第四話 結城家
家族というものは、なにも血だけで決まるわけではない。
同じ屋根の下で過ごした時間。
同じ食卓についた回数。
同じ季節を越えた記憶。
そういったものが少しずつ積もり、人の輪郭を似せていく。
血が繋がっていなくとも、似ることはある。
顔立ちではなく、癖や、言葉や、沈黙の仕方が。
(報告書、ひとまず提出済み。真壁さんからの追加確認は、恐らく補修履歴の件)
結城記乃は、朝一番に真壁記録官長への報告を終え、官付庁舎の廊下を歩いていた。
仏堂の件は、血ではなく染料。祟りではなく湿度。仏像が泣いたのではなく、細い罅を通って赤い液体が滲み出ただけ。
そう説明すれば、少なくとも下女たちの仕事は止まらない。
記乃は紙片の束を胸元にしまい、歩調を整えた。
そのときだった。
「記乃〜!」
聞き慣れた声が、廊下の向こうから飛んできた。
(父上)
顔を上げるより早く、結城密記が駆け寄ってきた。
今年で四十八歳になるはずだが、動きは妙に軽い。
長年、天皇家に仕える文官の家系に生まれ、今は暗号局の頂点に立つ高級官僚。
その肩書きだけなら、相当に重い。
だが本人は、その重さをどこかに置き忘れてきたような顔で、記乃を抱きしめた。
「記乃、記乃。元気そうだなあ」
「父上、ここは官付の廊下です」
「うんうん。髪もちゃんと結っているな。偉い偉い」
密記は構わず記乃の頭を撫でた。
しかも、かなり撫でた。
(髪が崩れる)
そう思った。思いはしたが、不思議と嫌ではなかった。
密記の手は、昔から変わらない。
拾われた日の記憶に残っている手より、いまは少し骨ばっている。けれど、頭を撫でるときの力加減だけは、ずっと同じだった。
「仕事っぷりがいいと聞いたぞ。よく頑張っているんだなあ。偉い偉い」
「せっかくいただけたお仕事なので」
「本当に大きくなって……」
密記の声が、少しだけ柔らかくなる。
記乃は目を伏せた。
「父上のおかげです」
「そういうことを言うようになって。昔は、もっと小さかったのに」
「誰でも大きくなります」
「それはそうだが、父としてはね、こう、感慨があるんだよ」
密記はまた記乃の髪を撫でた。
(だから、髪が)
崩れる。確実に崩れる。
しかし、止めるほどではない。
そう判断していると、横合いから鋭い声が飛んだ。
「父上。官付の庁舎内で、そういう恥ずかしいことすんなって!」
記乃が振り向くと、結城偵記が立っていた。
背が高く、肩がしっかりしている、男らしくて格好がいい義兄さん。
顔立ちは端正だが、表情がいつも少し不機嫌そうに見えるせいで、近寄りやすい印象はない。
だが、記乃にとっては昔からの義兄だった。
「ん? ああ、すまんすまん」
密記は笑って手を離した。
偵記は大きく息を吐き、記乃の後ろへ回る。
「後ろ向け」
「はい」
記乃は素直に背を向けた。
偵記は、密記に撫で回されて乱れた髪を手早くまとめ直す。指の動きは慣れていた。ほどけかけていた髪を集め、銀の簪で留め直す。
乱暴に見えるのに、痛くはない。
昔からそうだった。
言葉は足りない。態度はぶっきらぼう。
だが、手元だけはいつも丁寧だった。
「ありがとうございます、兄さん」
「あのままだとみっともねえから」
「そうですね」
「否定しろよ」
「事実ですので」
「お前は本当に……」
偵記は呆れたように言いながら、最後に簪の角度を直した。
(優しい兄だ)
記乃は、そう思った。口に出せば嫌がるだろうから、言わない。もちろん記録にも残さない。
ただ、胸の奥にしまう。
三人が揃って立っている姿を、少し離れた場所から見ている者がいた。
偵記の同僚、水沢である。
水沢は書類を抱えたまま、廊下の端で足を止めていた。
(結城殿の妹君、か)
偵記からは、義兄妹だと聞いている。
血は繋がっていないらしい。けれど、こうして並ぶと、不思議とどこか似ていた。
顔立ちそのものではない。
視線の置き方。返答の短さ。相手の言葉を一度受け止めてから返す、妙な間。
(同じ家で育てば、多少なりとも似るものなのだろう。長年連れ添えば、似た者夫婦も顔が似てくるなんて言うしな)
水沢はそんなことを考えた。
そのとき、廊下の向こうから真壁が歩いてきた。手には記乃の報告書らしきものを持っている。何か気になる点があったのだろう。
「結城」
そう呼びかけて、真壁は密記の姿に気づいた。
足が止まる。すぐに姿勢が変わった。
