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記録官の断章 〜解体される怪異〜  作者: 早河縁
第一章 怪異読解篇
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第四話 結城家

 家族というものは、なにも血だけで決まるわけではない。

 同じ屋根の下で過ごした時間。

 同じ食卓についた回数。

 同じ季節を越えた記憶。

 そういったものが少しずつ積もり、人の輪郭を似せていく。


 血が繋がっていなくとも、似ることはある。

 顔立ちではなく、癖や、言葉や、沈黙の仕方が。


(報告書、ひとまず提出済み。真壁さんからの追加確認は、恐らく補修履歴の件)


 結城記乃は、朝一番に真壁記録官長への報告を終え、官付庁舎の廊下を歩いていた。


 仏堂の件は、血ではなく染料。祟りではなく湿度。仏像が泣いたのではなく、細い(ひび)を通って赤い液体が滲み出ただけ。

 そう説明すれば、少なくとも下女たちの仕事は止まらない。

 記乃は紙片(メモ)の束を胸元にしまい、歩調を整えた。

 そのときだった。


「記乃〜!」


 聞き慣れた声が、廊下の向こうから飛んできた。


(父上)


 顔を上げるより早く、結城密記(みつとし)が駆け寄ってきた。

 今年で四十八歳になるはずだが、動きは妙に軽い。


 長年、天皇家に仕える文官の家系に生まれ、今は暗号局の頂点に立つ高級官僚。

 その肩書きだけなら、相当に重い。


 だが本人は、その重さをどこかに置き忘れてきたような顔で、記乃を抱きしめた。


「記乃、記乃。元気そうだなあ」

「父上、ここは官付の廊下です」

「うんうん。髪もちゃんと結っているな。偉い偉い」


 密記は構わず記乃の頭を撫でた。

 しかも、かなり撫でた。


(髪が崩れる)


 そう思った。思いはしたが、不思議と嫌ではなかった。


 密記の手は、昔から変わらない。

 拾われた日の記憶に残っている手より、いまは少し骨ばっている。けれど、頭を撫でるときの力加減だけは、ずっと同じだった。


「仕事っぷりがいいと聞いたぞ。よく頑張っているんだなあ。偉い偉い」

「せっかくいただけたお仕事なので」

「本当に大きくなって……」


 密記の声が、少しだけ柔らかくなる。

 記乃は目を伏せた。


「父上のおかげです」

「そういうことを言うようになって。昔は、もっと小さかったのに」

「誰でも大きくなります」

「それはそうだが、父としてはね、こう、感慨があるんだよ」


 密記はまた記乃の髪を撫でた。


(だから、髪が)


 崩れる。確実に崩れる。

 しかし、止めるほどではない。

 そう判断していると、横合いから鋭い声が飛んだ。


「父上。官付の庁舎内で、そういう恥ずかしいことすんなって!」


 記乃が振り向くと、結城偵記(さだとし)が立っていた。

 背が高く、肩がしっかりしている、男らしくて格好がいい義兄(にい)さん。

 顔立ちは端正だが、表情がいつも少し不機嫌そうに見えるせいで、近寄りやすい印象はない。

 だが、記乃にとっては昔からの義兄(あに)だった。


「ん? ああ、すまんすまん」


 密記は笑って手を離した。

 偵記は大きく息を吐き、記乃の後ろへ回る。


「後ろ向け」

「はい」


 記乃は素直に背を向けた。


 偵記は、密記に撫で回されて乱れた髪を手早くまとめ直す。指の動きは慣れていた。ほどけかけていた髪を集め、銀の簪で留め直す。

 乱暴に見えるのに、痛くはない。


 昔からそうだった。

 言葉は足りない。態度はぶっきらぼう。

 だが、手元だけはいつも丁寧だった。


「ありがとうございます、兄さん」

「あのままだとみっともねえから」

「そうですね」

「否定しろよ」

「事実ですので」

「お前は本当に……」


 偵記は呆れたように言いながら、最後に簪の角度を直した。


(優しい兄だ)


 記乃は、そう思った。口に出せば嫌がるだろうから、言わない。もちろん記録にも残さない。

 ただ、胸の奥にしまう。


 三人が揃って立っている姿を、少し離れた場所から見ている者がいた。

 偵記の同僚、水沢である。

 水沢は書類を抱えたまま、廊下の端で足を止めていた。


(結城殿の妹君、か)


 偵記からは、義兄妹(ぎきょうだい)だと聞いている。

 血は繋がっていないらしい。けれど、こうして並ぶと、不思議とどこか似ていた。


 顔立ちそのものではない。

 視線の置き方。返答の短さ。相手の言葉を一度受け止めてから返す、妙な間。


(同じ家で育てば、多少なりとも似るものなのだろう。長年連れ添えば、似た者夫婦も顔が似てくるなんて言うしな)


