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【書籍化決定】「完結済」「もう頑張れません」と告げて去った書簡官を、王太子は思い出せなかった  作者: 夢見叶
第6章 署名まで一日

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第32話 名のない勝利に、手が伸びるか

  吹き抜けの廊下を、暗号ほこりの匂いが漂う。


  昨夜の解読から12時間、追加要求の文言は条文へ翻訳され、責任者欄だけが空白のままテーブルに置かれていた。ペンの先端が上から落ちてくるのを見つめながら、私は息をしていなかったことに気づいた。


「3案が出揃いました」


 作戦室の机の前。レオンが淡々と3枚の草稿を重ねる。北方同盟側の「防衛責任者の明記」要求は、そのまま飲めば本国の政治が割れ、潰せば信頼が崩れる。だからこそ、その要求の核を拾いながら、本国の名誉を削らない文言を作る必要があった。


  同僚書記官が、いつもの通り机の上のパン屑を払い、書類の角を揃える。その手順の静かさが、今日ほど心強く感じたことはない。


  破裂音がひとつ。


レオンの指が、責任者欄の空白に触れた。


「——その欄に、何を入れるか」


 私は、ペンを握る手が震えるのを感じた。


「本国側は『殿下名義』で固定して返してくるはずです。それか、欄を埋めず『調査中』のまま署名を迫る」


 声が出ない。この一瞬の先に、何が待っているのか見えていた。


「3案のうち、2案は責任者を『不明』か『共同認議』で逃げています。1案だけが——」


「実務責任者の名を、入れるんですね」


 言った。飲み込めなかった。


 同僚書記官の目がこちらを向く。私が書いたのは『フィリーネ・クレスト』だ。その3案だけが、名を消さない形で要求を受け止めていた。


「そのとおりです」


  レオンは書類から目を上げない。礼儀の顔のまま、目だけが、何かを耐えている。


「あなたが責任者として署名すれば、北方同盟も『国の代表が応じた』と受け取れます。本国も『実務の証左』として丸めやすい。誰も傷つきません」


 みんな傷つく。


 特に、私が。


 黙った。ペンを置いて、立ち上がった。廊下へ出た。




 神殿公証室は地階にあって、いつも冷たい。


 正午前、案内役の祈祷官に先導されて階段を下りる。手すりの木が冷えていて、指の温度を奪った。


 石造りの部屋。祈願台の奥に、赤と白の誓約印が積まれている。天井の格子から、香炉の煙が漂う。


「署名は明日の午前です。本国側の写しは別途、この台帳に残します」


  祈祷官の声は木魚のように反響する。


 私は、その言葉を聞きながら、自分の名がどこに刻まれるのかを考えていた。名前というのは、書き終わった瞬間、もう自分のものではないのだ。書簡の署名は相手に読まれ、台帳に残された名は誰でも調べられる。書き込まれるということは、狙われることだ。


 レオンが、廊下で待っていた。


「何が怖いのですか」


 話しかけてきたのは彼だった。


「——名を書くこと」


「その名がなければ」


「何もありません。記録に残らなければ、誰かが別の名を書き換えられます」


 廊下の石壁に、レオンの影が映った。黒髪に旅の土埃が残る背中が、私の前で立ち止まった。


「勝った記録に、私がいないなら」


「ええ」


「それは勝利じゃない」


  言うと同時に、私は歩き始めていた。制御室へ戻る方へ。止まるな、止まったら仕事に戻れなくなる。




  控え室の机には、万年筆が2本置かれていた。試し書き用だ。


  無意識に、ペンを握った。


 紙を引いた。


「追伸——」


  字を書いた。止まった。


 書きかけの4文字を、吸い墨で薄く塗りつぶす。この仕草は、もう3年か。いつからだ。王宮を出た日か。それとも、彼の手紙を読んだ日か。


「何度も言いかけますね」


  同僚書記官の声がした。机の向こう側から、彼は小さなチェック表を出して、今のやり取りに丸をつけていた。


「『追伸——』は、全部で?」


「7回目です」


「では、8回目は『署名』にしてください。飲み込まずに」


 その一言が、心臓を動かした。


 8回目は、署名。記録に残す名前を書く時。この人は、私がそこまで行けることを、もう疑っていない。




 夕刻、廊下で護衛と交代の時間帯。


 護衛隊長が、レオンの執務机の脇で何か説明している。閲覧許可札の入れ替え、書簡箱の鍵の確認、夜間の見守り。その全てが記録に残っている。この制度的な厚さが、同時に私たちを隔てている。


  レオンの目が、廊下へ向く。


  私は、その視線を受け止めることができなくて、机の角で止まった。


  護衛の足音が遠ざかって、やっと彼は言葉を紡ぎかけた。


「非公式には——」


  その直後、別の足音がした。監察役が、巡回で廊下を通り過ぎていく。


  彼は、口をつぐんだ。


  私も。


  制度の中で、言葉は公式のまま留め置かれた。




 夜中に目覚めた。


  条文の最終行を見ている。責任者欄は、相変わらず空白だ。


 ペンを握った。


 手が、停止した。


  書く。書かない。書けば、狙われる。書かなければ、別の者が書き込む。


  ——この1文を、誰の名で責任を取るのか。


 窓を開けた。夜の暖かい空気が流れ込む。ヴァイス侯国の夜は、王宮の夜より、わずかに温かい。


  机に戻った。ペンを、条文の上に寄せた。


 字を書くまでの、ほんの1秒。


 その1秒の間に、私は自分が何を失い、何を得るのかを知っていた。


 ペンが、紙に触れようとする。


「それは、あなたを前に出すためじゃない」


  レオンの声が、記憶から出てきた。廊下での、切り詰められた一語一語。


「後ろに置かないためです」


 後ろではなく、記録に。台帳に。署名に。


 ペン先が動いた。


「フィリーネ・クレスト」


 その字を書いた時、私は自分がどんな狙われ方をするのか、もう怖くなくなっていた。


 狙われるというのは、必要とされるということだ。


 必要とされるというのは、名前があるということだ。


  その名前は、もう誰にも消させない。




  朝日が条文を照らした。責任者欄には、私の名が黒く刻まれていた。


  ——その名は、本当に「勝ち」なのか。


 それとも、これから「狙われる印」に変わるのか。


 疑問は、まだ答えを教えてくれなかった。


読んでいただき、ありがとうございます。


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