「結城局長」
真壁は頭を下げた。
「おはようございます」
「おはよう、真壁君」
密記はにこにこと笑った。
「記乃が世話になっているね」
「いえ。こちらこそ、よく働いてもらっています」
真壁の口調はそっけない。だが、しっかりとした敬語だった。
記乃はそれを見て、少しだけ目を瞬いた。
真壁は、基本的に誰に対しても面倒そうだ。必要最低限しか話さないし、愛想もない。だが、密記に対しては明確に敬意を払っている。
それは、形だけの礼ではなかった。
結城密記。
文官の名家に生まれ、若いころから暗号解読、外交文書、機密文書の処理で頭角を現した人間。
今では暗号局の頂点にいる。
真壁のような出世頭から見ても、事実として大先輩だった。
「何か記乃に用かな」
「報告書について、後ほど一点確認をと思いまして」
真壁は記乃を見た。
「結城。あとでもう一度、執務室に来い」
「承知しました」
真壁は再び密記に頭を下げた。
「失礼します」
「ああ、引き止めて悪かったね」
「いえ」
真壁はそれだけ言って、去っていった。
親子三人が揃っているところを邪魔しないようにしたのだろう。そういう気遣いを見せる人だったのか、と記乃は少しだけ意外に思った。
「どうした? 記乃」
密記が顔を覗き込む。
「いえ。父上は、やはり偉い方なのだなと」
「偉いよう。立場だけはね」
密記は軽く笑った。
ふざけているように聞こえるが、実際の仕事ぶりは若いころから凄まじかったと聞いている。
学と教養。飛び抜けた頭の回転。暗号を読む力。
言葉の裏にある政治を読む力。
いまの立場は、家柄だけで得たものではない。
(見習わなければ)
記乃はそう思った。
偵記が腕を組む。
「父上は、そういうところ軽く言うからな」
「軽く言った方が、周りが緊張しなくて済むだろう」
「そのせいで、たまに本気で軽い人だと思われてますよ」
「それはそれで、油断してくれて助かる」
密記は笑っている。
だが、その言葉の中に、官僚としてのしたたかさが薄く混じっていた。
記乃は紙片を取り出したい衝動を抑えた。家族の会話を記録するのは、さすがにやめた方がいい。
「兄さんは、最近どうですか」
記乃が問うと、偵記は肩をすくめた。
「どうって……ぼちぼちだよ」
「そうですか」
「いまからでも軍官になれりゃ、不満はないんだがな」
密記が、困ったように笑った。
「官付に推薦したの、まだ怒ってるのか……」
「帝国軍にだって、伝手はあったんだろ」
「あるけど〜」
「軍部に勤めるために鍛えてきたのに」
「いまも鍛えてますよね」
記乃が言うと、偵記は当然のように答えた。
「当たり前だ」
偵記は外交局に勤めている。
記乃が外国語を学ぶ際、よく一緒に勉強していた。
読み書きなら記乃もできる。だが、偵記は話すことができた。発音も、耳もいい。
英語に関しては、記乃よりもずっと上手い。
その能力を活かして外交局にいる。
それでも、本人は軍部への未練を隠していない。
「兄さんは外交局でも充分お役に立っていると思います」
「そういう問題じゃねえ」
「適性の話ではなく、志望の話ですか」
「そうだよ」
「なるほど」
「なるほど、じゃねえ」
偵記は不満げに言った。
密記はにこにことしている。
「偵記は体も強いし、軍部向きではあるんだけどねえ」
「なら」
「でも、外交局にも必要だったんだよ」
「便利に使いやがって」
「使える子を使うのは、官の基本だよ」
「父上」
「うん?」
「開き直るな」
密記は笑った。対して偵記は、眉間に皺を寄せた。
記乃は、少しだけ口元を緩めた。
親子三人で立ち話をすることは、珍しい。結城家の本邸にいるときですら、三人が落ち着いて顔を合わせる時間は多くない。
まして、官付の廊下ではなおさらだった。
その空気を破るように、水沢がぎこちなく近づいてきた。
「あの、偵記殿。そろそろ局へ……」
「ああ、悪い。今行く」
偵記は記乃を見る。
「髪、もう崩すなよ」
「自分では崩していません」
「父上にも言っとけ」
「父上。私の髪を崩さないでください」
「努力する」
「崩す気がある返事ですね」
「ないない」
密記は笑った。
偵記は呆れた顔をして、水沢と共に歩き出す。途中で一度だけ振り返り、記乃の髪を確認した。それから、何も言わずに行った。
密記も、記乃の肩に軽く手を置く。
「じゃあ、俺も行くけど……存分に励みなさい。記乃」
