■第16話 未完成のメロディ
未来のために生きているつもりだった。
勉強も、音楽も、競馬の研究も。
全部、いつかのための準備。
けれど気づけば、今この瞬間が楽しくなっていた。
それは少しだけ、予定外のことだった。
最近の俺は、勉強どころではなかった。
もちろん、まったくしていないわけではない。
授業の予習も復習もするし、英語の勉強も続けている。
競馬の記録も、新聞を切り抜いてこっそり整理している。
けれど、頭の大部分を占めているのは別のものだった。
DIGITAL FANTASY。
夏祭りの学生ステージ。
そして、初めての演奏。
放課後になると、自然と足が部室へ向かう。
最初は将来のためだった。
バンド経験をしておけば、芸能プロダクションをやる時に役立つ。
音楽の現場を知っておくのは悪くない。
そんな打算があった。
だが今は違う。
単純に、楽しかった。
そのことに気づいた時、俺は少し戸惑った。
前の人生で、こんなに何かに夢中になったことがあっただろうか。
損得ではなく。
勝ち負けでもなく。
ただ、今日も音を合わせたいと思う。
そんな時間が、自分にもあるとは思わなかった。
「長浜、そこもう一回」
春子の声で我に返る。
部室では、夏祭りに向けた練習が続いていた。
春子はギターを抱えたまま、真剣な顔で俺を見る。
普段はよく笑う。
思ったことをすぐ口にするし、達也とはいつもくだらない言い合いをしている。
だが音楽になると、急に顔つきが変わる。
妥協しない。
感覚で動いているように見えて、音へのこだわりは強い。
「そこ、ちょっと綺麗すぎる」
「綺麗すぎる?」
「うん。もっと引っかかる感じ」
「注文が抽象的だな」
「音楽なんてだいたい抽象的でしょ」
春子はそう言って、髪を耳にかけた。
その横顔が、夕方の光を受けて少し赤く見えた。
俺は一瞬、手を止める。
綺麗だな。
そう思ってしまった。
次の瞬間、自分で焦る。
いや、待て。
俺は何を考えている。
中身は五十を過ぎた男だぞ。
目の前にいるのは同級生の女の子だ。
いや、今の俺は十三歳だ。
十三歳の長浜徹として生きている。
そう自分に言い聞かせても、心のざわめきは消えなかった。
「長浜?」
「……ああ、悪い」
「ぼーっとしてた」
「考えてた」
「また?」
春子は呆れたように笑う。
その笑顔を見て、余計に落ち着かなくなる。
これは、たぶん危ない。
まだ恋だとは言いたくない。
言ったら認めてしまう気がする。
だけど春子の真剣な顔に心を引かれている自分がいるのは、間違いなかった。
「おーい、青春してるとこ悪いけどさ」
達也がドラムの前から声を上げた。
「こっちは暇なんだけど」
「してない」
俺と春子の声が重なった。
達也がにやっと笑う。
「息ぴったりじゃん」
「黙って叩け」
春子が言うと、達也は楽しそうにスティックを回した。
こずえは隅でベースを抱えたまま、少しだけ口元を緩めていた。
笑っている。
最近分かってきたが、こずえは表情の変化が小さいだけで、意外とよく見ている。
そして、たまに鋭い。
「曲、どうするの」
こずえが小さく言った。
全員の視線が集まる。
夏祭りのステージでは二曲演奏することになっていた。
一曲は今流行っている曲をカバーする。
これは観客に伝わりやすい。
問題はもう一曲だった。
「オリジナルやりたい」
春子が言った。
最初からそのつもりだったのだろう。
目がまっすぐだった。
「歌ないのに?」
達也が首を傾げる。
「変じゃね?」
「インストでいいじゃん」
「中学生の夏祭りでインストバンドって、客ぽかんとしないか?」
「ぽかんとさせればいい」
「強いな」
達也が笑う。
こずえは少し考えてから言った。
「……言葉なくても、伝わるし」
その言葉に、俺は少し反応した。
言葉がなくても伝わる。
それは、今の俺に妙に刺さった。
石丸家のこと。
未来のこと。
転生のこと。
言葉にできないものばかり抱えている。
でも、音なら出せるのかもしれない。
誰にも言えない感情を、音に混ぜることならできるのかもしれない。
「タイトルは?」
達也が聞く。
春子は少し考え込む。
「まだ未完成だから……」
「未完成?」
「それもいいけど、なんかそのまますぎる」
俺は鍵盤に手を置いた。
まだ曲は形になっていない。
未来のメロディの断片と、春子のギターの感情と、こずえの低音と、達也の勢い。
全部が混ざっている。
どこへ向かうのか、まだ分からない。
「未完成のメロディ」
気づけば、そう言っていた。
春子が俺を見る。
「それ、いい」
「え?」
「それにしよう」
「適当に言っただけだ」
「適当でいいのが出る時あるじゃん」
春子は笑った。
その笑顔に、また胸が少し揺れる。
「じゃあ決まりだな」
達也がスティックで机を叩く。
「DIGITAL FANTASY、初オリジナル。未完成のメロディ」
こずえが小さく頷く。
「……いいと思う」
その日から、曲作りは一気に進んだ。
春子が中心になって、ギターリフを作る。