 水沢はそんなことを考えた。

 そのとき、廊下の向こうから真壁が歩いてきた。手には記乃の報告書らしきものを持っている。何か気になる点があったのだろう。


「結城」


 そう呼びかけて、真壁は密記の姿に気づいた。

 足が止まる。すぐに姿勢が変わった。


「結城局長」


 真壁は頭を下げた。


「おはようございます」

「おはよう、真壁君」


 密記はにこにこと笑った。


「記乃が世話になっているね」

「いえ。こちらこそ、よく働いてもらっています」


 真壁の口調はそっけない。だが、しっかりとした敬語だった。

 記乃はそれを見て、少しだけ目を瞬いた。

 真壁は、基本的に誰に対しても面倒そうだ。必要最低限しか話さないし、愛想もない。だが、密記に対しては明確に敬意を払っている。

 それは、形だけの礼ではなかった。


 結城密記。

 文官の名家に生まれ、若いころから暗号解読、外交文書、機密文書の処理で頭角を現した人間。

 今では暗号局の頂点にいる。

 真壁のような出世頭から見ても、事実として大先輩だった。


「何か記乃に用かな」

「報告書について、後ほど一点確認をと思いまして」


 真壁は記乃を見た。


「結城。あとでもう一度、執務室に来い」

「承知しました」


 真壁は再び密記に頭を下げた。


「失礼します」

「ああ、引き止めて悪かったね」

「いえ」


 真壁はそれだけ言って、去っていった。

 親子三人が揃っているところを邪魔しないようにしたのだろう。そういう気遣いを見せる人だったのか、と記乃は少しだけ意外に思った。


「どうした? 記乃」


 密記が顔を覗き込む。


「いえ。父上は、やはり偉い方なのだなと」

「偉いよう。立場だけはね」


 密記は軽く笑った。

 ふざけているように聞こえるが、実際の仕事ぶりは若いころから凄まじかったと聞いている。


 学と教養。飛び抜けた頭の回転。暗号を読む力。

 言葉の裏にある政治を読む力。

 いまの立場は、家柄だけで得たものではない。


(見習わなければ)


 記乃はそう思った。

 偵記が腕を組む。


「父上は、そういうところ軽く言うからな」

「軽く言った方が、周りが緊張しなくて済むだろう」

「そのせいで、たまに本気で軽い人だと思われてますよ」

「それはそれで、油断してくれて助かる」


 密記は笑っている。

 だが、その言葉の中に、官僚としてのしたたかさが薄く混じっていた。

 記乃は紙片を取り出したい衝動を抑えた。家族の会話を記録するのは、さすがにやめた方がいい。


「兄さんは、最近どうですか」


 記乃が問うと、偵記は肩をすくめた。


「どうって……ぼちぼちだよ」

「そうですか」

「いまからでも軍官になれりゃ、不満はないんだがな」


 密記が、困ったように笑った。


「官付に推薦したの、まだ怒ってるのか……」

「帝国軍にだって、伝手(つて)はあったんだろ」

「あるけど〜」

「軍部に勤めるために鍛えてきたのに」

「いまも鍛えてますよね」


 記乃が言うと、偵記は当然のように答えた。


「当たり前だ」


 偵記は外交局に勤めている。

 記乃が外国語を学ぶ際、よく一緒に勉強していた。

 読み書きなら記乃もできる。だが、偵記は話すことができた。発音も、耳もいい。

 英語に関しては、記乃よりもずっと上手い。

 その能力を活かして外交局にいる。


 それでも、本人は軍部への未練を隠していない。


「兄さんは外交局でも充分お役に立っていると思います」

「そういう問題じゃねえ」

「適性の話ではなく、志望の話ですか」

「そうだよ」

「なるほど」

「なるほど、じゃねえ」


 偵記は不満げに言った。

 密記はにこにことしている。


「偵記は体も強いし、軍部向きではあるんだけどねえ」

「なら」

「でも、外交局にも必要だったんだよ」

「便利に使いやがって」

「使える子を使うのは、官の基本だよ」

「父上」

「うん?」

「開き直るな」


 密記は笑った。対して偵記は、眉間に皺を寄せた。

 記乃は、少しだけ口元を緩めた。

 親子三人で立ち話をすることは、珍しい。結城家の本邸にいるときですら、三人が落ち着いて顔を合わせる時間は多くない。

 まして、官付の廊下ではなおさらだった。


 その空気を破るように、水沢がぎこちなく近づいてきた。


「あの、偵記殿。そろそろ局へ……」

「ああ、悪い。今行く」


 偵記は記乃を見る。


「髪、もう崩すなよ」

「自分では崩していません」

「父上にも言っとけ」

「父上。私の髪を崩さないでください」

「努力する」

「崩す気がある返事ですね」

「ないない」


 密記は笑った。

 偵記は呆れた顔をして、水沢と共に歩き出す。途中で一度だけ振り返り、記乃の髪を確認した。それから、何も言わずに行った。

 密記も、記乃の肩に軽く手を置く。


「じゃあ、俺も行くけど……存分に励みなさい。記乃」

「はい。父上」

「無理はしすぎないこと」

「善処します」

「それは信用ならない返事だなあ」

「よく言われます」


 密記は楽しそうに笑い、暗号局の方へ歩いていった。

 記乃は、その背を見送った。

 軽い背中に見える。だが、あの背中は、この国の機密と暗号を長年背負ってきた背中だ。


(私も、いつか)


