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【書籍化決定】「完結済」「もう頑張れません」と告げて去った書簡官を、王太子は思い出せなかった  作者: 夢見叶
第6章 署名まで一日

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第33話 会談の最終刻限

  早朝の窓は冷たい。


  国境に近い執務室の窓枠は、夜明けまで暖房が入らず、ガラスに露が付く。その露に指の温度を吸い取らせながら、私は息を整えていた。走らない。今日は走らない。昨日条文に書き込んだ自分の名を、署名の欄まで届かせるために。


  吸って、吐く。窓から吹き込む空気の温度が、肺を冷やす。それが好きだった。王宮では感じたことのない、透明な冷たさ。これがヴァイス侯国の朝だ。冷たさは、曇りを落とす。感情ではなく、事実だけが残る。


  机の上に、条約草稿が置かれている。昨日の夜、ペンを動かした時点では、責任者欄に私の名がある。実務責任者フィリーネ・クレスト。その3文字だけで充分だった。あるいは、充分すぎるほど。書き込んだ瞬間、私は既に「狙われる対象」になった。だが今朝は、その恐れは消えていた。代わりにあるのは、覚悟だけ。


「朝食を済ませましたか」


  レオンが廊下から声をかけてくる。同僚書記官の命令を受けたように、朝食の時間帯を確認しに来たのだろう。早朝から、既に公式の顔だ。


「これから、です」


「では、食堂へ」


  窓から離れた。立ち上がって、彼の後ろをついていく。朝食の時間帯は、雑談もない。班体制の定時は何よりも優先される。その制度が今日はありがたかった。言葉を重ねない距離。それが今、1番安全だった。


 


  会談室に入った時、相手国外交官はすでに机に向かっていた。


  北方同盟側の代表は、この3日間で5通の書簡を送ってきた。最初は追加要求を「条件」として提示し、次に「これなくば署名できない」と期限を示唆し、昨日は「正しさだけが目印なら、信頼が生まれない」と温度で揺さぶった。その全ての言葉に、レオンは返書を重ねていた。冷たくない返答を、言葉の温度を保ったまま。その返書の1行1行に、私の追伸の技術が混じっていた。相手の尊厳を保ったまま、何かを届かせる。その方法論。


「貴国の言葉は正しい」


  相手国外交官は、開口1番それを言った。顔は笑っているのに、目は測っている。交渉者の顔だ。


「——正しすぎて、冷たい」


  その1文で、私は理解した。正しさだけでは国は動かない。尊厳を守りながら、相手の尊厳も守ったまま、条件を届かせる。それが追伸の温度だった。3年、王宮で書き続けてきた、あの1行の意味。


「冷たくしません」


  私は小声で言った。レオンの背中の向こう側から、かぶせるように。その声は公式の場では聞こえないはずだ。だが聞こえさせる。背中合わせの連携で。


「——相手の尊厳を守ったまま、届かせます」


  その言葉を聞いて、相手国外交官の目が1瞬だけ和らいだ。正しさの計算から、人間に戻った。そこだ。そこから交渉が始まる。


 


  神殿公証室は地階の奥にある。


  国境の中立神殿の下の下。石の壁が冷えて、香炉の煙がゆっくり動く。その中で神殿公証官は、列と台帳で期限を刻んでいた。


「署名の順番は——」


  彼は淡々と説明する。その説明の1つ1つが、手順となり、そして遅れになった。国境を越えた契約であるがため、誓約印の場所を変えねばならず、真偽糸で筆致を確認せねばならず、複数部の台帳に記録を残すために時間を費やさねばならない。


  台帳に残る。その言葉が重かった。1度書き込まれた名は、2度と消えない。誰でも調べられる。いつでも証拠として提出できる。神殿の記録は、後で誰かを裁く刃になる。


  1項目、2項目と進むたびに、署名までの時間が削られていく。残り4時間。3時間。その目測が、レオンの横顔に薄く映る。


「公証費用に関しましては——」


  神殿公証官が何か言っている。費用。その言葉だけで、私の手は震えそうになった。追加要求を条文に落とした時点で、本国からは「了承」ではなく「沈黙」が返ってきた。沈黙は拒否だ。来るはずの資金は来ず、署名に必要な紙も、誓約印の料も、複数部の台帳費用も、全て宙に浮いている。


「受け入れられます」


  レオンが言った。


  その言葉で、私は理解した。本国の却下を、彼は被る覚悟だ。その背中が見えて、初めて息ができた。


「それで、進みましょう」


  神殿公証官の説明は再開された。真偽糸。台帳の写し。読み上げ。全ての手続きが、また1つ増える。


 


  昼を回った時点で、署名予定時刻は午後3時に変わっていた。


  午後5時は定時だ。帰宅の鐘が鳴る時刻。その2時間前に署名が終わらなければ、神殿の公証官は「本日中に整わなかった」として台帳の記入を次日へ延ばしてしまう。延ばされた瞬間に、条約は「無効」に転じる。期限は今日。署名は午後3時までに完結する必要があった。午後3時。その2文字が、私の肋骨の間で音を立てて鳴っていた。


「昼食です。移動しましょう」


  同僚書記官が言った。


「今、ですか」


「今です。命令です」


  その言い方は、優しかった。命令なのに優しい。それが班体制だった。生活が、制度が、恋より優先される。その制度が今は救いだった。


  食堂へ向かう廊下の途中、彼は定時の鐘を手で鳴らす仕草をしながら歩いた。


「まだ5時ではありませんが」と彼は続ける。「昼食は職務です。食べないと、判断が曇ります」


  パン。スープ。それから柔らかいチーズ。何もかも、温かかった。食べ始めた直後に、私は自分の手が震えていたことに気づいた。期限の圧。予算の圧。その両方に挟まれながらも、なぜか落ち着くことができた。それは、机の周りに人がいたからだった。班がいたからだった。


  レオンも食べている。相手国外交官も。監察役も。みんな、同じ食堂で、同じ時間を過ごしている。


「残り2時間で」


  私は呟いた。走らずに、手順を踏んで、届かせる。その方法を既に知っていた。


「走らないで、間に合わせます」


  同僚書記官が、私の言葉に小さく笑った。


「はい。走らなくていいんです。走ると、計算が狂います。走らずに、逃げずに。それで充分」


  その言葉を聞いて、私は初めて気づいた。私は走っていない。朝、窓から吹き込む空気を吸う時点で、もう決めていた。走らない。名を書き込んだ時点で、既に覚悟は決まっていた。


  あとは、手順を踏むだけ。神殿の台帳に、自分の名を刻ませるだけ。それが勝利ではなく、記録になる。証拠になる。それでいい。


「では、戻りましょう」


  レオンが食堂を立ち上がった。


  残り時間、120分。神殿の鐘が午後3時を打つまで、あと2時間。期限は動かない。だが私も、もう動かない。走らずに、着実に。背中合わせの連携で、あとはレオンに任せる。


  その確信が、重い。


  だからこそ、美しい。


  名を記録に残す。その瞬間を、誰が妨害しようとも。


  5時の鐘が鳴る前に、私は署名の欄へ向かう。走らずに。呼ばれずに。自分の足で。


読んでいただき、ありがとうございます。


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