第21話 一割の希望
未来を知っていれば、何でもできると思っていた。
競馬だってそうだ。
少し先のことを知っているだけで、人より有利になれる。
人生だってそうだと思っていた。
やり直せる。
失敗を避けられる。
大切なものを守れる。
そんなふうに考えていた。
だが現実は、そんなに甘くなかった。
由香里が倒れてから三日が過ぎていた。
長浜家の空気は重かった。
病院。
検査。
説明。
家と病院を行き来する毎日。
俺も学校へは行っていたが、授業の内容なんてほとんど頭に入っていない。
春子たちも心配してくれていた。
「大丈夫なのか?」
達也が珍しく真面目な顔で聞いてきた。
「まあ」
そう答えるしかない。
大丈夫じゃない。
全然大丈夫じゃない。
でも何と言えばいいのか分からなかった。
春子も何か言いたそうだったが、結局何も聞かなかった。
その気遣いがありがたかった。
⸻
放課後。
俺は病院へ向かっていた。
病室の前で深呼吸する。
扉を開ける。
由香里はベッドの上にいた。
「徹」
笑っている。
いつも通りの笑顔だった。
「学校終わった?」
「うん」
「ちゃんと勉強してる?」
「してる」
「嘘ね」
「なんで分かるんだよ」
「母親だから」
少しだけ笑った。
だが笑った瞬間、胸が苦しくなる。
いつまでこの笑顔を見られるのだろう。
そんな考えが浮かんでしまう。
⸻
病室には泰造もいた。
最近の父は明らかに疲れていた。
仕事。
病院。
家のこと。
全部一人で抱え込んでいる。
優子もなるべく明るく振る舞っているが、無理をしているのは分かった。
家族みんなが不安だった。
⸻
そして数日後。
精密検査の結果が出た。
担当医から説明があるという。
小さな会議室のような部屋だった。
医師が資料を見ながら話し始める。
「お母さまの脳腫瘍ですが」
誰も喋らない。
「場所があまり良くありません」
嫌な予感しかしなかった。
「手術自体は可能です」
少しだけ希望が見える。
だが。
医師の表情は明るくない。
「ただし」
その言葉だけで分かった。
簡単ではない。
「腫瘍が重要な神経の近くにあります」
「摘出できる可能性はあります」
「しかし」
医師は一度言葉を切った。
「成功率は高くありません」
泰造の手が握られる。
優子が下を向く。
俺は医師を見つめた。
「どのくらいですか」
泰造が聞いた。
医師は静かに答える。
「一割程度です」
部屋が静まり返った。
一割。
十人いて一人。
そんな数字だった。
⸻
帰り道。
誰も喋らなかった。
病院の廊下がやけに長く感じる。
エレベーターの音だけが聞こえる。
泰造は前を向いて歩いている。
優子は泣きそうな顔をしている。
俺は何も考えられなかった。
一割。
その数字だけが頭の中で何度も繰り返される。
⸻
未来を知っている。
それが何だ。
競馬は当てられる。
未来の流行も知っている。
将来儲かることも知っている。
でも。
母さん一人助けられない。
そんな自分が情けなかった。
もし今が二〇二〇年なら。
もし三十年後なら。
もっと治療法があったかもしれない。
もっと成功率は高かったかもしれない。
だが今は一九九〇年だ。
どうにもならない。
⸻
その夜。
病室で由香里と二人きりになった。
窓の外は暗い。
病院独特の静けさがある。
「徹」
由香里が呼ぶ。
「ん?」
「そんな顔しないの」
「どんな顔だよ」
「泣きそうな顔」
俺は何も言えなかった。
由香里は少し笑う。
「母さんね」
「うん」
「まだ死ぬ気ないから」
冗談っぽく言う。
でもその声は少し震えていた。
怖くないはずがない。
一番怖いのは本人なのだ。
「だから徹も元気出しなさい」
「……」
「母親に心配かけない」
いつもの由香里だった。
そういう人だった。
自分が辛い時でも、人の心配をする。
⸻
しばらく沈黙が続いた。
すると由香里がぽつりと言った。
「変な話していい?」
「何?」
「最近ね」
「うん」
「変な夢を見るの」
俺は少し顔を上げた。
「夢?」
「知らない女の子が出てくるの」
心臓が跳ねた。
「女の子?」
「うん」
「綺麗な子でね」
由香里は遠くを見るような目をした。
「歌ってるの」
「歌?」
「なんの歌かは分からない」
「でも楽しそうに歌ってる」
俺は何も言えなかった。
偶然だろうか。
それとも。
石丸家の何かだろうか。
分からない。
ただ妙に胸がざわついた。
「おかしいでしょ?」
由香里が笑う。
「別に」
「そう?」
「うん」
本当は全然別にじゃなかった。
⸻
病院を出る。
夜風が少し冷たかった。
空を見上げる。
星が見える。
前の人生なら、こんな時どうしただろう。
たぶん何もできなかった。
酒でも飲んで現実から目を逸らしていたかもしれない。
でも今は違う。
十三歳だ。
何もできない。
それでも。
何かしなければならない。
そんな気がした。
病院の明かりを見上げながら、俺は拳を握る。
一割。
確かに低い。
でもゼロじゃない。
まだ終わっていない。
そう信じるしかなかった。
第21話を読んでいただきありがとうございます。
今回は由香里の精密検査の結果が明らかになりました。
成功率一割。
長浜家にとって厳しい現実ですが、それでも希望は残っています。
そして由香里が見た不思議な夢。
石丸家の血に関係するものなのか、それとも別の何かなのか。
少しずつ物語の核心にも近づいていきます。
次回もよろしくお願いします。