「はい。父上」
「無理はしすぎないこと」
「善処します」
「それは信用ならない返事だなあ」
「よく言われます」
密記は楽しそうに笑い、暗号局の方へ歩いていった。
記乃は、その背を見送った。
軽い背中に見える。だが、あの背中は、この国の機密と暗号を長年背負ってきた背中だ。
(私も、いつか)
そこまで考えて、やめた。
願望と事実は別。
それは何度も自分に言い聞かせてきたことだ。
それでも、思ってしまうことまでは止められない。
(いまは、仕事)
記乃は踵を返し、真壁の執務室へ向かった。
追加確認は、報告書内の一文だった。仏像の補修履歴について「未確認」とした箇所。
真壁はそれを確認したかったらしい。
「ここは、未確認のままでいい」
「確認不要という意味でしょうか」
「今回の騒ぎを止めるには不要だ。深掘りすれば、仏堂管理者の怠慢だの、補修費の流れだの、別の話になる」
「それはそれで、確認すべきでは」
「今は不要」
「承知しました」
「お前は放っておくと、穴を全部掘る」
「事実確認です」
「穴掘りだ」
「……承知しました」
用はすぐに済んだ。
記乃は執務室を後にし、官付庁舎から内廷にあたる後宮へ向かう。
外邸から内廷へ向かう道は、空気が変わる。
官付の紙と墨の匂いから、後宮の香と湿った木の匂いへ。
門を潜るたび、身分と役目が一枚ずつ着替わるような感覚があった。
記録官補佐。下女。結城家の娘。拾われた子。
どれも事実だ。
ただし、使う場所が違う。
後宮へ入った瞬間、記乃は足を止めた。
そこに、久世がいた。
当然のように立っていた。
隣には三浦伊織。
(なぜ)
久世は禁衛ではない。
少なくとも、記乃はそう認識している。
後宮に男が出入りするには、相応の理由と許可が必要だ。
久世が高位の人間であることは分かっていたが、ここにいる理由を知れば、何か面倒な事情に巻き込まれる気がした。
(見なかったことにしよう)
記乃は判断した。
関わらない。
通り抜ける。
それが最善だった。
「結城記乃」
久世が呼んだ。
失敗した。
記乃は足を止めずに、わずかに頭だけ下げた。
「忙しいので」
それだけ言って、駆け足で去った。後宮の廊下を曲がる。久世の姿が見えなくなる。
記乃は少しだけ息を吐いた。
(分類に困るものへ、余計に近づく必要はない)
残された久世は、ぽかんとしていた。
三浦は隣で、困ったような顔をしている。
「……私は嫌われているのか?」
「好かれてはいないようですね」
「くっ」
「もっとも、この場所に我々がいるという状況を知ること自体を、面倒くさがった可能性が高いですけれど」
久世は、記乃が消えた廊下の先を見る。
「私は、陛下から許可を得ている」
「はい」
「後宮への出入りも、必要があれば許されている」
「はい」
「それを伝えれば、逃げなくなるか?」
三浦は少しだけ考えた。
「逃げる理由がひとつ減るだけかと」
「ひとつ減れば充分ではないか」
「別の理由で逃げる可能性があります」
「なぜだ」
「久世様ですので」
「伊織」
「はい」
「それは説明になっているのか」
「ある程度は」
久世は黙った。
それから、少し拗ねたように言う。
「次会ったら、逃げたことを後悔させてやろう」
「どのようになさるのですか?」
「……追々考える」
三浦は、少し笑った。
「では、考えてからお声がけください」
「伊織、最近お前は私に冷たくないか」
「事実確認をしているだけです」
「それは結城記乃の真似か」
「少し移ったのかもしれませんね」
久世は目を瞬いた。
それから、楽しそうに笑った。
「なら、ますます面白い」
三浦は何も言わなかった。
ただ、主がまた余計な興味を深めたことだけは、静かに理解した。
その頃、記乃はすでに後宮の廊下を歩いていた。
紙片の束を抱え、今日の仕事を頭の中で並べる。
仏堂の噂は消火しなければならない。下女としての仕事も残っている。真壁への報告書もある。
家族の温かさも、久世の妙な興味も、いまは脇へ置く。
仕事は、順序がある。感情より、順序の方が扱いやすい。記乃は歩きながら、少しだけ崩れかけた髪に触れた。
偵記が直してくれた簪は、まだきちんと留まっている。
それを確認してから、記乃はまた前を向いた。
廊下の先には、後宮の一日が広がっている。
そして、彼女にはまだ、書くべきものが残っていた。




