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【書籍化決定】「完結済」「もう頑張れません」と告げて去った書簡官を、王太子は思い出せなかった  作者: 夢見叶
第9章 最後の一行が、明日を変える

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第50話 返事は今、逃げない

 神殿の時鐘が、昼の12時を刻んだ。


 その音が、公証室の奥まで響く。壁の淡い色が、わずかに揺れた気がした。香気が深く沈んだ空間で、誓約印泥の匂いが立ち上っている。


 公証官が、顔を上げた。


「署名者フィリーネ・クレスト。返事の時間です」


 文字通りだった。期限が、音になって、行為になって、私の前に立った。


 後ろに護衛。左に同僚書記官。右奥に、レオンが立っている。全員が私を見ていた。でも誰も動かない。ただ見守る距離。


 昨日の手の温度が、もう消えている。


「返事がなければ」と公証官が、淡々と続ける。「署名は無効です。本日中に誓約印を受けなければ、婚約そのものが宙ぶらりんのままです」


 つまり、逃げられない。逃げたら、昨日の手は幻になる。あの修正条項も、契約文言も、全部が「なかったこと」に変わる。6年間の執務室より、短い時間で。


 誓約印。名前だけで、全部を確定させる。


 私の指先が、震えた。万年筆を握っている指が。


「フィリーネ」


 低い声が、全部を止めた。


 レオンが署名台の前に立った。背が伸びたわけではない。でも、空間の中での彼の立ち位置が、急に重くなった。


 彼が、私の名を呼んだ。正確に。逃げ道を与えないくらい、静かに。ただし、強要ではなく。


「決めてください。今、この場で。返事を」


 彼の目が、私を逃がさない。でも圧ではない。待っている。その待ちの形が、完璧だった。


「あなたの速度で」


 私は立ち上がった。両脚が重い。机の上に手をついて、ゆっくり。


 万年筆のひびを、親指でなぞった。小さな傷。知った傷。6年間、この軸のひびは変わらずに残っている。白い手袋の上に、黒いインク。今朝も滲んでいた。でも、その中身は変わった。


 書簡ではなく、選択。機能ではなく、願い。


 返事書の原稿が、机の上に置かれていた。昨日の修正条項を含めた婚約証書の「返事確認欄」。そこに私の名を書かなければ、全部が無効になる。


 でも同時に、そこに名を書けば——すべてが、確定する。


「……やります」


 声が出た。自分の声だと思うまで、少し時間がかかった。


「返事を、します。今」


 署名台に向かった。護衛が動かない。その位置のままで、ただ気配を残す。証人として。司法として。記録として。


 レオンが署名欄の横に立っている。同じ高さ。同じ視線の高さで。彼が私の名を呼ぶ。


「約束を返す気ですか」


 完璧な言い方だった。圧ではなく、確認。逃げ道を残しながら、でも逃げないための全ての条件を揃えて。この男は、私に逃げ道を与えながら、逃げないほうを選ばせる。その選び方を教える。


「はい」


 私の返事は、もう戻れない。


 万年筆を握った。ひびの軸が、いつもより重い。いや、重いのは私の腕だ。背中だ。心臓だ。指先が、机の上の紙に向かう。


 公証官が、静かに言う。


「署名の前に、修正条項の実行をご確認ください。『手を取る場面は公の場で。護衛が証人として立会える状態で。その場面においては、隠さない』。これを、もう1度、実行いたしますか」


 つまり、今ここで。護衛の目の前で。誓約印の香りが立ち上る公証室で。


 レオンの手が机の上に置かれた。


「待っています」


 3文字。でも全てが入っていた。待つことの温度。逃げ道を残す言い方。そして、決めるのは私だという確認。


 私の手が伸びた。


 触れた。彼の手に。


 公の場で。神殿公証官の面前で。護衛の視線の中で。誓約印の香りが立ち上る公証室で。


 その手には、昨日と同じ温度があった。でも、その温度の意味は変わった。昨日は「可能性」だったなら、今日は「約束」だ。


「確認いたしました」と公証官が言う。「修正条項の実行を確認いたします。台帳に記録します」


 手が離された。温度だけが残った。手のひらに刻まれた感覚。明日の朝、それでも残っているだろうか。明日の夜は。1ヶ月後は。


 署名欄に、フィリーネと書いた。彼の翔の隣に、私の名。同じ高さで。同じ大きさで。同じ圧で。


 ペンが動く音。紙に文字が落ちる音。その音だけが、この部屋の証人だ。


「婚約証書の署名が確定いたしました」と公証官が言った。「本日中に誓約印を受けてください。印泥の乾燥を待って、完了です。以後、この証書は神殿台帳の永遠保存部に記録されます」


 永遠。その言葉が、石のように落ちた。


 外へ出た。石段を下りる。護衛が距離を保ったまま。2人きりにはならない現実の壁。でも手の温度は、その壁を越えている。


 並木道に向かう廊下。レオンが、私のすぐ後ろを歩いている。近い距離。でも手を取ってはいない。修正条項は「公の場で」と限定した。


「フィリーネ」


 レオンが懐から何かを取り出した。白い紙。折り目だらけの、小さな紙。その折り目は何度も何度も開いては閉じられて、まるで彼の心臓の鼓動を刻んでいるようだった。


 彼が私に渡そうとした。その瞬間。


「帰路です」


 同僚書記官が呼びかけた。廊下の角から、その声が。


「定時前のご報告があります。フィリーネさん、執務室へ」


 レオンの手が止まった。懐に戻される。見えない。でも、その手が握っていた紙の折り目は、私の脳裏に焼きついていた。


 執務室に戻ると、返書を仕上げるための清書台が用意されていた。明朝までに書き上げれば、後は誓約印だけ。


 同僚書記官が、無言で水差しを置いた。その横にグラス。


「返事を書く前に」と彼が言う。「水を飲んでください。命令です」


 レオンが、ぎこちなく水差しを手に取った。グラスに注ぐ。その手の動きだけ妙に不自然だった。耳が赤い。照れているのだ。


 グラスを受け取ると、彼はすぐに机の上に新しい紙を置いた。


「ただし——」


 彼が言う。低い声で。ただし、の後が、いつもの「非公式には」ではなく。


「あなたの条文も。1行だけ入れてください」


 それは、修正条項だ。もう1度。昨日は彼が足した。今日は、私が足す番。


 昨日は「手を取ってほしい」という恐れを、彼が「守る」に変えた。


 今日は、私が何を足すのか。その1行が、私たちの未来を決める。


 全部が繋がった。返事ではなく、選択。条項ではなく、約束。制度ではなく、願い。


 私は、逃げない。私は、選ぶ。


 明朝の誓約印の前に、この1行が全てを決める。

読んでいただき、ありがとうございます。


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