第51話 選び合う一筆
清書台の上に置かれた原稿は、昨日の修正条項を含めた婚約証書だった。表紙に「返事確認欄」と刻まれている。
フィリーネ・クレスト。その名を書く署名欄は、レオン・ヴァイスの署名欄と同じ高さで、同じ大きさで、同じ圧で置かれていた。力関係を残さない。そう公証官は言った。
その下に、追加の条項欄がある。昨日レオンが足した「手を取る場面は公の場で」という修正文言。その続きに、真っ白な空白。それは私のためだ。
「時間はあります」
同僚書記官が、淡々と言った。「明朝の誓約印までに決めれば、公証室で読み上げます。それまでは、変更可能です」
変更可能。つまり、条件を足す、引く、変える――全部が、私の手に委ねられている。
条約草稿を何通も見てきた。交渉の痕跡は、修正線と朱筆の修正文言で埋まっていた。でも、この欄は違う。求めてくるのではなく、待っている。
「考える時間が必要ですか」とレオンが言う。執務室の角に立って、まるで部下への確認のような距離から。「あるいは、昨日のように、共に」
昨日は、彼が見守る中で、赤ペンで修正文言を足した。「手を取る場面は」から始まるあの強い言い方。あれは、彼の望みだ。同時に、私が自分で呼ぶために必要な条件だった。
今日は、私が足す番。
万年筆を握った。指先が、いつもの癖で軸のひびをなぞる。知った痛み。6年間、この軸は変わらずに残っている。この小さなひびの中に、数多くの言葉が通ってきた。
でも今、この軸が握られるのは、誰かの命令のためではない。
紙の上に、文字を置き始めた。
「窓を開ける時間は――」
手が止まった。
「いえ」
消した。赤ペンで引き直した。昨日、レオンがやったように。ただし、彼が「赤」を選んだのに対して、私は黒を選ぶ。インク色は同じ。でも筆記者は違う。
「窓を開ける時間は、フィリーネの権利として保証される。毎日。最低でも、30分間」
書いた。息をつかずに。指が震えたけれど、文字は乱れなかった。万年筆のひびが、揺れを吸収してくれたのか、それとも私の決意が、ひびを埋めたのか。
わからない。でも、手は止まらない。
「その時間には、誓約も職務も、全ての負担をもたらさない。制度上、保護される時間とする」
これは、お願いではない。条件だ。
書きながら、その言葉が口から出ていた。「これは、お願いじゃなくて。条件です」
ペンが動く音。その音だけが、静かな執務室に落ちた。同僚書記官は水差しを整理していて、目を向けない。その距離感さえも、「好きにしろ」と言っているようだった。
条文を読み終えた。最後の1行で句点を打つ。それで完成。
原稿を机の上に置いた。修正部分が見える角度で。
「どうぞ」
レオンに見せるつもりで、そう言った。いや、命じたのか。6年間の癖が抜けていない。「どうぞ」という言い方は、部下や同僚に対する指示語だ。
でも彼は、それを受け取った。機械的ではなく。その条文を読む彼の顔が、1度だけ、何かに動かされたように見えた。
ペンを握った。執務机の引き出しから、赤ペンを取り出す――いや、待った。それは、彼が修正する合図だ。昨日も赤を使った。でも、今日は、彼がどう応じるのか。
レオンは、その原稿の欄の余白に、新しく文言を加えた。赤ペンで。彼の筆跡で。
「窓を開ける時間の設定に加え、その時間における心身の安全と、全ての記録からの除外を、契約上、保証する」
そう書き足した。その後、句点を打つ。
つまり、彼は、私の条件をそのまま受け入れるのではなく、それを強化した。
「ええ」
彼が言う。「だから守れます。――守るべき"規定"です」
私の条件は「30分間、窓を開ける時間」だった。ただし、彼はそれを「安全」「記録からの除外」まで含めて強くした。つまり、その時間、私は完全に自分のものになっていい。誰の目もない。記録もない。ただ、窓の外の空と、彼の守りだけ。
そう、書かれていた。
原稿が完成した。昨日の「手を取る場面は公の場で」という条項と、今日の「窓を開ける時間は私のもの」という条項が、1つの証書に並んだ。
「明朝、公証室で読み上げます」と同僚書記官が言った。「この条文で、最終確認をしてください」
レオンが、原稿を慎重に持ち上げた。封筒に入れる準備をしている。その動きがゆっくりだった。急いでいない。ただ、丁寧に扱っている。あたかも、それが脆いものであるかのように。
いや、違う。
あたかも、それが、私たちの約束だからだ。
神殿公証官は「台帳に記録される」と言った。でも、その前に。この1枚の紙は、2人の手の中だけにあって、昨日も今日も、変わることなく守られている。
執務室の窓が、夜の風で揺れた。まだ開いていない。でも、もう少しで開く。明朝の誓約印の後、すぐに。
「封蝋を待つ間」と公証官の声が頭の中で響く。「動かないでください」
昨日は、署名の後、数分間、立ったまま動かなかった。手さえ動かさない。印泥が乾くまで。その時間、2人は同じ空間にいながら、言葉を交わさなかった。言葉が不要だったから。
今日は、どうなるのか。
原稿は明朝、公証室に戻される。その時、また、昨日と同じように、立ったまま動かない時間があるだろう。でも、その時の意味は変わった。
昨日は、「手を取る」という条項を確定させる時間だった。
今日は、「窓を開ける」という願いを確定させる時間になる。
そして、その後。
「非公式には――」
レオンが言いかけた。低い声で。執務机の縁に、かすかに両手をついて。
「定時です」
同僚書記官が呼びかけた。廊下から。いや、執務室の隅から。さっき誰がいたのか、気づかなかった。
「執務は終了です。フィリーネさんも、休息をお取りください。命令です」
レオンの言葉が止まった。「非公式には」の後が、また遮られた。
でも、彼の目は、その先を言い終えようとしていた。何か。言い遠ぶりようのない、何か。
その言葉は、明朝、誓約印の香りが立ち上る公証室で、また試みられるだろう。そして、また遮られるだろう。同僚書記官が「定時です」と言って。
でも、いずれは届く。その言葉は。今日の「窓を開ける時間は保証される」という条項の中に、封じ込められたまま、いつかは表に出てくる。
ゆっくりと。
言葉よりも先に。
手続きの中で。
「かしこまりました」
私は答えた。返事の書簡を手に取りながら。原稿は完成した。あとは、明朝の公証室で。
窓を見た。まだ閉じている。でも、明朝、その窓は開く。そして、その日から、毎日、決まった時間、私の権利として開き続ける。
制度に守られた、私の空。
そこへ、いずれは、彼の言葉が降りてくるのだろう。
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