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第26話 自分自身の観察は推奨されません



三日後。


王宮研究室では、次期植物型身体への意識転移試験の準備が進められていた。


実験台には、一鉢のクリスマスローズが置かれている。


草丈は約30センチ。


白い花が6輪。

つぼみも、いくつかついていた。


花の向きは、それぞれ違っていた。


真上を向いた花。

斜め上を向いた花。

横を向いた2輪の花。

斜め下を向いた花。

そして、ほぼ真下を向いた花。


クリスマスローズの鉢の右隣には、ルメの脳を収めた透明な容器があった。


脳は脳脊髄液の中で、静かに保持されている。


クルトはクリスマスローズの正面に立っていた。


研究室には、クルトのほかに5人の研究員がいた。


3人は研究室の奥で転移術式を管理している。


1人は実験台の近くで植物の状態を確認していた。


眼鏡をかけた、少しぼんやりした印象の研究員だった。


残る1人はクルトの後ろで記録板を持っている。


「局長、準備が整いました」

『……いよいよだね』

「はい。今回の試験では、24時間の継続を目標とします」

『……前の4倍か』

「継続時間は保証できません。異常が確認された場合は、直ちに中止します」

『……分かってる』


クルトは術式担当の研究員に目を向けた。


「転移術式は?」

「起動準備完了です」

「維持術式は?」

「正常です」

「脳本体の維持状態は?」

「異常ありません」


続いて、植物担当の研究員を見た。


「候補株の状態は?」

「葉、根ともに良好です。花は6輪開花しています」

「承知しました」


クルトはルメに向き直った。


「局長、意識転移を開始します」

『……よろしく』


術式が発動した。


容器の周囲に淡い光が生じる。


ルメの意識が、脳から離れた。


次の瞬間。


土があった。


冷たく、湿った土。


根の周囲を包み込む感触が、身体の奥まで伝わってくる。


「……ああ」


水がある。

養分がある。


根を通して、土の状態が伝わってくる。


「……戻ってきた」


「局長、応答を確認しました」

「……クルト」

「はい」

「……土だ」

「はい。鉢植えです」

「……うん。土だね」


記録担当の研究員が筆を動かした。


「意識転移成功。根部感覚あり」


クルトが尋ねた。


「局長、視覚はありますか?」

「……ちょっと待って」


ルメは、花から伝わる感覚に意識を向けた。


明るい。


何かが見える。


天井。


窓。


クルトの顔。


研究室の奥。


床。


鉢の縁。


「……あれ?」


天井には照明がある。


窓の向こうには青空が広がっている。


クルトはクリスマスローズの正面に立っていた。


その右側には、透明な容器が置かれている。


研究室の奥では、3人の研究員が術式を管理している。


床には研究員の靴が見える。


鉢の縁には、土が少しついていた。


全部、同時だった。


「……クルト」

「はい」

「……いっぱい見える」

「いっぱい、ですか?」

「……うん。天井も窓も、クルトも床も」

「同時に、ですか?」

「……うん」


クルトは記録担当の研究員に合図した。


「視界はいくつありますか?」

「……ちょっと待って」


ルメは意識を集中した。


見えているものは、6つのまとまりに分かれているようだった。


ただし、6つの映像がきれいに並んでいるわけではない。


窓の景色と、天井の照明。


クルトの顔と、研究室の奥。


床と、鉢の縁。


それぞれの映像が、意識の中で重なり合っている。


どこからどこまでが1つの視界なのか、まだはっきりしない。


「……6つ」

「6つ?」

「……視界が6つある」


クルトはクリスマスローズを確認した。


白い花が6輪。


「各花から独立した視覚情報が送られている可能性があります」

「……花、1つずつ?」

「現時点では仮説です」


記録担当の研究員が筆を動かした。


「複数視界の同時認識を確認。各花との対応関係は未確定」


「……前は1つだったのに」

「久留米ケイトウの花穂は1つでした」

「……そうか。今回は6つなんだ」


クルトは植物担当の研究員を呼んだ。


「花の向きを確認してください」

「はい」


眼鏡の研究員が鉢に顔を近づけた。


「第1花、真上を向いています」

「はい」

「第2花、斜め上。窓の方向です」

「はい」

「第3花、横向き。クルトさんの方です」

「はい」

「第4花、横向き。研究室の奥の方向です」

「はい」

「第5花、斜め下向きです」

「はい」

「第6花、ほぼ真下を向いています」