俺がコードを整理する。
達也が勢いでリズムを決める。
こずえが低音で全体を支える。
バラバラだった音が、少しずつ輪郭を持っていく。
まだ荒い。
でも、確かに俺たちの音だった。
練習が終わる頃には、外はすっかり暗くなり始めていた。
帰り道、俺は商店街を歩いていた。
夏祭りのポスターが貼られている。
赤と黄色の派手な文字。
学生ステージの欄には、まだ参加団体名は書かれていない。
そのうち、ここにDIGITAL FANTASYの名前が載るのだろう。
不思議な気分だった。
「徹?」
聞き慣れた声がした。
振り返ると、恒一がいた。
制服姿で、肩にギターケースを背負っている。
「お前、ギター買ったのか?」
「いや、学校の借りてる」
「似合わないな」
「うるせえ」
恒一は少し照れたように笑った。
その顔を見て、俺も笑ってしまう。
幼稚園の頃、画用紙に車を描いていた恒一。
小学校で漫画のような絵を描いていた恒一。
その恒一が、今はギターケースを背負っている。
時間は確かに進んでいるのだ。
「そういえばお前も軽音部だったよな」
「まあな。まだ全然弾けないけど」
「楽しい?」
「楽しいね」
即答だった。
その返事に少し驚く。
恒一はギターケースの紐を握り直しながら言った。
「音出るだけで面白い」
「最初はそんなもんか」
「徹はもうバンドやってるんだろ?」
「一応」
「名前なんだっけ」
「DIGITAL FANTASY」
恒一は一瞬黙った。
「なんかすごいな」
「だろ」
「意味わかんないけど、なんかすごい」
「褒めてるのか?」
「たぶん」
恒一らしい返答だった。
俺は思わず笑う。
「徹は夏祭り出るの?」
恒一が言った。
「知ってるのか」
「うちの軽音部の先輩も出る。だから見に行く」
「先輩?」
「三年のバンド。めちゃくちゃうまいらしい」
恒一の目が少し輝いていた。
昔、絵を見せてきた時と同じ目だ。
何かに憧れている目。
「俺もいつか出たいな」
その言葉は、何気ないものだった。
でも俺には、妙に重く聞こえた。
前世の自分は、そんなことを思ったことがあっただろうか。
何かの舞台に立ちたい。
自分の音を誰かに聞かせたい。
もし思っていたとしても、途中で諦めたのだろう。
でも今の恒一は、まだ諦めていない。
「出ればいいじゃん」
俺が言うと、恒一は驚いた顔をした。
「簡単に言うなよ」
「簡単じゃないけど、やらないと出られない」
「徹ってたまに先生みたいなこと言うよな」
「悪かったな」
恒一は笑った。
それから鞄から一冊のノートを取り出した。
「そうだ。これ見て」
嫌な予感というか、妙な予感がした。
恒一のノート。
そこには、またあの少女が描かれていた。
長い髪。
大きな瞳。
少し寂しそうな笑顔。
けれど今回は、今までと違った。
少女はマイクを持っていた。
周りには、音符のようなものが描かれている。
まるで、歌っているようだった。
「……歌うのか?」
俺は思わず聞いた。
恒一は首を傾げる。
「わかんない」
「わかんないのに描いたのか」
「なんか、そんな感じがした」
まただ。
なんとなく。
そんな感じ。
恒一はいつもそう言う。
でも、その“なんとなく”が妙に当たっている気がしてならない。
「この子、誰なんだろうな」
俺が言うと、恒一は少し考えた。
「俺も知りたい」
その答えに、胸がざわつく。
恒一も分かっていない。
俺も分かっていない。
けれど、何かが確かにこの少女へ向かっている。
「夏祭り、見に行くよ」
恒一が言った。
「お前のバンドも」
「笑うなよ」
「笑わないって。たぶん」
「たぶんかよ」
二人で笑った。
別れ際、恒一はギターケースを軽く持ち上げた。
「俺も練習する」
「おう」
「そのうち、徹たちと一緒にやれるくらいに」
その言葉に、俺は一瞬だけ返事が遅れた。
一緒にやる。
その未来があるのかどうかは分からない。
未来はもう、記憶通りではない。
だからこそ、少しだけ期待してしまった。
「待ってる」
俺がそう言うと、恒一は嬉しそうに笑った。
帰宅後、俺は部屋でノートを開いた。
勉強しなければならない。
そう思うのに、頭の中では未完成のメロディが鳴っていた。
春子の真剣な横顔。
達也の軽い笑い声。
こずえの小さな「楽しい」。
そして、マイクを持つ謎の少女。
全部が混ざり合って、胸の奥で音になっていた。
俺は未来のために生きている。
そう思っていた。
でも今は、少し違う。
この夏を、ちゃんと生きたい。
そんなことを思っている自分がいた。
第16話を読んでいただきありがとうございます。
今回は夏祭りへ向けた曲作りと、徹の中に芽生え始めた青春らしい感情を描きました。
DIGITAL FANTASYの初オリジナル曲は「未完成のメロディ」。
まだ不器用な四人ですが、少しずつ自分たちの音を作り始めています。
そして恒一も軽音部に入り、音楽へ近づき始めました。
彼が描く“歌う少女”が何を意味するのか。
次回もよろしくお願いします。




