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【書籍化決定】「完結済」「もう頑張れません」と告げて去った書簡官を、王太子は思い出せなかった  作者: 夢見叶
第6章 署名まで一日

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第31話 暗号の裏に、別の要求

 朝の8時過ぎ、伝令が暗号束を置いた。


 A5サイズの圧力文書に添付されていた1枚の羊皮紙。相手国からの「回答書」だと言った。その回答書は——全て暗号で書かれていた。


「班で解読に入ります」


 同僚書記官がすぐに返した。机の上に大きな解読用の紙を広げた。相手国の暗号体系は、3つの層で成立していた。1段目は基本的な置き換え式。2段目は月変わりの修正コード。3段目は誓約印の刻印で認証される真偽度。通常なら、個人の仕事だった。暗号官が3日かけて解く。だが——


「時間がありません」


 同僚書記官が続けた。「条約草案は朝8時に提出済み。だが相手国は『回答書を見てから判断する』と言っています。期限は——」


 言わなくても、わかった。


 国境の向こう。無言の圧力。署名を無効扱いにする脅し。全てが、この1枚の暗号に託されていた。


「フィリーネ:置き換え体系の図解。レオン:修正コードの照合。補助官2名:過去暗号との比較。進捗は1時間ごとに纏めます」


 同僚書記官の指示は機械的だった。


「各自の得意分野で回します。役割交代なし。1人に戻さない」


 その言葉の意味が、昨夜の夜通し作業で体に刻み込まれていた。班体制。1人で全部を背負わない。機械的に、役割を果たす。それだけ。


 私は、羊皮紙に向かった。


 暗号は——美しかった。


 規則的な配置。記号の反復。パターンの照応。それは数学であり、同時に相手国への敬意でもあった。この言語を、このような形に翻訳する技術。それを見ているだけで、敵国への尊重が、ほんの瞬間だけ生まれた。


「最初の20文字が『条約の合意に基づき』です」


 私は万年筆を動かした。置き換え式を正確に追う。1文字ごとに、該当する文字を割り出す。時間をかけずに、かといい加減にならずに。


 腰が痛かった。昨夜から机に向かったままだった。だが班体制では、そのような個人的な事情は関係ない。ただ、機械的に役割を果たす。


「前置き部分、完成」


 1時間が経った。


 同僚書記官の声が響いた。「休憩です。昼食」


 彼女は全員を食堂に連行した。机での食事は禁止。立ち歩きながらの作業も禁止。「定時は12時15分。それまでに栄養を摂取してください。命令です」


 食堂のテーブルに着いた時、私の手元には朝のパン屑が残っていた。


「机で食べましたね?」


 同僚書記官は真顔だった。そして無言で、私の手元のパン屑だけを払った。説教もしない。笑いもしない。ただ、事実として。それが余計に、胸に突き刺さった。


「申し訳ありません」


「班体制では、機械的な修正と命令だけです。判断を委ねません。食べてください。塩分と糖分」


 その言い方が、昨夜と同じだった。1人で抱え込もうとする私を、外側から支える。その支え方を、彼女は知っていた。


 解読テーブルに戻った時、神殿側の補助役が待っていた。


 国境の中立神殿は、全ての署名を管理する機関だ。そこから出向していた補助役は、無表情で、封蝋護符の小箱を持っていた。羊皮紙の真正性を「魔法的に認証」する道具だ。だが魔法は認証と誓約のみ。翻訳や解読は不可。それが中立の条件だった。


「確認します」


 補助役は言った。「この羊皮紙の封蝋。発行元の刻印。紙の質感。全て、相手国の正規品です」


 だが——


「湿気があります」


 彼は眉をひそめた。「朝の雨。国境地帯の湿度が高い。この羊皮紙、開封直後に湿気に晒された痕跡があります」


 その指摘は、危険な意味を持っていた。


「開けたのですね?」


 補助役が続けた。「封蝋が濁っています。これは『中身を確認された』という証拠です」


「それは——」


 同僚書記官が言った。「相手国が自国で開けて確認したのではないですか」


「その可能性もあります」


 補助役は真偽糸を取った。細い白糸。それを光にかざすと、羊皮紙の繊維が浮かぶ。


「ですが。この繊維の色。通常より濁っています。つまり『複数回、開封されている可能性がある』」


 その言葉で、私は気づいた。


 暗号束の配送経路。王宮から、国境の中立神殿へ。その移動の途中に——誰かが開けたのか。それとも意図的に、湿度に晒したのか。


 追伸——という言葉が、頭に浮かんだ。書きかけて止める癖。その瞬間の重さと、同じ。


「では、解読を続けます」


 補助役は静かに言った。「認証は『疑いながら進める』形で。各段階で、繰り返し確認します」


 午後の2時までに、置き換え式の全解読が終わった。


 「条約の合意に基づき」「相互の尊厳を守りながら」「以下の追加条件を呈示する」——その3行が浮かび上がった。


「2段階に入ります」


 同僚書記官が言った。「修正コードの照合」


 レオンが引き継いだ。彼の手つきは、私よりも素早かった。修正コードを、過去5年分の相手国往復書簡と照合していく。月ごと、年ごと、季節ごとの変化パターンを追う。それは暗号の「個性」を見つけることだった。


 3時間が経った。午後の5時。夕刻のタイミングで、神殿公証室への出向も控えていた。


「3段階」


 レオンが言った。「誓約印の認証。この部分は『意味の検証』ではなく『筆致の検証』になります」


 私は、解読ログをまとめていた。3時間の班体制での進捗。各段階での気づき。補助官との相互確認。それらを、単なる「個人メモ」ではなく「議事録控えの形式」で残していた。1段階ごと。1文字ずつ。公式な記録として、羊皮紙に刻み込んでいった。


 だから——次の言葉が、突然に重くなった。


「解読できた」


 レオンが1語だけ言った。


 私は、その声の底を聞いていた。安堵ではなく。達成感でもなく。恐怖だけが、耳の奥で鳴っていた。


「……解読できた。だからこそ、怖い」


 私は、その言葉を返した。声が、わずかに震えていた。


 彼は、解読した羊皮紙を広げた。置き換え式で、修正コードで、認証で——全て通った。だからこそ、内容が確定した。


 条約の合意に基づき。相互の尊厳を守りながら。以下の追加条件を呈示する。


「『外交責任者の実名を、条文に記載すること』」


 それは、署名の前提そのものを変えていた。外交責任者の実名。それは、私の名前を公式に「記録に残す」ことを意味していた。


 勝ち取った名。だが同時に——奪われる対象が明確になる。


「読めないより、読めた方が血が出ます」


 レオンが言った。その声は、静かだった。彼の手が、微かに震えていた。


「……止血しましょう」


 彼はペンを取った。そして、その追加条件の下に——別の1行を手書きしていた。


 私たちの名前の欄。2つの名前が。肩を並べて。


 だが——。


 解読ログの最後をめくった時。


 ページの端に、別の1文が浮かび上がった。


 置き換え式では見えない。修正コードでも捕捉されない。誓約印の認証でも、隠れていた。


 暗号の末尾に。1行だけ。


 追伸のように。


「『署名後の責任追及を、不可抗力条項で免除する』」


 見落としていた、追加要求。


 それは——何を意味するのか。

読んでいただき、ありがとうございます。


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