「……ちょっと待って」

「はい」


ルメが口を挟んだ。


「……花に番号をつけてくれない?」

「番号ですか?」

「……うん。1から6まで」

「表示方法を検討します」

「……付箋みたいなのでいいよ。花の縁に貼って」

「剥がれる可能性があります」

「……剥がれたら貼り直せばいいでしょ」

「移動試験では脱落する可能性があります」

「……移動するときになってから考えよう」

「承知しました」


眼鏡の研究員が、小さな紙片を6枚用意した。


それぞれに数字を書き込む。


花を傷つけないよう、縁に軽く貼りつけていった。


「第1花、貼付完了」

「……うん」

「第2花、貼付完了」

「……うん」

「第3花、貼付完了」

「……うん」


6輪すべてに番号がついた。


「……じゃあ、1番から確認しよう」

「承知しました」


植物担当の研究員が、1番の花の前に小さな紙片を差し出した。


そこには、大きく「1」と書かれている。


「第1花の正面に表示しました」

「……あ、天井の視界に1番が入った」

「第1花は天井ですね」

「……うん」


研究員は紙片を引っ込めた。


続いて、2番の花の正面に「2」を出す。


「第2花です」

「……窓の視界に2番が見えた」

「承知しました」


3番の花の前に「3」が出された。


「……あ、クルトの顔が隠れた」

「第3花です」

「……うん。3番がクルト」


4番では、研究室の奥の景色に数字が現れた。


5番では、床の景色に数字が現れた。


6番では、鉢の縁の近くに数字が入った。


「……これで全部分かった」


クルトが確認した。


「対応関係を読み上げてください」

「……1番、天井」

「はい」

「……2番、窓と青空」

「はい」

「……3番、クルトと実験台」

「はい」

「……4番、研究室の奥」

「はい」

「……5番、床と靴」

「はい」

「……6番、鉢の縁と土」

「承知しました」


記録担当の研究員が書き込んだ。


「6輪すべての視覚対応を確認」


「……これで説明しやすくなった」

「次回以降の試験手順に追加します」

「……そういうのは早いね」


クルトはクリスマスローズの正面に立っていた。


3番の花からは、クルトの顔と、その右側にある脳の容器が同じ視界に入っている。


「局長、私の顔は見えていますか?」

「……3番に見えてる」

「では、少し移動します」


クルトが、脳の容器とは反対方向へ1歩動いた。


「今は?」

「……3番の左側にいる」

「ほかの視界には?」

「……今のところ、いない」


クルトがさらに左へ動いた。


「……あ、端まで来た」

「この位置では?」

「……まだ3番。顔が半分だけ見える」


クルトがもう1歩動く。


「……消えた」

「どの視界からですか?」

「……3番」

「ほかの視界には?」

「……いない」


クルトは立ち止まった。


「承知しました」


記録担当の研究員が書き込んだ。


「第3花の視野外へ移動した対象は、ほかの視界に自動的には現れない」


「……そりゃそうだよね」

「確認は必要です」

「……うん。それはそう」


クルトが元の位置に戻った。


「……あ、戻ってきた」

「第3花ですか?」

「……うん。3番」


ルメは少し考えた。


「……クルト」

「はい」

「……花って、動かせるはずだよね?」

「植物型身体の運動機能は、久留米ケイトウで確認されています」

「……根っこは動かせたもんね」

「はい」

「……じゃあ、花も動かせると思うんだけど」


ルメは、3番の花を動かそうとした。


クルトの顔を、もう少し正面から見たかった。


しかし。


何も起こらなかった。


「……あれ?」

「花の向きに変化はありません」

「……うん。動かし方が分からない」


人間だったころは、見たいものに自然と目を向けていたはずだ。


意識するより先に、眼球が動く。


だが、花は違う。


3番がどの花なのかは分かる。


それでも、その花をどう動かせばいいのか分からない。


「……根っことは違うんだね」

「操作方法が異なる可能性があります」

「……あとで練習してみよう」

「検討項目に追加します」


クルトは記録担当の研究員に指示した。


「花の随意運動について、記録してください」


研究員が書き込んだ。


「花の随意運動は未確認。操作方法の検証が必要」


ルメは、3番の視界に意識を戻した。


クルトの姿。


実験台。


その上に並ぶ器具。


そして、クルトの右側にある透明な容器。


「……あれ?」


容器は、実験台の上に最初から置かれていた。


中には、淡い色をしたものが浮かんでいる。


表面には細かな溝がある。


丸みを帯びた形。


