第25話 十月十四日へ
日下部明。
十月十四日。
如月葵が残した二つの言葉は、偶然とは思えない形で少しずつ繋がり始めていました。
紹介状という正式な道。
そして学会というもう一つの可能性。
由香里を救うために何ができるのか。
徹は初めて、自分の意志で未来を切り開こうと動き始めます。
日下部明。
十月十四日。
その二つの言葉は、頭の奥に刺さったまま抜けなかった。
如月葵が由香里を見た瞬間に呟いた名前。
そして、同じように浮かんだ日付。
最初は意味が分からなかった。
けれど担当医に聞いたことで、状況は一変した。
日下部明は、日本でも有数の脳外科医。
難しい脳腫瘍の手術を何度も成功させてきた人物。
そして十月十四日は、脳神経外科学会の日。
日下部先生も講演予定だという。
偶然だと思うには、あまりにも出来すぎていた。
いや、もう偶然なんて言葉で片付ける気にはなれなかった。
放課後、俺はいつものように病院へ向かっていた。
秋の風が少し冷たい。
夏祭りの日に感じた熱気はもう遠くなり、街の色も少しずつ変わり始めている。
駅前の商店街を抜けながら、俺は何度も頭の中で整理していた。
紹介状は担当医が書いてくれる。
だが、それだけで日下部明に診てもらえる保証はない。
返事を待っている間に、由香里の状態が悪化する可能性もある。
だから十月十四日が重要になる。
その日に日下部明が学会にいる。
もし直接会えれば。
もし話を聞いてもらえれば。
母さんを救う可能性が少しでも上がるかもしれない。
そんなことを考えながら病室へ入ると、由香里はベッドの上で雑誌を読んでいた。
「あら、徹。今日は早いのね」
「部活、少しだけで抜けてきた」
「ちゃんとみんなに言った?」
「言ったよ」
由香里は安心したように笑った。
その笑顔を見るたびに、胸が痛くなる。
病気だと分かってからも、母は変わらない。
心配される側なのに、いつも俺たちの心配をしている。
「先生から何か話あった?」
「うん。紹介状の準備をしてくれるって」
「そう」
「日下部先生って、本当にすごい人らしい」
由香里は少しだけ目を細めた。
「葵ちゃんの言った名前が、本当にお医者さんだったのね」
「うん」
「不思議ね」
「不思議すぎるよ」
俺がそう言うと、由香里は小さく笑った。
「でも、少し安心したわ」
「安心?」
「何もないところに、急に道ができたみたいで」
その言葉に、俺は何も返せなかった。
まさにそうだった。
成功率一割。
真っ暗に見えていた道の先に、突然、小さな扉が現れた。
まだ開くかどうかも分からない。
けれど、そこに扉があると分かっただけで、人は立ち上がれる。
由香里は雑誌を閉じると、静かに言った。
「徹」
「なに?」
「無理しすぎないでね」
「してないよ」
「嘘」
即答された。
「母親には分かるの」
「便利だな、それ」
「便利よ」
由香里はいつものように笑った。
その笑顔を守りたい。
それだけだった。
病室を出たあと、俺は担当医の部屋へ向かった。
紹介状について、もう一度確認したかった。
ノックをすると、担当医はすぐに中へ通してくれた。
「長浜君か」
「先生、紹介状のことなんですけど」
「分かっているよ。今日中には書き上げるつもりだ」
「ありがとうございます」
「ただし、前にも言った通り、返事がすぐ来るとは限らない」
担当医の表情は真剣だった。
「日下部先生は全国から相談が来るような方だ。こちらから資料を送っても、順番待ちになる可能性は高い」
「はい」
「それでも、やらないよりはずっといい」
その言葉は、医者としての本音に聞こえた。
担当医も諦めていない。
それだけで少し救われた。
「先生」
「ん?」
「十月十四日の学会って、一般の人でも行けるんですか?」
担当医は少し目を細めた。
「医療関係者向けの学会だからね。簡単には入れないと思う」
「そうですか」
「ただ、会場の外で待つことくらいはできるかもしれない」
胸が少し強く鳴った。
「でも、長浜君」
「はい」
「君はまだ中学生だ」
その言葉に、現実を突きつけられる。
十三歳。
今の俺は、まだ子供だ。
大人の世界へ真正面からぶつかっても、簡単には相手にされない。
「分かってます」
「お父さんとは話した方がいい」
「はい」
「一人で動いてはいけないよ」
担当医は優しかった。
きっと心配してくれている。
俺は素直に頷いた。
その夜、家に帰ると泰造はまだ帰っていなかった。
優子は台所で簡単な夕食を温めている。
「おかえり」
「ただいま」
「病院行ってたの?」
「うん」
「母さん、どうだった?」
「いつも通り」
「そっか」
優子は少しだけ安心した顔をした。
だが、その表情には疲れも滲んでいる。
姉も無理をしている。
家のことを手伝い、学校へ行き、母の心配をする。
それでもいつも通りに振る舞おうとしている。
「姉ちゃん」
「なに?」
「無理してないか?」
「それ、あんたに言われたくない」
優子は苦笑した。
「徹、最近顔が大人みたいになってる」
「元からだろ」
「そうだけど、最近はもっと」
返す言葉がなかった。
大人みたい。
それは冗談ではなく、本当のことだ。
けれど最近の俺は、五十を過ぎた記憶を持つ大人としてではなく、母を失うかもしれない子供として揺れていた。
夜遅く、泰造が帰ってきた。
食卓へ座ると、いつもより疲れた顔でネクタイを緩める。
「父さん」
「ん?」
「話がある」
泰造は俺の顔を見た。
それだけで、ただの雑談ではないと分かったらしい。
「母さんのことか」
