第52話 好きの手前で止まる
婚約成立の翌朝、同僚書記官は執務室の扉を叩かず、ただ声をかけた。
「仕事に戻ります」
その言い方は、宣言だった。命令でもなく提案でもなく、そういうものであると事実を述べる口調。私はペンを置いた。テーブルには、昨夜の清書の控えが積み重なっている。婚約証書の影。
レオンは机の奥に立ったまま、その言葉を聞いていた。彼の顔は何も動かなかった。でも、指先が、本の背をなぞる仕草が1度止まった。それだけだ。
「返書の返信期限が本日中です。朝食は食堂で。机での飲食は禁止のままです」
同僚書記官は続けた。読み上げるように。読者にではなく、自分に言い聞かせるように。彼は前夜、婚約の成立を見届けていた。公証官の前で、我々の署名欄の高さが同じであることを確認していた。それなのに、この返事だ。
「……かしこまりました」
私は答えた。返事を「選択」として口にしたあの公証室の記憶は、遠いものになっていた。わずか1晩で、制度の重さが、また肩に落ちてきた。
同僚書記官は、執務室を出ていった。足音は、廊下で止まることなく、奥へ向かった。鐘を鳴らしに行くのだろう。定時の合図を。
食堂は、1人で歩いた。
いや。1人ではなかった。護衛が、数歩後ろにいた。昨日の婚約成立まで、彼らの距離は詰まることなく、記録として留められていた。今日も、その距離は変わらない。廊下を曲がるたびに、足音が先に到達する。視線だけで位置取りが変わる。
食堂の机は、昨日までと同じ場所に固定されていた。私たちはたしかに「選び合う」と署名したはずだ。でも、その選択は、公の空間の中でのみ有効なのだ。
レオンと顔を合わせたのは、座る時だけだった。
「朝食です。本日は……」
同僚書記官が皿を置く。その言い方は、いつもと変わらない。でも、私の眼には、彼の指先が、わずかに緊張しているように映った。祝杯を避けている。定時まで、あと何時間か。制度を守るために、彼は甘さを自分で潰している。
レオンは、水差しを渡してきた。その手は、昨日の返事の場面より、わずかに近い距離にあった。でも、同僚書記官がテーブルに3脚の椅子を無言で増やし、視線を落とし、それ以上何も言わなかった。
食べることが職務。そう、彼は何度も言った。
我々は、食べた。言葉なく。
廊下に出たのは、食堂の鐘が鳴った直後だった。
護衛が、距離を整える。人目がある場所での距離は、決まっている。公的な距離だ。立ち話は噂の餌になるから、彼らは回廊へ私たちを導こうとした。でも、そこより先の通路は、護衛の配置でふさがれていた。
「……こちらへ」
護衛長が言う。その先は、書簡棚のある廊下だ。記録の場。公開の場所。でも、その1角だけは、人目が少ない。
レオンが、その廊下へ向かった。
追いかけるつもりで、私も足を動かした。けれど、距離は——やはり、手を取れない距離のままだった。
彼は、書簡棚の前に立ち止まった。懐から、折り目のついた1通を取り出す。その動きは、ゆっくりだった。昨日よりも。確かに、昨日の返事の場面より、ずっとゆっくりと。
「フィリーネ」
彼が、名を呼んだ。公開の廊下で。護衛の気配のすぐ先で。
その呼び方が、何かを突き破ろうとしているのが、わかった。
「これは」
彼が言う。その1通を、手のひらで、やさしく示す。「3年間、毎月、お返事の前に読んでいました」
3年。それは、私が王宮から出る前の、全ての月のこと。王太子の婚約者として、身分ある側でいた、その全ての時間。
追伸。彼は追伸を読んでいたのだ。私の署名より後に、密かに続く言葉を。「規則違反ギリギリの」温度を。
「……レオン」
私は、彼の名を呼こうとした。
でも。
その先を言う前に。
「好きが——」
言いかけた。喉の奥で。そこから先が、続かなかった。
好き、という言葉。最も簡潔で、最も直接的な言葉。でも、それを言葉にしたとたん、何かが壊れるような気がした。条文で守られた「手を取る場面は公の場で」という文言さえ、ここでは脆い。守られているはずなのに、私たちの声は、誰の耳に届くのかわからない。記録されるのかもしれない。検閲されるのかもしれない。
「……追伸、みたいに言えたら、楽なのに」
代わりに、そう言ってしまった。
追伸。逃げ道。相手国のための温度の技術。その小さな字の中に、隠せば、大丈夫。そう、思っていた。
折り目のついた1通は、彼の手のひらの中にあった。渡そうとしていたのに。だが、その瞬間——
「定時です。執務室へ戻ってください」
同僚書記官の声が、廊下の奥から響いた。どこから現れたのか、気づかなかった。彼は、その1通を見ていた。見て、ゆっくりと1度目を閉じた。
レオンは、それを、また懐へ戻した。
1通は、まだ渡されていない。でも、その折り目は、3年間ずっと、私の言葉を待っていたのだ。
追伸は、逃げ道ではありません。
彼の声が、あの公証室で、言っていた言葉が、また耳に蘇った。
「……あなたの言葉です」
執務室に戻った時、同僚書記官は祝杯の杯を持ってきた。
「婚約成立のお祝いです」
そう言いながら、杯を差し出す。その表情は、真顔だった。
「定時なので、3口までです。命令です」
レオンが、その杯を受け取った。その指は、わずかに震えていた。いや。震えているのではなく、何かを押さえようとしていたのだ。つい、さっき、折り目の1通を懐にしまった指が。
私たちは、杯を受け取った。3口。定時。
でも、その最初の1口の時、レオンとの間で、同時に顔を見合わせてしまった。そして、同時に、笑ってしまった。その笑いは、照れだった。不自由さへの、理不尽さへの、もう笑うしかないという種類の、照れ。
同僚書記官は、それを見て、何も言わなかった。ただ、杯を静かに片付けた。
定時の鐘が鳴った。1日が、また終わる。
窓を見た。外は、まだ昼間のように明るい。でも、その窓は、昨日から、閉じたままだ。私の窓が開く時間は、制度上、保護される。でも、いつから始まるのか。いつ、その時間は、本当に来るのか。
明朝、公証室で、返書が確定される。その時に。
だが、そこからも、制度と記録と距離が、私たちの間にある。折り目の1通は、まだ渡されていない。渡そうとして、何度も遮られている。
言葉も、渡せていない。
「明日の空を、あなたの目で見たいですか」
レオンが、ほぼ呟くようにして言った。執務室の隅で。誰に聞かせるわけでもなく。
その問いかけは、疑問符で終わっていた。
答える時間は、まだ与えられていなかった。
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