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【書籍化決定】「完結済」「もう頑張れません」と告げて去った書簡官を、王太子は思い出せなかった  作者: 夢見叶
第5章 神殿公証と契約条項

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第30話 条約の締切——夜が短い

 夜が、短い。


 伝令が去ったあと、レオンは時計を見た。夜の9時。条約草案の提出期限は明朝8時。合計11時間。


「班体制に組み直します」


 同僚書記官は机から立ち上がった。彼女の声は機械的だった。執務室の隅に置かれた大きな紙を広げた。そこには、すでに役割分担の枠が引かれていた。


「通常はフィリーネが一人で12時間かけて。今回は6人で5時間に圧縮します」


 6人——レオン、同僚書記官、護衛、書記官補3名。全員で押し切るということだ。


「各自の担当」


 同僚書記官が続けた。「フィリーネ:条文の主要部分。レオン:添削と修正案。私:統合と整形。補助官3名:調査・参考資料の整理。役割は交代なし。得意分野で回す」


 その言葉を聞いた瞬間、私は理解した。これは「頑張らない班体制」だった。


「機械的かもしれません。ですが」


 同僚書記官が続けた。「『倒れるより、休む』。その判断が、ここには必須です」


 彼女は机の上に厚い冊子を置いた。ヴァイス侯国と本国の「条約交渉メモ」。前章までの折衝内容、合意事項、全てが詰まっていた。


「草案の構成。前置き(相互尊厳)。第一部(通商条件)。第二部(国境線運用)。第三部(紛争解決手続き)。署名欄。合計8ページです」


 通常なら3日で完成する分量。それを夜一晩で。


 だが班体制なら、できる。


 私は机に向かった。万年筆のひびは相変わらずだった。


「では、フィリーネ」


 レオンが言った。「主要部分の第一稿。相互尊厳から」


「相手側の尊厳を傷つけない一語を、毎句、選びます」


 その言葉を口にした瞬間、私は気づいた。


 自分の癖が、戻っていた。


 王宮にいた時と同じ口調。相手国の尊厳を守りながら、一語一語を選ぶ。六年間の習慣が、体に刻み込まれたまま動いていた。


 1時間で前置きが完成した。相互尊厳と相互利益。その一文ごとに「受け入れられるか」「原則を曲げていないか」確認しながらペンを走らせた。


 だが、その直後。


 レオンが赤ペンを取った。彼の添削は冷徹だった。


「ここの『相互の信頼に基づき』という一文。相手国にとって踏絵になる可能性がある。『共通の利益に基づき』の方が無難です」


 その指摘は正しかった。私は修正を受け入れた。


 だが別の箇所。本体第一部の最後。通商条件の「相手方の名義」が入る部分で、レオンのペンが止まった。


 筆圧が、強くなった。


「ここに『レオン・ヴァイス名義での法人設立を認める』という一文。こちらが譲歩する形になってる。だが」


 赤ペンが、その一行を修正した。


「『相互の代表者名義で』に変える。つまり、あなたの名も、同等に置く形です」


 その修正を見た瞬間、私は息が止まった。


 別の理由ではあれ。相手国の名と同等に、私の名を置く。その赤ペンの筆圧の強さが示していたのは——


 「公式で守り切ろうとする気持ち」。それ以上の、何か。


「その修正は、戻してください」


 レオンが顔を上げた。


「あなたの名を置くなら、こちらも対等に出す必要があります。でも、それは『条文の力学』ではなく『個人的な温度』が混ざります」


「そうですね」


 彼は淡々と答えた。


「では『本国代表及び外交特使名義』に修正します。法務上、その方が正当です」


 赤ペンが再度動いた。その修正は形式的で冷徹だった。


 だが、その赤ペンを握る手の微かな震え。


 それが全てを物語っていた。


 2時間が経った。


「休憩です」


 同僚書記官の声が響いた。夜の11時。予定通りだった。


 彼女は休憩所へ全員を移動させた。ティーポットとスープが用意されていた。湯気が立っていた。


「スープです。温かいもの。塩分。最低限の栄養。定時は12時15分。それまで」


 私がスープを口にした時。


「フィリーネ」


 同僚書記官が小声で言った。「あなたは、また『一人で12時間』に戻ろうとしている」


 その言葉が胸に刺さった。


「認識してますか。さっきの『癖が戻る』という発言。その時点で、あなたの体は『頑張る』モードに入った。班体制の意味が消えました」


 彼女の指摘は正しかった。私は知らず知らず、一人で全部を背負う体勢に戻っていた。


「ここからはレオンが後半をやります。あなたは修正に回してください。それが班体制です。命令です」


「かしこまりました」


 第二部は、レオンが主要稿を出した。


 彼の文章は冷徹で正確だった。曖昧な表現は一つもない。


 その文章を私は修正した。


「『通年の運用協議』ではなく『月次の最低限協議と季節ごとの重点協議』と具体化する方が実務的です」


 夜中の1時。第二部が完成した。


 第三部(紛争解決手続き)は、最も複雑だった。仲裁機関、司法的権限、強制執行の手続き。法的に厳密であればあるほど、温度のある言葉は排除される部分。


 だから、その部分で、私たちの「距離」が最も明確になった。


 レオンが出した最後の一行。紛争解決手続きの「最終決定の効力」という条項に、彼が一語だけ加えていた。


「『その決定は、両国の信頼の上に成立する』」


 その一語は、「法務」ではなく「約束」だった。「この手続きが成立するのは、両国が本気で信頼し合っているから」というメッセージ。


「その一語は削除します。法文には不要です。感情が混ざります」


 私は言った。


「わかっています」


 レオンは答えた。


「でも入れたかった。あなたの国と、俺の国。その間に『信頼』があるなら、この手続きも初めて意味を持つ」


 その言葉に、私は何も言えなかった。


 だから赤ペンで、その一語を削除した。


 だが、その削除の瞬間、その赤ペンを握る手が、微かに硬くなった。


 夜が白くなり始めていた。


 草案の完成は6時だった。


 全8ページ。各部が完成し、署名欄が埋まった。


「では、封入です。朝8時の提出まで、残り2時間」


 同僚書記官は公式な封筒を取った。


「これに全ページを入れます。ただし」


 彼女が、A5サイズの小さな紙を手にした。


「何ですか?」


「圧力文書です。相手国からの追加要求。上役から来たもの。条約草案に添付するように指示されました」


 追加要求。それは通常の「交渉」ではなく——


 私は、その小さな紙を手に取った。


 そこに書かれていたのは——


 「暗号体系の完全公開」「国家機密指定の解除」「過去の書簡箱の内容確認権」


 その3項目。


 それは、条約ではなく。


 脅しだった。


「これは……何ですか」


 私は同僚書記官を見た。


「わかりません。上役からの指示は『添付しろ』だけです」


 レオンがその紙を見た。


「この文言。『過去の書簡箱の内容確認権』という表現。これは誰が考えたのか」


 その問いに、答えられるものはいなかった。


 ただ、わかったことがある。


 それは、王宮からの「圧力」ではなく、別の誰かの「手」が、ここに混ざっているということだった。


 条約に挟まれた、その小さな紙。


 その1枚で、全てが変わった。


 朝8時の提出直前。私たちは、その紙を、どうするのか。


 その決定を、迫られることになった。


読んでいただき、ありがとうございます。


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