「うん」
俺は担当医から聞いたことを話した。
日下部明という脳外科医。
紹介状。
十月十四日の学会。
もしかしたら直接会えるかもしれないこと。
話している間、泰造はずっと黙って聞いていた。
そして最後に、低い声で言った。
「お前は、その学会に行きたいのか」
「行きたい」
迷わず答えた。
「会える保証はないぞ」
「分かってる」
「会えても、診てもらえる保証もない」
「分かってる」
「それでもか」
「それでも」
泰造はしばらく黙っていた。
沈黙が重い。
俺は拳を握った。
父に反対されれば、俺一人では動けない。
十三歳の体は不便だ。
どれだけ前世の記憶があっても、現実では中学生でしかない。
やがて泰造が息を吐いた。
「分かった」
俺は顔を上げる。
「行くなら、俺も行く」
「父さんが?」
「当たり前だ」
泰造は短く言った。
「母さんのことだ」
その一言で、胸の奥が熱くなった。
父は口数が少ない。
感情を大きく見せる人ではない。
でも、何も感じていないわけではない。
ただ表に出すのが苦手なだけだ。
「ありがとう」
「礼を言うのはまだ早い」
「うん」
「まずは担当の先生にもう一度相談する。紹介状も必要だし、検査資料も持っていかないと話にならん」
泰造は急に現実的な顔になった。
その切り替えが少し頼もしかった。
「分かった」
「学校はどうする」
「休む」
「簡単に言うな」
「母さんのためだ」
泰造は少しだけ困った顔をした。
だが、反対はしなかった。
翌日。
俺は学校で春子たちに事情を話した。
全部ではない。
母の病気で、しばらく部活を休むかもしれないことだけだ。
「そっか」
春子はいつもの元気な声ではなかった。
「無理に来なくていいよ」
「悪い」
「謝ることじゃないでしょ」
達也も頷いた。
「長浜、今はそっち優先しろよ」
こずえも小さく言った。
「……待ってるから」
その言葉が胸に沁みた。
俺は少し笑う。
「ありがとう」
春子が不意に俺の顔を覗き込んだ。
「でもさ」
「ん?」
「一人で全部背負ってる顔してる」
「そんな顔してるか?」
「してる」
春子ははっきり言った。
「長浜ってさ、何でも自分で何とかしようとするじゃん」
「そうか?」
「そう」
否定できなかった。
前世でもそうだった気がする。
人に頼るのが下手だった。
頼る前に諦めるか、一人で抱えるか。
そんな生き方ばかりしていた。
「たまには頼りなよ」
春子は言った。
「私たち、何もできないかもしれないけど」
「うん」
「でも、話くらい聞くから」
それは軽い言葉ではなかった。
春子なりの優しさだった。
その日の夕方。
病院の公衆電話から葵へ連絡した。
番号は前に聞いていた。
何度かコールが鳴り、明るい声が返ってくる。
『はい、如月です!』
「徹だけど」
『徹くん!どうしたの?』
「日下部明のこと、少し分かった」
受話器の向こうで、葵の空気が変わった気がした。
『やっぱり意味あった?』
「うん。脳外科のすごい先生だった」
『そっか』
葵の声は少し震えていた。
『よかった』
「まだ何も決まってない」
『でも、名前が無駄じゃなかったんでしょ?』
「そうだな」
『じゃあ大丈夫』
「根拠ないな」
『あるよ』
「何?」
『私の勘』
思わず笑ってしまった。
でも、その笑いは少しだけ救いになった。
「それから」
『うん』
「十月十四日も繋がった」
『え?』
「その日、脳外科の学会がある。日下部先生も講演予定らしい」
電話の向こうが静かになる。
『……やっぱり』
「やっぱり?」
『うん。何かある気がしてた』
「葵」
『なに?』
「ありがとう」
少し間が空いた。
それから葵がいつもの調子で言った。
『どういたしまして!』
声が明るい。
その明るさに救われる。
『私、東京に来ることになったんだ』
「え?」
『デビューの準備で。事務所の寮に入るの』
「そうなのか」
『同じ東京だよ!』
「まあ、東京は広いけどな」
『細かい!』
葵は笑った。
『でも何かあったら呼んで』
「簡単に言うな」
『簡単に言うよ。だって、呼ばれたら行くもん』
その言葉は冗談っぽかった。
でも、どこか本気にも聞こえた。
『徹くんのお母さん、助かるといいね』
「ああ」
『助けようね』
助けよう。
その言い方が不思議だった。
まるで葵も当たり前のように、由香里を助ける側に立ってくれている。
「うん」
俺は小さく頷いた。
「助ける」
電話を切ったあと、俺はしばらく受話器を見つめていた。
一人じゃない。
由香里が言った言葉を思い出す。
希望があるだけで頑張れる。
確かにそうだ。
日下部明。
十月十四日。
紹介状。
学会。
父。
担当医。
葵。
春子たち。
バラバラだったものが、少しずつ一本の線になっていく。
その線の先に、由香里を救う未来があるのなら。
俺は迷わず進む。
十月十四日まで、あと十七日。
時間は少ない。
けれど、まだ終わっていない。
第25話を読んでいただきありがとうございます。
今回は日下部明へ辿り着くための準備回となりました。
担当医、泰造、春子たち、そして葵。
それぞれが違う形で徹を支えています。
今までの徹は未来の知識を頼りに生きてきましたが、今回は違います。
誰にも答えが分からない中で、それでも前へ進もうとしています。
また、葵も東京へ来ることが決まり、少しずつ物語の中心へ近づいてきました。
十月十四日まで残された時間はわずかです。
果たして日下部明に会うことはできるのか。
次回もよろしくお願いいたします。




