第7話 個体識別が必要です
庭師は、記録帳を閉じようとしていた。
「……ところで」
「まだ何かあるのか」
「……その記録ですが、私の名前がありません」
「ケイトウって書いてあるだろ」
「……それは種類です」
「じゃあ、何て書きゃいいんだ」
「……個体を識別できる名称が必要かと」
「…………」
庭師は記録帳を開き直した。
そこには、こう書かれていた。
『ケイトウ。一株。移動癖あり。要注意』
「これじゃ駄目なのか」
「……ほかにもケイトウがいた場合、混同する可能性があります」
「お前みたいなのが二株もいてたまるか」
「…………」
庭師はケイトウを見下ろした。
「じゃあ、名前は?」
「……行政改革局長です」
「それは役職だろ」
「……現在は久留米ケイトウです」
「それは種類だって言ってんだろ」
「…………」
庭師は腕を組んだ。
「名前は?」
「…………」
脳みそは、すぐには答えなかった。
一年以上、行政改革局長として働いてきた。
その前は、王国に召喚された勇者として扱われていた。
しかし、そのどちらも名前ではない。
では、自分の名前は何と答えればいいのだろう。
「……どうお答えすればいいのか、わかりません」
「そうか」
庭師は、それ以上聞かなかった。
「……確認しないんですか」
「何を」
「……私の名前です」
「わからねえもんを聞いても仕方ねえだろ」
「…………」
脳みそは少し考えた。
行政機関では、記入欄が空白なら確認する。
理由が不明なら調査する。
説明が不足していれば、追加資料を求める。
しかし、庭師は何も求めなかった。
「……ずいぶん簡単なんですね」
「何が」
「……手続きが」
「名前を聞いただけだろ」
庭師は記録帳を指で叩いた。
「まあ、呼び名はあった方がいいな」
「……はい」
「毎回、行政改革局長なんて呼んでられねえし」
「……確かに」
「自分で言うな」
庭師は改めてケイトウを眺めた。
赤い花穂。
太い茎。
しっかりと土に根を下ろした一株。
ただし、放っておくと勝手に動く。
「……久留米ケイトウだったな」
「……はい」
「じゃあ、ルメ」
「……ルメ?」
「久留米から取った。短い方が呼びやすいだろ」
「…………」
脳みそは考えた。
ルメ。
二文字。
発音しやすく、ほかの植物とも区別できる。
「……合理的ですね」
「名前にまで効率を求めるな」
「……いえ、気に入りました」
「そうか」
庭師は記録帳に書き加えた。
『ルメ。ケイトウ。一株。移動癖あり。要注意』
「……あの」
「何だ」
「……移動癖は残すんですか」
「残す」
「……名前がついたので、評価も更新されるのかと」
「名前がついても、お前が動くのは変わらねえだろ」
「…………」
庭師は記録帳を閉じた。
「俺はロアンだ」
「……ロアンさん」
「そうだ」
「……よろしくお願いします」
「今さらだな」
ロアンは道具を持ち上げた。
「じゃあ、ルメ。今日はもう余計なことするなよ」
「……はい」
ロアンは花壇の向こうへ歩いていった。
脳みそは、その背中を見送った。
ルメ。
自分の名前を、頭の中で繰り返した。
王国の勇者。
行政改革局長。
久留米ケイトウ。
どれも、自分を説明する言葉だった。
けれど、ルメは違う。
ただ、ここにいる自分を呼ぶための名前だった。
「……ルメ」
声に出してみた。
少し、不思議な感じがした。
隣の苗が風に揺れた。
「……あなたにも、名前があるといいですね」
返事はない。
「……まあ、なくても困らないのかもしれませんけど」
脳みそは、隣の苗を眺めた。
自分が根を動かしたせいで倒してしまった苗だ。
ロアンは、その苗の状態も気にかけていた。
名前がなくても、ちゃんと見てもらっている。
「…………」
それは、少し不思議なことだった。
しばらくして。
ロアンが水差しを持って戻ってきた。
「ルメ、水は足りてるか」
「……はい」
「土は?」
「……快適です」
「ならいい」
ロアンは隣の苗にも水をやった。
「こいつも、もう大丈夫そうだな」
「……よかったです」
「お前がまた倒さなきゃな」
「……その件は反省しています」
「ならいい」
ロアンは立ち上がった。
「ほかに困ってることはないか」
「……今のところ、ありません」
「そうか」
脳みそは少し考えた。
「……ロアンさん」
「何だ」
「……明日も、ここに来ますか」
「当たり前だ。俺の仕事場だからな」
「……そうですか」
ロアンはケイトウを見下ろした。
「お前は?」
「……私は、まだわかりません」
「そうか」
「……実証試験は六時間なので」
「面倒くせえな、研究ってのは」
「……必要な手続きです」
「お前、そういうの好きそうだもんな」
「…………」
ロアンは水差しを持ち直した。
「まあ、また来りゃいい」
「……いいんですか」
「花壇の許可は取ってあるんだろ」
「……はい」
「だったら、俺は構わねえよ」
「…………」
脳みそは、足元の土を感じた。
柔らかく、暖かい。
最初は、この土に入りたかった。
ただ、それだけだった。
「……ありがとうございます」
「礼を言うほどのことじゃねえよ」
ロアンは歩き出した。
「じゃあな、ルメ」
「……はい。また」
その背中が見えなくなってからも、脳みそはしばらく花壇を眺めていた。
水がある。
日差しがある。
柔らかい土がある。
そして、自分の名前を呼んでくれる人がいる。
「……また、来たいですね」
隣の苗が、風に揺れた。
返事かどうかは、わからなかった。
それでも、今度は判定する必要がない気がした。
ルメは、もう一度自分の名前を口にした。
「……ルメ」
悪くない響きだった。
少しだけ、気分が浮き立つ。
その気分につられて、無意識に根を動かしていた。
一本が、土から抜けた。
「ルメ!」
花壇の向こうから、ロアンの声が飛んできた。
「……はい」
名前を呼んでくれる人がいる。
想像していた使われ方とは、少し違った。




