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【書籍化決定】「完結済」「もう頑張れません」と告げて去った書簡官を、王太子は思い出せなかった  作者: 夢見叶
第5章 神殿公証と契約条項

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第28話 署名の前、私情が滲む

 誓約の印泥は、鍵付きの小瓶に納められていた。


 蓋を開けるのに、神官は銀製の小さじを用いた。儀式的な所作で、そのため無駄がなく、かつ1秒長い。印泥は深紫色で、神殿の光の中ではほぼ黒に見えた。レオンの横顔が緊張していた。私は自分の顔がどんな表情か、見る鏡を忘れていた。


「――誓約は、口に出した瞬間から記録です」


 神官は淡々と言った。その声は、3日前の面談枠申請の時より、さらに声数を落としていた。公証室という窓のない部屋は、音をいっそう重くする。私たちの呼吸すら、台帳に記録されるのではないかという錯覚に陥った。


 読誦は、フィリーネ・クレストの名から始まった。


 ヴァイス侯国外交顧問。勤務地は侯国執務室。雇用期間は契約更新の都度。守秘義務は「相手国の尊厳に傷つけず」のひとつの句が附記された。これは私が追記したひとつの文だ。公証室で、対面で、王宮使者の抗議を受けたひとつの文だ。


 それが、今、神官の口から読み上げられている。


 公式な言葉として。拘束力を持つ言葉として。


 次は、レオン・ヴァイスの名が出た。


 外交特使。同じ執務室。同じ誓約。同じ守秘。だが彼の名が出る瞬間、神官の読誦に遅れが生じた。1拍――いや、半拍にも満たないが、息の間隔が変わった。並んで座る私の右側に、レオンの肩が1ミリ進んだ。


 私は気づかなかったふりをした。


 だが、誓約の全文が読み終わると、神官は続けた。


「この条項の成立には、双方の署名が必要です。代筆は認めません。自筆でなければ、台帳には『疑義あり』と記録されます」


 署名か。


 これまで私は、王宮の返信では名前を書かなかった。「外交書簡官フィリーネ」とだけ署名した。個人ではなく、職務として。役割として。殿下の意思の代理として。その形式が6年間、身体に根付いていた。


 でも今、神官が置いた紙には「フィリーネ・クレスト」と、手書きで記入する欄があった。


 氏名欄だ。


 個人の名前だ。


 私は万年筆を取った。軸のひびが指にかかる。あの青い軸は、もう王宮の支給品ではなく、私が直して使い続けた、ただの相棒だった。インクが流れるかを確認するため、紙の端で1度、線を引いた。


 黒いインクが流れた。流れすぎた。ひびの影響で、濃さが不規則だった。


「……記録なら、逃げません」


 私は言った。神官の顔を見た。その視線の向こうに、レオンがいるはずだった。でも今、私が見るべきなのは、この紙だった。


「逃げない形にしたいだけです」


 そして、私は署名した。


 ゆっくり。丁寧に。筆に筆を重ねて、意識を乗せて。フィリーネ。クレスト。自分の名前を、自分の手で、公式な台帳に刻み込んだ。


 署名は、鎖だと思っていた。


 けれど今、万年筆が紙から離れた瞬間、違うことに気づいた。これは逃げ道だ。自分の名で約束すれば、誰もそれを踏みにじれない。署名は盾になる。いや、盾というのは他者から守られることだが、これは違う。


 これは、自分の足で立つ地面だ。


 神殿の印泥の香りが、濃くなった。神官がレオンの署名欄に誓約印を押す準備をしていた。銀製の小さじで、わずかな量を吸い上げ、印泥を温めながら均す。その所作の中に、儀式的な時間が詰まっていた。


