかくした。
気遣いなのかもしれない。
部活のあと、俺は病院へ向かった。
由香里はいつも通り笑って迎えてくれた。
「今日、葵ちゃん学校に来たんでしょう?」
「もう知ってるのか」
「おじいちゃんから電話があったの」
「情報が早いな」
由香里は楽しそうだった。
「同じ学校なんて不思議ね」
「本当に」
「葵ちゃん、元気だった?」
「元気すぎるくらい」
「そう」
由香里は嬉しそうに笑った。
「病室に来てくれた時も、ぱっと明るくなったもの」
「そういう人なんだと思う」
「徹も少し助けられてるんじゃない?」
その言葉に返事が遅れた。
否定はできない。
葵が来ると、空気が変わる。
重いものが少しだけ軽くなる。
それは確かだった。
「母さん」
「なに?」
「そういえば紹介状、もう送ったって」
「そう」
「先生が追加資料もまとめてくれてる」
由香里は静かに頷いた。
「ありがたいわね」
「そうだね」
「本当に、いろんな人に助けられてる」
その言葉が胸に残った。
一方、その頃。
東京大学医学部附属病院。
脳神経外科教授室。
日下部明は机の上に積まれた紹介状と検査資料に目を通していた。
全国から送られてくる症例。
どれも切実で、どれも難しい。
だが、その全てに応じることはできない。
時間も人手も限られている。
助手が新しい封筒を置く。
「先生、次はこちらです」
「ああ」
日下部は封筒を開いた。
患者名。
長浜由香里。
四十代女性。
脳腫瘍。
最初は、よくある紹介状の一つに見えた。
だが添付されていた検査資料を見た瞬間、手が止まった。
「……ん?」
日下部は封筒から取り出したCTフィルムを光にかざす。
さらに大学病院で撮影されたMRIフィルムにも目を移した。
腫瘍の位置。
周辺組織の反応。
臨床症状。
紹介状に記された経過。
日下部は資料を一枚ずつ確認していく。
そして眉をひそめた。
「どうしました?」
助手が聞く。
日下部はすぐには答えなかった。
日下部は再びフィルムへ目を向けた。
CTフィルム。
MRIフィルム。
紹介状の記録。
何度も見比べる。
「これは……珍しいな」
「珍しい?」
「腫瘍そのものも厄介だが、それだけじゃない」
日下部は資料を机に広げる。
「症状の出方が画像と微妙に合わない。普通ならもっと別の障害が出ていてもおかしくない場所だ」
「つまり?」
「分からんな」
日下部は短く言った。
だがその声には、わずかな興味が混じっていた。
「見たことがない反応だ」
助手は驚いた顔をする。
日下部がそんな言い方をするのは珍しい。
「この患者の追加資料を取り寄せてくれ」
「分かりました」
「あと、担当医にも連絡を」
日下部は紹介状の送り主の名前を確認する。
「十月十四日の学会に来る予定があるか聞いてくれ」
「学会ですか?」
「そうだ」
日下部は再びフィルムを見つめる。
「直接会って話を聞きたい」
助手は少し目を見開いた。
「先生が直接ですか?」
「興味深い症例だ」
そう言って、日下部は小さく呟いた。
「長浜由香里……か」
その名前は、彼の机の上に置かれた数多くの紹介状の中で、確かに特別な一枚になっていた。
病院からの帰り道。
俺は空を見上げた。
十月十四日まで、時間は少ない。
けれど何かが動き始めている。
葵が東京に来た。
同じ学校に来た。
紹介状は日下部明のもとへ送られた。
偶然にしては、あまりにも出来すぎている。
だが今は、それを信じたかった。
母さんを助けるためなら。
どんな偶然でも、どんな運命でも。
俺は掴みにいく。
そう決めた。
第26話を読んでいただきありがとうございます。
今回は葵の転校と、日下部明が由香里の症例に興味を持つ場面を描きました。
葵は相変わらずの天真爛漫さで、重くなりがちな物語の空気を少し和らげてくれる存在です。
一方で、春子との初対面もあり、徹を取り巻く人間関係も少しずつ変化し始めました。
そしてもう一つ。
ついに日下部明が由香里の紹介状へ目を通しました。
数多くの患者の中で、なぜ由香里の症例が彼の目を引いたのか。
その理由は、これから少しずつ明らかになっていきます。
十月十四日まで残された時間はわずかです。
運命の日へ向けて、物語はさらに動き出します。
次回もよろしくお願いいたします。