「……クルト」

「はい」

「……3番に映ってる、透明な容器」

「はい」

「……中にあるの、何?」

「局長の脳です」

「…………」


ルメは、もう1度見た。


「……私の?」

「はい」

「……脳?」

「はい」

「……あれが?」

「はい」


クルトは容器を確認した。


「視認できていますか?」

「……うん。でも、ちょっと遠い」

「承知しました」


クルトは容器の固定具を確認した。


そして、脳を脳脊髄液に保持したまま、容器をゆっくりと3番の花へ引き寄せた。


ルメの視界で、脳が大きくなった。


「……おお」


クルトが、さらに少し近づける。


細かな溝が、はっきり見える。


「……おおお」

「見えますか?」

「……見える、見える」


容器が、もう少し近づいた。


「……クルト」

「はい」

「……近い近い近い」

「視認性を高めています」

「……ぼやけた薄ピンクしか見えないから、ちょっと離して」

「承知しました」


クルトは容器を少し戻した。


「この位置では?」

「……うん。ちょうどいい」


ルメは、自分の脳をまじまじと見た。


脳脊髄液の中に、淡い色をした脳が浮かんでいる。


細かな溝。


丸みを帯びた形。


動く様子はない。


「……気持ち悪いね」

「ご自身の脳です」

「……知ってる」

「現在、意識は植物型身体に転移しています」

「……うん」

「脳本体は、引き続き容器内で維持されています」

「……それも知ってる」


ルメは、容器を見つめた。


「……私、あそこにいたんだ」

「はい」

「……今は、こっちにいるんだね」

「はい」


少し間が空いた。


「……自分の脳を見る日が来るとは思わなかった」

「貴重な観察機会です」

「……そういう問題かな」


クルトが記録担当の研究員に指示した。


「自己脳観察時の心理的反応を記録してください」


「……何て書いたの?」

「心理的反応あり、です」

「……気持ち悪いって書かないんだ」

「必要であれば追記します」

「……いや、いい」


クルトは次の検査項目を確認した。


「……あ、待って」

「はい」

「……脳の容器、そこに置いておいて」

「理由を教えてください」

「……自分がどうなってるのか、見ていたい」

「承知しました」


記録担当の研究員が追記した。


「脳本体の視認継続を希望」


研究室では、研究員たちが作業を続けていた。


術式を管理する3人。


植物の状態を確認する眼鏡の研究員。


クルトの後ろで記録を取る研究員。


誰かが歩く。


誰かが資料をめくる。


誰かが器具を操作する。


6つの視界から、それぞれ違う景色が伝わってくる。


ルメは、その中の3番に意識を向けていた。


脳脊髄液に浮かぶ、自分の脳。


さっきよりも、ずっと近くにある。


「……クルト」

「はい」

「……あれ、私なんだよね」

「はい」

「……あれで、考えてたんだ」

「はい」

「……喋って、仕事して」

「そのとおりです」


ルメは、もう1度自分の脳を見た。


今は土の冷たさが分かる。

根から水を吸っていることも分かる。


6つの花から、研究室のあちこちが見えている。


あの容器の中にいたときには、どれも感じられなかった。


それでも、考えていた。

クルトと話していた。

毎日、仕事をしていた。


「……不思議だね」

「何がでしょうか」

「……あれを見ても、自分だって感じがしないんだ」

「現在、局長の意識は植物型身体にあります」

「……うん」

「脳本体は、意識転移前と同じ状態で維持されています」

「……そうなんだよね」


ルメは、容器の中を見つめた。


あれは自分の脳だ。


その事実は分かっている。


けれど、今ここで土を感じ、光を見て、考えている自分と、容器の中に浮かぶ脳は、どうしても同じものには思えなかった。


「……クルト」

「はい」

「……あれに戻ったら、また私になるんだよね」

「はい。意識の再転移を予定しています」

「……今は、ただの脳なんだ」

「局長の脳です」

「……うん」


ルメは少し考えた。


「……私がいなくても、私の脳はそこにあるんだね」

「はい」

「……変なの」


6つの視界は、相変わらず重なり合っていた。


そのうちの1つに、自分の脳が映っている。


自分だという実感はない。


それでも、あの脳は1年以上、ルメとして考え、話し、仕事をしていた。


今は、何も語らず、容器の中に浮かんでいる。


ルメは、その脳を見つめ続けた。


ついさっきまで、自分だったもの。


「……確かに、気持ち悪いね」





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