第53話 昨日の空と、明日の空
窓を開ける。
朝日が、1筋だけ、机の角まで届いていた。その光の先まで、手を伸ばした。指先に暖かさが触れる前に、もう1度、深く息を吸った。
窓は冷たかった。把手は、いつもより冷たく感じた。でも、この冷たさは知っている。朝の、夜明け前の、その冷たさ。昨日の婚約の署名から、わずか12時間。昨日の公証室から、わずか1晩。なのに、手が、少しだけ、動くようになっていた。
自分で、窓を開ける。それは、回復の具体だ。
開かれた窓から、冷たい空気が一気に流れ込む。朝の色が、薄紫から薄青へ移ろいゆく。その色を、初めて、自分の目で見ている。
昨日までは、この空の色を、人に聞いていた。
「昨日は、空の色を人に聞いていました」
そう言いながら、私は窓から目を離さずにいた。くすんだ色か、澄んだ色か。その色に、どの国の天気が混ざっているか。レオンが、その空を見た時の顔が、どんな顔か。そこまで、聞きに行っていた。
だが、もう、それは必要ない。
並木道は、白樺だった。
それを知ったのは、書簡の調査からだ。6年の王宮での仕事で、ヴァイス侯国の領地図や、地誌記録を、何度も読んでいた。白樺の並木道。秋には、黄色く染まり、冬には、裸の幹だけが空に映える。そういう道だ。
実際に、その道を歩くのは、初めてだった。
「ここまでのお立ち回り、ご苦労様です」
同僚書記官が、遠くから声をかけた。14時から15時までの散歩を、彼は、制度として保護していた。昨夜、返書の草稿を見た後、彼は何も言わなかった。ただ、本日の予定表に「領地の並木道散歩」と記入しただけだ。その枠は、他の何にも侵されない。
護衛が、一定距離を保ったまま、後ろを歩いている。人目がある距離。だが、並木道では、人影が少ない。樹の根元に腰を下ろす者も、いない。只、白樺が立っているだけ。
レオンが、私の1歩先を、ゆっくり歩いていた。
「昨日は、結局、お返事をいただけませんでしたね」
彼が言った。振り向かずに。前へ向かったまま。「朝に、お尋ねしました。でも、夜には、お返事をいただかなかった」
「……はい」
私は答えた。追伸みたいに言えたらと逃げた、その返事はしていない。代わりに、窓を開ける。それだけを、彼に示した。
「ここで、良いですか」
彼は、ようやく立ち止まった。その先には、ベンチが置いてある。白樺の根元に。樹の影で、護衛の視線は、わずかに遮られている。完全な死角ではない。だが、少しだけ。ほんの少しだけ。二人の間に、公に晒されない時間が、生まれた。
彼は、懐から、折り目のついた1通を取り出した。
「これは、3年前から。毎月。――あなたの返書が、届くたびに、読んでいました」
その1通の封蝋は、古かった。何度も開かれ、何度も折られたのだろう。だから、折り目だらけなのだ。
「返伝の末尾に、いつも、追伸が置かれていた。本来は、外交文書には、不要な1行。でも、あなただけが……」
彼の声は、低かった。その声の中に、何年間も、待っていたという時間が詰まっていた。
「その1行を、読むために、私は、毎月。毎月、ずっと……」
言葉が止まった。手が、わずかに動いた。受け取れ。そう言っている。でも、言葉にはしない。
受け取った。指先で。
折り目の1通は、温かかった。体温を持っていた。彼の懐で、何年も温められていた、その温度。
「昨日は、言えませんでした。廊下で。定時の鐘で。遮られたから、ではなく」
彼が言った。もう、紙の上にはない。言葉として、声として。
「言葉にしたら、消えるような気がした。もう、この先、言い直せない言葉になるような。――だから、時間を待ちました」
時間が、言葉の代わりに、働く。その言い方だ。
「明日は、聞かなくていい。――あなたが見ればいい」
彼の手が、もう1度、動いた。白紙の樹影から、さらに深い影の中で。光が、一瞬、指先に映る。
小さな金属音。
鍵だ。
掌の上に、落とされた。冷たい。まだ何もされていない。白紙の可能性のまま。何の鍵か。何を開けるためのものか。その説明は、一切ない。
「これは、新しい。――あなたのための。明日から、始まります」
彼は、それだけを言った。
護衛が、足音で合図を送ってきた。そろそろ、時間だ。
レオンが立った。私も立った。並木道の樹の根元から、白樺の下から、戻る。制度の場へ。記録の場へ。
その時、同僚書記官の声が、遠くから聞こえた。
「五時に戻れますね?」
反射的に、私たちは頷いた。同時に、その無意識の動作に気づいて、同時に顔を見合わせて。そして、同時に、笑ってしまった。その笑いは、照れだった。状況の理不尽さへの、もう笑うしかないという種類の、照れ。
帰路を歩きながら、私は、折り目の1通を握りしめた。鍵も、握りしめた。指先で何度も、そっと、なぞった。
「明日も、この道へ」
彼が、ほぼ呟くように言った。
「並木道へ。散歩の制度は続きます」
そうして、それは、予定になった。
昨日までの私は、明日を怖がっていた。暗い部屋の中で、1人で。怖いまま、今もある。それは消えない。でも、今、その怖さの中で、自分の口で未来を言える。明日の予定が、存在する。明日も、この並木道へ。白樺の下へ。彼の隣へ。
怖さは、消えない。
けれど、怖いまま、手を伸ばせた。自分で窓を開けた。自分で色を見た。自分で、明日を、口にした。
それは、逃げない形だ。
生活が、そこに、始まった。
執務室に戻った時、同僚書記官は一言、囁くように言った。
「返書の返信は明朝です。封蝋の前に……最後の1行だけ、決めてください」
期限。また、期限だ。だが、この期限は、違う。昨日のように、制度に飲まれる期限ではなく。もう、自分たちで決めた未来への、カウントダウンなのだ。
鍵を、机の端に置いた。まだ、何も開かない。白紙の可能性のまま。でも、それは、明朝から、始まるのだ。
窓を見る。昼間のような青さから、夕焼けのオレンジへ。その色の変化を。自分の目で。あした、また、この目で、この窓から、白樺の空を、見るのだ。
それが、予定だ。
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