 印が押される。


 レオンの名の上に、深紫色が落ちた。


「印が乾くまで、お2人はこの位置から動かないでください」


 神官は言った。実務的な注意だった。だが、その注意が、ひとつの空間を作った。私と、レオンと、乾く印。その間隔は、仕事の距離にしては近すぎた。


 離れられない距離。


 肩が、触れるか触れないかの距離。


 後ろから同僚書記官の声が聞こえた。「乾くまで息を均等に」と、真顔で言っている。その指示は技術的には無意味だった。だが誰もが、その距離の中での呼吸が不規則になることを知っていた。


 レオンが呼吸を整えた。


 私も整える。


 公証室の沈黙が、いっそう深くなった。


 公式だからこそ、この空気は誰にも邪魔されない。「記録されている」という事実が、かえって2人だけの空間を成立させた。誰も入ってこられない。誰も見ることはできない。ただ、手続きが淡々と進むだけだ。


 レオンの声が聞こえそうなほど近かった。


 彼が何か言いかけた。口を開いて、言葉がまさに出そうになった瞬間――神殿の呼び出し鐘が鳴った。


 高い、澄んだ鐘の音。控え室からの合図だ。次の申立人が来ている、という知らせだった。


 レオンは言葉を飲み込んだ。


 印は乾きかけていた。


「確認いたします」


 神官は淡々と、2通の控えを準備していた。「こちらが正式な記録」と、1通を机上に置き、「こちらが申立者の控え」と、もう1通を上に重ねた。


 2通。


 記録がこれで固定された。この瞬間から、返還要求も、期限も、全てが公式な手続きの前に立ち止まる。誓約印の下に刻印された日付が、ひとつの区切りになった。


 同僚書記官が控えの束に手を出した。「こちらを保管いたします」と言いながら、公証台帳への記録を確認している。閲覧許可札。2人鍵ルール。索引の分散管理。その全てが、彼女の淡々とした確認の中で、現実になっていった。


「今後、閲覧申請は2人の合意の上、許可札を経由して行う方式となります」


 神官の言葉が、ひとつの時代の終わりを告げていた。


 国家機密として奪われそうだった書簡箱が、今や公式な保護下にある。返還要求は、この誓約を無視して成立しない。時間をかけて手続きを踏むしかない。その手続きの中で、私たちには言葉を作る時間が生まれる。


 公証室の門を出ると、廊下の光が眩しかった。


 控えの紙は、同僚書記官の手に渡っていた。彼女は紙を2つ折りにして、懐に収めた。その所作は、何か神聖な儀式を終えた後のような、静かさを持っていた。


「署名が完了いたしました」と、事務的に報告している。だが、その声の奥に、別の意味が隠れているような気がした。


 契約が成立した。


 これは単なる雇用契約ではない。公式な記録として、私たちの「対等」が刻み込まれた。守秘。勤務。尊厳。その全てが、台帳に書き記された。


 但し、控えは2通――。


 その事実が、不意に引っかかった。2通ということは、複製は――。


 神官の最後の言葉が、脳裏をよぎった。


「控えは2通までと、公証室の規定です。その先の複製については、申立者の判断となります」


 複製は、管理者次第だ。


 増やせば、守りは厚くなる。だが、増やせば、狙われるリスクも増す。書簡箱の鍵のように、複製の鍵をどこに預けるのか。誰が、その責任を持つのか。


 私の視線が、レオンを探していた。


 廊下で彼が立ち止まっていた。控えをもう1度確認するような仕草で。だが実際には、先ほどの公証室での距離を、まだ体が覚えているような、そんな立ち方だった。


「では、複製の管理について――」


 それが、次の話題になるはずだった。だが、その前に――。


 同僚書記官が真顔で「定時です」と言いかけて、時計を確認して黙った。代わりに、「……では、保管手順へ移ります」と、仕事の流れに戻していった。


 夜が来ていた。


 公証室での誓約印が乾くのを待つ間に、外は暗くなっていた。


 だから私たちは、その暗さの中で、別の問題を抱えることになった。記録は盾になった。だが盾も、置き場所を選ばなければ、刃になる。


 複製の管理者は、誰になるのか。

読んでいただき、ありがとうございます。


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