第1章 7話 イルブ=コールマン①
グレートランド歴1766年5月27日
――イルブ=コールマン、10歳――
イルブ=コールマンは、ヨーク中流の商人の次男として生まれた。
父コルブは貴族相手の商いで成功を収めた敏腕の商人だった。
だが次男のイルブには、優秀な長男ホルブがいたせいか、さほどの期待もかけられていなかった。
そんなイルブが10歳の誕生日を迎える少し前のことだった。
コルブの家が火事になったのだ。
家族は皆、先に避難した。
イルブだけが逃げ遅れた。
2階の自室で勉強をしていたのだ。
優秀な兄を追い越したくて。
父コルブに認められたくて。
「イルブ!火事だ、逃げろ!さっさと降りてこい!!」
父の声を聞きつけ、慌てて自室を飛び出した時には——もう遅かった。
1階に通じる唯一の階段は、火の海になっていた。
そしてイルブは判断を誤った。
慌てた頭で咄嗟に出した答えは——3階への避難だった。
屋根裏部屋に駆け込み、はしごを登って屋根に出た瞬間、後悔した。
2階から飛び降りれば良かった、と。
今いるのは3階建ての自宅の屋根の上。
地上まで10mはある。
火の手はじりじりと迫っている。
消防車のサイレンも聞こえない。
(ダメか……一か八か飛び降りるしかないか)
覚悟を決めた——その瞬間だった。
いきなり全身が軽くなる感覚が走った。
何が起きているのか全く分からない。
地上では、コルブ、ホルブ、母のドリーが目を見開いて屋根を見上げていた。
3人の目には、イルブが屋根の上で突然姿を消したように映っていた。
イルブも訳が分からないまま——
ただ全身がどんどん透けて、軽くなっていく自分を静観するしかなかった。
風に流されるまま。
なるようになるまま。
時の流れに身を任せた。
そしてゆっくり、ゆっくりと地上へ降りていった。
降り立った瞬間、体が姿を現した。
3人の背後に突然現れたイルブを見て、皆一様に声を失った。
しばらくの沈黙の後、ようやく口が開いた。
「イルブ、お前……」
「父さん……」
「知っていたのか?」
「いや、俺も訳が分からないよ」
コルブは息子の顔をじっと見つめ、静かに言った。
「そうか。お前は能力者かもしれんな。貴族様が持つアルカナ。極稀に貴族様以外にもアルカナを持つ人間が現れると聞いたことがある」
そして少し考えてから、小声で呟いた。
「ドレン様に相談してみるか」
6年後 グレートランド歴1772年6月30日
――イルブ=コールマン、16歳――
はぁはぁ。
イルブは気体化"エアノーラ"を使い門番をすり抜け、スラム街へと続く階段を走って降りていった。
とんでもないことを聞いてしまった。
そんなつもりはなかった。
本当に、なかったのだ。
ほんの些細な出来心だった。
ドレンに新しく雇われたメイドのテスが余りに可愛くてタイプだったので、ちょっと様子でも見てみたいと思っただけだった。
その頃のイルブは、ドレンの屋敷に5年ほど小間使いとして住み込みで働いていた。
小間使いといっても、最初は能力の訓練から始まった。
発動条件、効果、持続時間、範囲、反動——それを細かく調べるためだ。
最初は意識的に能力を発動できなかったが、訓練を始めて1ヶ月が経つ頃には、10分ほどかかりながらも自分の意思で発動できるようになった。
持続時間も最初の1分から10分ほどに伸びた。
そうして5年。
訓練を重ねたイルブは、10秒もあれば発動でき、持続時間も1時間を超えるようになっていた。
「初めてお前がここに来て5年。やっと使えるようになったな」
ドレンにそう言われた時、イルブは素直に喜べなかった。
子供の頃は気づかなかったのか。
それとも大人になったからなのか。
分からないが——この頃になってドレンという人間への嫌悪感が、じわじわと育っていた。
小間使い、メイド、時折顔を見せる父親にすら当たりが強い。
かと思えば上流貴族の前では小汚い笑顔を作ってへつらう。
(卑屈な人間性が顔に出てやがる。父さんもこんな人間にへつらうなんて、よくやれるな……)
自分をここに預けた父親を、少し恨めしく思った。
能力を引き伸ばしてくれたことには感謝しなければとは思う。
でも生理的に無理なのだ。
少し時間が経つとあの卑屈な笑顔が頭をよぎる。
そんな日々が1年続いたある日、新しいメイドのテスがやってきた。
年の頃は同じくらいだろう。
この国では珍しいオレンジの髪をショートボブにカットし、独特のヘーゼルの瞳をしていた。
目鼻立ちは控えめだが、表情豊かに笑う娘だった。
妙に惹かれてしまった。
何か気を引くきっかけはないかと考えていたある日——
無駄に能力を使ってテスの部屋の方へ移動してみようと思いついた。
ポケットにこっそり魔鉱石を忍ばせ、心の中で発動の言葉を唱えた。
【エアノーラ】!!
自分の部屋は男子専用の離れにある。
テスの部屋はおそらく屋敷の2階だろう。
まず2階の休憩室の前で待とうと思ったその時——3階の窓際にドレンの姿が見えた。
いつも以上に汚い笑顔を作っている。
テスも気になるが、あの笑顔の方がもっと気になった。
持続時間はまだ1時間ある。
慌てることもないと思い、ドレンの部屋へ近づいた。
窓から覗くと、名前は思い出せないが時折見かける貴族の顔があった。
薄汚い笑顔のドレンと、それに応えるように含み笑いを作る貴族。
横に目をやると、窓が少し開いていた。
向こうからは自分の姿は見えない。
分かってはいても、やはり悪いことをしているという自覚があるのか少し緊張した。
窓から入り、大理石のテーブルを挟んで談笑する2人に少しずつ近づく。
見えないと分かっていても、本能的に物陰に隠れながら近づくのは昔からのクセだった。
そしてあと2mというところで——やっと会話が聞こえてきた。