 そこまで考えて、やめた。

 願望と事実は別。

 それは何度も自分に言い聞かせてきたことだ。

 それでも、思ってしまうことまでは止められない。


(いまは、仕事)


 記乃は踵を返し、真壁の執務室へ向かった。

 追加確認は、報告書内の一文だった。仏像の補修履歴について「未確認」とした箇所。

 真壁はそれを確認したかったらしい。


「ここは、未確認のままでいい」

「確認不要という意味でしょうか」

「今回の騒ぎを止めるには不要だ。深掘りすれば、仏堂管理者の怠慢だの、補修費の流れだの、別の話になる」

「それはそれで、確認すべきでは」

「今は不要」

「承知しました」

「お前は放っておくと、穴を全部掘る」

「事実確認です」

「穴掘りだ」

「……承知しました」


 用はすぐに済んだ。

 記乃は執務室を後にし、官付庁舎から内廷にあたる後宮へ向かう。


 外邸から内廷へ向かう道は、空気が変わる。

 官付の紙と墨の匂いから、後宮の香と湿った木の匂いへ。

 門を潜るたび、身分と役目が一枚ずつ着替わるような感覚があった。


 記録官補佐。下女。結城家の娘。拾われた子。

 どれも事実だ。

 ただし、使う場所が違う。

 後宮へ入った瞬間、記乃は足を止めた。


 そこに、久世がいた。

 当然のように立っていた。

 隣には三浦伊織。


(なぜ)


 久世は禁衛ではない。

 少なくとも、記乃はそう認識している。

 後宮に男が出入りするには、相応の理由と許可が必要だ。

 久世が高位の人間であることは分かっていたが、ここにいる理由を知れば、何か面倒な事情に巻き込まれる気がした。


(見なかったことにしよう)


 記乃は判断した。

 関わらない。

 通り抜ける。

 それが最善だった。


「結城記乃」


 久世が呼んだ。

 失敗した。

 記乃は足を止めずに、わずかに頭だけ下げた。


「忙しいので」


 それだけ言って、駆け足で去った。後宮の廊下を曲がる。久世の姿が見えなくなる。

 記乃は少しだけ息を吐いた。


(分類に困るものへ、余計に近づく必要はない)


 残された久世は、ぽかんとしていた。

 三浦は隣で、困ったような顔をしている。


「……私は嫌われているのか?」

「好かれてはいないようですね」

「くっ」

「もっとも、この場所に我々がいるという状況を知ること自体を、面倒くさがった可能性が高いですけれど」


 久世は、記乃が消えた廊下の先を見る。


「私は、陛下から許可を得ている」

「はい」

「後宮への出入りも、必要があれば許されている」

「はい」

「それを伝えれば、逃げなくなるか?」


 三浦は少しだけ考えた。


「逃げる理由がひとつ減るだけかと」

「ひとつ減れば充分ではないか」

「別の理由で逃げる可能性があります」

「なぜだ」

「久世様ですので」

「伊織」

「はい」

「それは説明になっているのか」

「ある程度は」


 久世は黙った。

 それから、少し拗ねたように言う。


「次会ったら、逃げたことを後悔させてやろう」

「どのようになさるのですか?」

「……追々考える」


 三浦は、少し笑った。


「では、考えてからお声がけください」

「伊織、最近お前は私に冷たくないか」

「事実確認をしているだけです」

「それは結城記乃の真似か」

「少し移ったのかもしれませんね」


 久世は目を瞬いた。

 それから、楽しそうに笑った。


「なら、ますます面白い」


 三浦は何も言わなかった。

 ただ、主がまた余計な興味を深めたことだけは、静かに理解した。


 その頃、記乃はすでに後宮の廊下を歩いていた。

 紙片の束を抱え、今日の仕事を頭の中で並べる。


 仏堂の噂は消火しなければならない。下女としての仕事も残っている。真壁への報告書もある。

 家族の温かさも、久世の妙な興味も、いまは脇へ置く。


 仕事は、順序がある。感情より、順序の方が扱いやすい。記乃は歩きながら、少しだけ崩れかけた髪に触れた。

 偵記が直してくれた簪は、まだきちんと留まっている。

 それを確認してから、記乃はまた前を向いた。


 廊下の先には、後宮の一日が広がっている。


 そして、彼女にはまだ、書くべきものが残っていた。


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