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記録官の断章 〜解体される怪異〜  作者: 早河縁
第一章 怪異読解篇
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第五話 同じ夢を見る女たち《前編》

 (ペナルティ)というものは、必ずしも、刃や縄のように目に見えるわかりやすい形をしているとは限らない。


 人はしばしば、切られた傷や、閉じ込められた空間の不自由さをもって罰と認識するが、実際にはそれよりもなお深く、静かに、しかし確実に心へと食い込んでゆく種類の罰が存在する。


 それは、奪われることではなく、引き離されること。

 自らが選び、敬い、尽くしてきた対象から、理由を伴って遠ざけられるという事実そのものが、何より重く、逃げ場のない痛みとして残る場合がある。


(あれから間もなくして、西原千代は後宮を去った)


 結城記乃は、澄子妃の棟へ続く廊下を、箒の先で細かな埃を集めながら、数日前に下された裁定の内容を、改めて順序立てて思い返していた。

 九条澄子妃の侍女であった西原千代は、意図的に環境を操作し、ひとつの部屋を〝呪われた空間〟として成立させることで、人を危険に晒した。


 結果として死人は出ていない。

 それは事実であり、判断基準のひとつとなる。

 しかし、結果が軽いからといって、行為の重さが消えるわけではない。


 ──後宮勤めの解任。

 ──被害者への賠償。

 ──数年間の禁錮。


 裁判所の判断は、簡潔でありながら、逃げ道を残さない形で示されていた。


(あの人にとっては、檻の中にいることよりも、ずっと……)


 記乃は、箒を動かす手を止めないまま、思考だけをわずかに深く沈める。


(お慕いしていた澄子様のもとを離れることの方が、重い出来事なのだろうな)


 西原の動機は歪んでいた。

 だが、その根底にあったのは忠誠であり、敬意であり、守ろうとする意思だった。

 それが誤った形で表出し、結果として人を傷つけた。

 だから裁かれた。

 そこに同情を挟む余地はない。


(裁くのは、私ではない)


 記乃は、箒を静かに壁際へ寄せた。

 自分の役割は、事実を拾い、整理し、渡すこと。

 感情は、判断の材料にはなるが、記録の主体にはならない。


 そのとき、廊下の空気がわずかに変わった。

 視線が動く。

 衣擦れの音が揃う。

 下女たちが、無言で姿勢を正した。

 誰かが来たのだと、説明されるまでもなく、手に取るように分かる。


 記乃も同様に動き、他の者たちと同じ角度でお辞儀をした。


 廊下の向こうから現れたのは、久世だった。

 整いすぎた顔立ちが、朝の光を受けて白く浮かび上がる。

 黒髪は光を滑らせるように揺れ、衣の質の良さは、歩くたびに静かに音を立てる。

 その隣には、いつも通り三浦伊織が控えている。


(またか。なんで後宮に官僚が来られるんだ。そこまで偉いお方なのか?)


 記乃は、表情を動かさずにそう思った。

 後宮という場において、男が自然に存在していること自体が例外であるにもかかわらず、この人物はその例外を前提のように扱う。


 違和感がある。

 だが、記乃はそれを指摘する立場にない。

 久世は、そのまま通り過ぎるかのように見えたが、記乃の前で足を止めた。


 ほんのわずかな沈黙。

 しかしその沈黙は、周囲にとっては充分に長いものであり、ともに、意味を持つものだった。


「結城記乃」

「はい」

「用があって来た」


 言葉は短いが、無駄がない。


「なんでしょうか」

「澄子様がお呼びだ」


 記乃は、ゆっくりと顔を上げた。


「……私を?」

「お前を」


 即答だった。

 そのやりとりの間に、周囲の下女たちの間に波紋のようなざわめきが広がる。


 視線が集まる。

 息を潜める気配。


「記乃さん、なにをしたの……?」


 山村の小さな声が、袖の向こうから届いた。

 記乃にも、分からなかった。


(なにかやらかしたか)


 思い当たることはある。

 ありすぎる、と言ってもいい。


 九条澄子妃付きの侍女が裁かれた件は、自分の行った調査が引き金(トリガー)になっている。

 直接的ではないが、無関係とも言えない。


(首が飛ぶ可能性も、否定はできない)


 記乃は、内心で淡々と評価した。


(まだ、体と首を分離させるには惜しい。すべきことをなにも成さぬまま死ぬというのは、なあ)


「参ります」


 記乃は、箒を山村に預けた。


 そして久世の後ろに立ち、静かに歩き出す。

 背中に刺さる視線は、無視する。

 噂はすでに発生している。

 止めるには遅い。

 ならば、材料を増やさない方がいい。


 しばし歩き辿り着いた澄子妃の棟は、静けさが際立っていた。


 古い建物でありながら、手入れが行き届いている。

 余分な装飾はなく、必要なものだけが、正しい位置にある。

 その整い方は、意図的なものだった。


(……合理的だ)


