第三話 泣く仏像《後編》
赤というのは、人の目を奪う色だ。
花の赤。
火の赤。
傷口の赤。
それが頬を伝って流れれば、人はそこに痛みを見ることだろう。
だが、色が意味を持つのは、人間がそれを意味として受け取るからだ。赤いものが、必ず血であるとは限らない。ましてや、仏が泣いたと決めるには、まだ材料が足りなかった。
(次を待つ。必ず、次もある)
記乃は仏像を見上げたまま、膝の上の紙片に指を添えていた。
外では雨が降り続いている。仏堂の空気は、夜が更けるほどに重くなっていった。木の柱は湿り、畳はかすかに冷え、灯明の火はときおり細く揺れる。
鳳条玲は、隣で煙管を弄んでいた。煙は白く細く立ちのぼり、湿気に絡め取られるようにして崩れていく。
「それで」
鳳条が怠そうに口を開いた。
「きみは、何を待っているんだい」
「再現です」
「再現」
「一度だけなら偶然の可能性があります。ですが、同条件下で再び発生すれば、仮説の精度が上がります」
「きみは本当に、仏の涙にも容赦がないねえ」
「仏の涙かどうか、まだ確認できていませんので」
「祟りかもしれないよ」
「祟りなら、梅雨の高い湿度に合わせて流れる必要がありませんので」
鳳条は、ふ、と笑った。
「ひどいことを言う」
「現象に対してですか」
「信仰に対してだよ」
「信仰と現象の説明は別です。それと、そもそも私は仏門ではありません」
記乃は視線を仏像に置いたまま答えた。
「さらに付け加えるなら、拝むことを否定しているのではありません。赤い液体が目元から流れる理由を確認しているだけです」
「ふうん」
「混ぜると、判断を誤ります」
「それ、口癖かい」
「事実です」
鳳条は喉の奥で笑った。その声は、仏堂の梁に触れて、雨音の中へ溶けた。
記乃は仏像の表面を改めて見た。右目の下──先ほど液体が流れた部分には、薄い筋が残っている。乾く前の赤は鮮やかだったが、空気に触れると赤茶けていく。血のように見えなくもない。むしろ、見る者が血だと思い込めば、それ以外には見えなくなるだろう。
(目元に細い罅。頬の筋は、毎回ほぼ同じ位置)
記乃は紙片に書く。
──右目下、細い罅あり。
──液体の流下位置、既存乾燥痕と一致。
──頬面に微細な溝、または染料の通り道あり。
──要、明朝の明光下で再確認。
鳳条が横から覗く。
「よく書くねえ」
「書かなければ、記憶が勝手に都合よく変わります」
「記憶に信用がない?」
「人間に信用がありません」
「辛辣だ」
「自分も含めてです」
鳳条は少しだけ目を細めた。
翡翠色の瞳が、灯明の明かりを受けて鈍く光る。
「そういうところ、官僚向きだと思うけどね」
「その話は終わりました」
「きみが終わらせただけだ」
「仕事中です」
「便利な言葉だ」
記乃は答えなかった。こういった言い回しが便利なのは、事実だった。
職務中。調査中。報告前。
その言葉を盾にすれば、余計な話の大半は脇へ置ける。だから使っている。便利なものを使うことに、罪悪感はない。
しばらく、二人は黙って仏像を見ていた。雨音が強くなる。湿気がさらに濃くなってゆく。
灯明の火が、ひとつ、芯の奥で小さく爆ぜた。
そのときだった。
「左」
鳳条が短く言った。
記乃はすぐに視線を動かした。
仏像の左目の下に、赤い点が浮かんでいた。ごく小さい、針で突いたような一点。だが、それはゆっくりと丸くなった。膨らみ、重さを持ち、やがて頬を伝って落ちる。
今度は、記乃も最初から最後まで見た。涙ではない。内側から押し出された液体だ。表面を濡らしながら、既存の筋に沿って流れていく。
赤は灯明の色を抱き込み、まるで仏像が内側から傷ついているように見えた。
(よくできている)
そう思った。
不謹慎ではある。だが、細工としては悪くない。見る者が恐れるように作られている。
記乃はすぐに書いた。
──時刻、夜半後。
──左目下より赤色液体滲出。
──右目と同様、液滴形成後に流下。
──雨勢、やや増加。
──室内湿気、増加体感あり。
──再現性あり。
鳳条が仏像を見上げたまま言う。
「さて。これで仏は二度泣いた」
「仏が泣いたのではありません」
「じゃあ、何が泣いたんだい」
「素材です」
鳳条は一瞬黙り、それから低く笑った。
「素材が泣く、と?」
「別に、比喩ではありません」
「今のは比喩にした方が美しいと思うけどね」
「美しさより正確性が優先です」
「はあ、徹底している」
記乃は立ち上がった。
「仏像を確認します」
「触るのかい」
「必要範囲のみ。表面の罅と台座、背面、周辺の湿り気を確認します」
「祟られない?」
「祟りより、証拠を壊す方が問題です」
「君の優先順位は、独特だね」
記乃は仏像に近づいき、灯明を少し寄せる。影が動き、仏像の頬に刻まれた赤い筋が浮かび上がった。
表面は木彫りに漆を施したものらしい。古いが、手入れはされている。ただし、目元には微細な罅があった。自然にできたものか、人為的に作られたものかは即断できない。
