表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【書籍化決定】「完結済」「もう頑張れません」と告げて去った書簡官を、王太子は思い出せなかった  作者: 夢見叶
第5章 神殿公証と契約条項

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

29/54

第29話 複製の管理者は、誰

 保管庫の冷たい空気の中で、私は台帳を広げていた。


 昨晩の公証から一夜明けた朝。神殿から受け取った契約控えは、同僚書記官の懐に守られたまま、公式な保管手順へ移行する準備が始まっていた。机の上には、新しく作った「複製管理表」が置かれている。紙の上に、さらに紙を重ねる。その重さが、もう単なる記録ではなく、制度になっていることを示していた。


「閲覧許可札。2人鍵。封蝋護符」


 同僚書記官が、1語ずつ読み上げた。彼女の声は、いつもの機械的なそれだった。だが、その機械さが、むしろ「これから何かが起こる」という予感を作っていた。


「保管庫への出入りは、この3つなしに成立しません」


 3つの項目が、私たちの守りを構成する。閲覧許可札は「誰が」。2人鍵は「何時に」「どのように」。封蝋護符は「記録の完全性」。その全部が揃わないと、書簡箱も追伸帳面も、理屈上は開けられない形になっていた。


「理屈上は」――それが、この話全体の棘だった。


「ところが」


 同僚書記官の指が、台帳の「管理者名義」欄で止まった。


「複製が複数あると、それぞれの管理者名が必須になります」


 複製。複数。その言葉が、朝の光の中ですうっと重くなった。


 神殿の台帳室は、窓のない部屋だった。


 その静けさの中で、神官は淡々と私に説明した。「公証室の規定により、申立者の複製が1通、公証室の保管が1通。その先、もし複製を増やす場合は、申立者の自己責任となります。ただし」と彼は続けた。「その複製ごとに、責任者の名義を登録する必要がある」


 その言葉で、私の息が一瞬だけ止まった。


 名義。つまり、誰がその複製を守っているのか。誰の判断で、どこに保管されているのか。その全部が、公式に記録される形になるということだ。


「1つの複製につき、1人の管理者が必須です」


 神官は台帳をめくりながら言った。


 複製。複数。その言葉が、朝の光の中ですうっと重くなった。


 神官が新しい申請簿を開いた。「これまでの閲覧申請です。複製を参照する場合の記録」


 厚さが、思ったより分厚かった。数日で、この量。私たちがいかに「複製」を必要とし、いかに「読まれる危機」を覚悟しているのか。その全部がこの申請簿に詰まっていた。


 私は、その申請簿のページをめくった。


 字が並んでいる。誰が、いつ、何を参照したか。その記録が、一行一行、並んでいる。


 ある行で、指が止まった。


 筆圧が違う。


 他の申請書は、インク色も、筆の力も、統一されていた。机から机へ、手から手へ渡る中で、形式が守られていた。だが、この1行は、筆圧が強い。インク色も、ほんのわずかに違う。同じ万年筆で書かれていない。別の人物だ。


 でも、名前は。


「……この申請書」


 私は神官を見た。「誰の書きですか?」


 神官の目が、ほんの一瞬、動いた。「申請者の名義は、記載されております」


 名義。それは、私たちの名前が書かれているということだった。だが、筆圧は違う。つまり、「誰かが、その人の名前で申請を出した」という可能性が、そこに開かれていた。


 断定しない。証拠もない。ただ、その筆圧が、「何か」を示唆していた。


「ご指摘ありがとうございます」


 神官は淡々と言った。「我々は筆跡の鑑定までは致しません。ただし、申請に疑義がある場合は、申立者の側で調査するのが規則です」


 つまり、「私たちが確認しろ」ということだった。システムの隙間が、そこに開かれていた。


 公証室を出ると、廊下の光の中でレオンが待っていた。


 彼の横顔が、何か疲れているように見えた。昨晩、神殿の呼び出し鐘で遮られた「あなたを――」という言葉が、そのまま彼の中に残っているのだろうか。


 私は、複製管理の問題について話し始めた。「複製が増えると、責任者の名が増える」「記録が増える」「狙われるリスクも増える」


 レオンは、じっと聞いていた。


「つまり」


 彼は言った。「増やせば守りは厚くなるが、同時に標的も増すということですね」


「そうです」


「では、何通まで複製を作りますか?」


 その問いに、私は答えられなかった。作れば守りは強くなる。だが作るほど、誰かが、その複製を見つけ出そうとする力も強くなる。奪う側にとって、複製があることを知れば、奪うべき対象が増える。