 通された室内で、九条澄子妃は静かに座していた。

 派手さはない。

 だが、目を逸らしにくい存在感がある。


「結城記乃さん?」

「左様でございます」

「あなた、記録官なんですってね」

「……恐れ入りますが、わたくしは記録官の一補佐役に過ぎません」


 わずかな間のあと、澄子妃は笑った。


「ふふ、噂通りなのね」


(いったい、どこでだれが、どんな噂をしているのやら……)


 記乃は思考を切り上げた。


「単刀直入に言うわ」


 澄子妃の声は、柔らかいが迷いがなかった。


「あなたに、私の侍女になってほしいのよ」


 空気が変わる。

 記乃は、言葉を即座に返さなかった。

 思考を整理する。

 意図を測る。


「理由を伺ってもよろしいでしょうか」

「あなたは、官付に出入りしている」

「はい」

「女性がそこにいること、それ自体、すでに負担でしょう?」


 正確だった。


「表向きは更衣棟の下女。でも、実際には記録官補佐の業務を日々こなしている」

「概ね、その通りでございます」

「なら、環境を整えた方がいいと思うのよね」


 澄子妃は淡々と続ける。


「私の棟に籍を置けば、表向きの立場が安定する。ここの棟の侍女は多くはないけれど、優秀なの。だから、手は足りている。そうなれば、あなたの余計な仕事を減らして、本来の職務に集中できる……そう考えたのだけれど」


 理屈は通っている。

 そして、そこまでいい条件を提示してもらって、記乃には拒否する理由などない。


「それは……」

「あなたにとっても、官付にとっても、都合がよいはずよ」


 記乃は言葉を選んだ。

 あまりに合理的だった。

 合理的すぎて、すぐには受け取れない。


「なぜ、そこまでしてくださるのですか」

「優秀な人物を近くに置きたいの」


 澄子妃は微笑んだ。


「私は、わがままかしら?」


 優秀──

 その評価は、素直に嬉しい。

 だが、それと同時に恐れ多い。


 なにせ相手は皇貴妃だ。軽く受け取ってよい言葉ではない。


「この前も、泣く仏像の件を解決したのはあなただって聞いたのよ」


 記乃は内心で、またか、と思った。


「こういうことを、もう一年もしているのでしょう? 周囲にばれないように、隠れて」

「職務の範囲内で、必要な確認をしているだけでございます」

「そう言うと思った」


 澄子妃は、どこか楽しそうに言った。


「私はね、女性だからとか、男性だからとか、そういうのは〝くそくらえ〟だと思っていてよ」


 記乃は、思わず澄子妃を見た。


 皇貴妃の口から出るには、あまりに強い言葉だった。


 久世が笑いを堪えるように口元を押さえた。

 三浦は、何も聞かなかったような顔をしている。


「あなたが規則(ルール)を壊して官僚になってくれたら、それはとても嬉しいことだし……」


 澄子妃は静かに続けた。


「それに、そうなったとき、そんな人間を傍に置いていたなんて、私も鼻が高くてよ」


 本音と建前が混じっている。

 記乃には、それが分かった。


 澄子妃は純粋な善意だけで言っているわけではない。

 優秀な人材を近くに置きたい。自分の棟に知識と判断力のある者を置きたい。そして、将来その人物が上へ行けば、自分の目利きにもなる。

 そういう計算もある。

 だが、それを隠しきらず、柔らかく笑って差し出している。


(断れるわけがない)