 レオンが、回廊のベンチに腰を下ろした。


「フィリーネ、俺の考えは」と彼は言った。「できるだけ複製を作ることです。1つ奪われても、他が残る。それが、守りの基本です」


「でも」


 私は続けた。「複製が多いほど、誰かに狙われる可能性も高くなります。管理者の名も増える。もし内部の誰かが――」


 言い終わる前に、レオンが息を吸った。


「……誰かが、複製の在処を敵に教える可能性があると」


「そうです」


 公証室で見た筆圧の違う申請書が、頭にちらつく。それは、まだ確実な証拠ではない。だが、「誰かが、私たちの名義を偽造した可能性」がすでにそこにある。


「では、折衷案はどうでしょう」


 声がした。背後から、同僚書記官が近づいていた。彼女は、いつの間に公証室から出てきたのか。その足取りは、計算されたものだった。


「複製を完全に作るのではなく」


 彼女は、2つの鍵を持って近づいた。銅製の小さな鍵が、2本、並んでいた。


「索引だけを分散保管するのです」


 索引。その言葉が、何か新しかった。


「つまり。複製ではなく、『どこに何があるか』の記録だけを別の場所に置く。もし書簡箱が奪われても、内容そのものは失われない」


 彼女が、2本の鍵を並べた。その様子が、何か儀式的だった。


「箸と同じです。片方だけだと、何も掴めません」


 その言葉に、私は小さく息を抜いた。


 それは、正しかった。完全複製ではなく、索引。場所の記録。もし敵が書簡箱を奪っても、「何がどこにあったか」の情報さえ別に保管していれば、再構築できる。完全な盾ではなく、より柔軟な守り。


「その案なら、複製も限定できます」


 同僚書記官は続けた。「索引の管理者は、2人。書簡箱の保管者も、2人。追伸帳面の記録者も、別。でも、全て『索引で繋がっている』。奪われても、即死しない形です」


 執務室に戻ったのは、その直後だった。


 同僚書記官は、机上に新しい表を置いた。それは、昨晩の「複製管理表」を修正したものだった。


 変更点:複製ではなく「索引」。管理者:フィリーネ・クレスト(正本保管)+レオン・ヴァイス(複製追跡)。記録者:同僚書記官(申請管理)。保管場所の秘匿化。


 その表を見た時、私は初めて「守りが形になった」という感覚を持った。


「複製は盾じゃありません。刃です――握る手が要る」


 私は言った。机に向かい、この新しい管理表に署名をする準備をしながら。


「増やせば守れるのではなく、増やすほど『狙う側』の的になる。だから」


 レオンが、赤ペンを取った。昨晩、公証室で使ったペンだ。その筆圧は、淡々としたものだった。


「握る手は、あなた1人にしません」


 彼は言った。「俺も、ここに署名する」


 その赤ペンが、管理者の欄に「連署」と記された。2人の名前が、その管理表の上に並ぶことになる。


 同僚書記官は、その表を受け取ると、すぐに朱肉を用いて2人分の保管許可印を押した。その印の音が、何か決定的だった。


 だが、その直後。


 彼女の顔が、ほんの一瞬だけ硬くなった。


「フィリーネ。その申請簿の筆圧の件について」


 她は言った。「明朝の会議で、神官に確認を取りましょう」


 その言葉に、私の息が止まった。


 明朝。つまり、今夜中に何かが起こるということだ。何か、予定されていない何かが。


 同僚書記官の目が、机の上の時計を見つめていた。その視線の先に、砂が落ちている。時間が、音を立てて流れていた。


「実務の確認に、どのくらい必要ですか?」


 レオンが聞いた。


「通常は、三日。しかし」


 同僚書記官は言った。「神官が『明朝の会議』と言ったなら、その前に整理が必要です。上役から、何か指示が来ているはずです」


 その言葉の直後、執務室の扉が開いた。伝令が現れた。その顔が、何か急迫した表情だった。


「特使殿。至急、上役から」


「何か?」


「条約草案の提出刻限が『明朝』と変更されました。夜間会議を開くとのことです」


 その言葉で、全てが変わった。


 複製管理表は、完成したばかり。申請簿の筆圧の疑義は、調査途中。そして、条約草案の締切が、突然、前倒しされた。


 夜が足りない。


 その一語が、胸の奥を刺した。

読んでいただき、ありがとうございます。


よければブックマーク・評価・いいねなどしていただけるととても嬉しく思います。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