 相手は皇貴妃。

 しかも提案は理に適っている。

 記乃にとっても利益がある。官付にとっても、恐らく悪いことはない。

 感情で拒む理由はあっても、事実として拒む理由がない。


「身に余るお話でございます」


 記乃は深く頭を下げた。


「謹んで、お受けいたします」


 記乃は、頭を下げた。


 その瞬間、状況が確定した。

 立場が変わる。

 役割が増える。

 そして、環境も変わる。


「では、今日中にこの棟に移ってちょうだい。部屋はすぐに用意させるから」

「本日中、でございますか」

「早い方がよいでしょう」

「承知いたしました」


 そして、久世が軽い調子で言った。


「私が手伝おう」

「久世様」


 三浦が即座に口を挟んだ。


「あなた様には、お仕事が溜まっております」

「少しくらい」

「溜まっております」

「伊織」

「溜まっております」


 三回言った。

 久世は黙った。

 澄子妃が楽しそうに笑う。


「では、三浦。手伝ってあげて」

「承知しました」


 三浦は丁寧に頭を下げた。

 記乃は三浦を見る。


「ご迷惑では」

「問題ございません。久世様を執務机へ戻すより、こちらの方が容易です」

「伊織」

「事実です」


 久世は不服そうだった。

 記乃は、少しだけ三浦に同情した。


 三浦と共に更衣たちの住まう棟へと移動した。


 引越し作業は、思っていたより大変だった。

 記乃自身は、荷物は少ないと思っていた。下女としての衣類は多くない。私物も少ない。

 だが、紙が多かった。

 紙、インク、大量の本、資料、報告書の控え、語学の本、薬学と医学の書き付け、予備の筆記具の類……


 三浦がそれらを見て、わずかに目を細める。


「……これは、思っていたよりも、ひとりで運ぶには難しい量ですね」

「荷物が多い自覚はあります」

「基準が衣類ではなく、紙である点が特徴的です。あなたらしい、と言いますか」

「所持している着物は最低限です。職務に差し支えないので」


 三浦は困ったような顔をした。


「しかし、今後は澄子妃と共に過ごす際、安物の小紋では妃に恥をかかせてしまうことになり兼ねませんよ」

「……たしかに、一理あります」

「結城家の娘なのですから、実家に上等な着物くらいあるのでは? 養父(ちち)上はずいぶん、あなたを可愛がっているようでしたが」


 養母が亡くなってからは、不謹慎にも喜んでいた。

 堂々と私のための買い物ができると、なにかあるたびに着物や装飾品(アクセサリー)を買ってくれるようになった。

 喜んだ理由は、私が虐げられていることだけではない。養父が養母から暴言や暴力を受けていたことも理由のひとつだろうが……それにしても、妻が亡くなって喜ぶのはいかがなものか、と思う。


 義兄(あに)も、ことあるごとに簪だの、紅だのを渡してくる。


「……後ほど、養父(ちち)に聞いてみます」

「その方がよろしいかと」


 澄子妃の侍女たちは、記乃を明るく迎えた。

 西原の件があったばかりだから、警戒されるかもしれないと思っていたが、少なくとも表面上はそうではなかった。


「あなたが記乃さんね」

「澄子様から伺っているわ」

「本が多いのね」

「紙とインクも多いわ」

「でも助かるわ。うちには書き物が得意な人がいると心強いもの」


 侍女たちは賢く、手際もよかった。

 余計な詮索は少ない。それでいて、必要な説明は早い。澄子妃の棟らしい、というべきなのだろう。


 荷物の整理を終えるころには、日が傾きかけていた。

 記乃は新しく割り当てられた小さな部屋で、紙片を取り出した。


 今日の記録を残す必要がある。

 これは事件ではない。

 だが、身分と役目に関わる重要な変更だ。

 記乃は万年筆を取った。


 ──本日、九条澄子妃より召喚。

 ──表向きの籍を更衣棟下女より、九条澄子妃付き侍女へ変更。

 ──目的、後宮内立場の安定および記録官補佐業務への専念。

 ──実務負担、最小限との説明あり。

 ──引越し完了。

 ──三浦伊織、搬送補助。

 最後に、少しだけ迷って追記する。

 ──澄子妃、聡明。発言に本音と建前の混在あり。


 書き終えると、記乃は万年筆を置いた。

 新しい部屋は静かだった。


 香の匂いも、以前の棟より薄い。

 紙を置く場所がある。

 インクを倒さずに済む机がある。

 それだけで、ずいぶん仕事がしやすくなる。


(悪くない。むしろ、良すぎる……っ!)


 そう評価した。

 珍しく気分(テンション)が上がる。


 だが、その翌朝。

 澄子妃は、さっそく記乃を呼んだ。

 昨夜と同じ穏やかな顔で、しかし声には少しだけ別の硬さが混じっていた。


「記乃」

「はい」

「あなたに、ひとつ解いてほしい謎があるの」


(来た)


 記乃は、そう思った。

 やはり、優秀な人物を近くに置きたい、だけでは終わらなかったらしい。


「侍女たちが、同じ夢を見るのよ」


 澄子妃は言った。


「ここ数週間、何人も。内容まで、ほとんど同じ」

「同じ夢、でございますか」

「ええ」


 澄子妃は記乃を見た。


「この謎を、解明できるかしら」


(現象は整理できる)


 夢。

 複数人。

 同一内容。

 条件が揃えば、再現可能な現象である可能性が高い。

 超常ではなく、構造の問題。


 これは、できるかできないか訊ねているのではない。

 やりなさい、という命令だった。


「解決いたします」


 記乃は答えた。

 その答えに迷いはなかった。

 ただし、それは自信ではなく、手順の確認に過ぎない。


(原因がある)


 ある以上、辿れる。


 それだけのことだった。



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