記乃は罅の周囲を目で追う。
目元から頬へ。
頬から首元へ。
そして台座の奥。
(通り道がある)
見えないほど細い。だが、赤い筋は偶然ではなく、決まった道を通っている。
記乃は台座の裏へ回った。
仏像は壁から少し離して置かれている。裏側には、古い補修跡があった。そこに、小さな隙間。指は入らない。だが、細い紙片なら入る。
記乃は紙片の端を細く折り、隙間に近づけた。赤い色が、わずかに移った。染料だ。少なくとも、血液そのものではない可能性が高い。
記乃は紙片を畳み、手巾に包む。
──仏像背面、補修跡あり。
──補修部に細隙。
──紙片接触により赤色付着。
──内部または補修部に染料存在の可能性。
鳳条はその様子を、面白がるように見ていた。一見、無関心そうに見える。だが、目だけは細かく動いている。
記乃がどこを見るか。なにを書き、何を書かないか。それを観察している。
(見物する側の目だ)
気分はよくない。だが、邪魔はしていない。ならば、放っておけばいい。
記乃は仏像の台座周辺を確認した。畳の一部が、やや湿っている。雨漏りではない。天井に染みがないから、そう判断できる。
恐らく、湿気が溜まりやすい位置なのだろう。仏堂の窓は古く、隙間風が入る。雨の夜は湿度が上がり、室内の水分が木材や布に吸われる。もし、仏像の内部に吸湿材があり、そこに赤い染料が含まれていれば──
湿度の上昇により水分を吸い、染料が溶け、細い罅を伝って表面へ滲み出る。
毛細管現象。
液体は細い隙間を通り、上がり、広がり、やがて重力に従って下へ落ちる。
上から下に流れるものには、必ず理由がある。
理由が、ここにある。
「なんかわかったんだ」
鳳条が言った。
「まだ仮説です」
「聞かせて」
記乃は仏像から少し離れ、紙片を整理した。
「血の涙の正体は、血液ではなく、染料を含んだ液体である可能性が高いです」
「根拠は」
「採取液に血臭がなく、粘性も低い。加えて、仏像背面の補修跡に細い隙間があり、そこに紙片を接触させると赤色が付着しました」
「ほかには」
「発生条件です。目撃は朝が多い。今夜も雨が強まり、室内湿度が高い状態で滲出しました。いまは五月中旬で、梅雨の時期。湿度の変化が関与している可能性があります」
「仕組みは?」
「仏像内部、または補修部に、吸湿材と赤色染料が仕込まれている可能性があります。湿度が上がると吸湿材が水分を含み、染料が溶ける。その液体が、目元の罅や細い通り道を毛細管現象で移動し、表面に滲み出る」
記乃は仏像の目元を示した。
「液滴が一定量に達すると、重力で頬を流れます。見る者には、それが血の涙に見える」
鳳条は煙管を指で回した。
「つまり、仏が泣いたんじゃなくて、湿気に押された染料が逃げ道から出てきた、と?」
「おおむね、そうです」
「夢がないね」
「人が騒いで仕事が止まるより、ましです」
「結局、そこに帰るんだ、話」
「調査依頼の発端ですので」
鳳条は肩を揺らした。
「で、誰が仕込んだと思う」
「現時点では不明です」
「不明、ね」
「仏像の補修時期、管理者、出入りした者、染料や吸湿材の入手経路を確認する必要があります。自然発生の可能性も完全には排除できません」
「自然に吸湿材と染料が仕込まれる?」
「可能性は低いですが、古い補修材に赤色顔料が含まれていた場合、湿気で流出することは考えられます」
「本当に断定しないねえ」
「断定するのは、すべて確認し終えた後です」
記乃は万年筆を取った。
──仮説、吸湿材+赤色染料。
──湿度上昇時、水分吸収。
──染料溶出。
──細隙および罅を通じて目元へ移動。
──毛細管現象の関与。
──一定量到達後、重力により頬面を流下。
──要確認、補修履歴、管理者、出入り記録、染料・吸湿材入手経路。
鳳条はその縦に並ぶ文字を見て、少しだけ口角を上げた。
「きみの字は、事実を逃がさない字だね」
記乃の手が止まる。
どこかで似たようなことを、言われたわけではない。いや、言われてはいない。ただ、誰かがそう思っていたことを、彼女は知らない。
「字にそのような機能はありません」
「あるよ。少なくとも、アタシにはそう見える」
「主観、ですよね」
「主観だね」
鳳条はあっさり認めた。
「でも、主観にも使い道はある」
「記録には向きません」
「軍略には要る」
その言葉は、雨音の中で妙にはっきり響いた。
記乃は鳳条を見る。
派手で、怠そうで、胡散臭い。
だが、この女は軍部の高官だ。
人の動き、場の空気、制度の隙間。
そういったものを、高度に読む人間なのだろう。
「記乃」
急に名を呼ばれ、記乃は眉を寄せた。
「呼び捨てですか」
「嫌かい」
「距離が近いです」
「あの、やたらと顔がいいだけの男にも、同じようなことを言った?」
「なぜご存じで」
「噂だよ」
「本当に迷惑です」
鳳条は笑った。
「きちは、自分を凡人だと言ったね」
「はい」
「でも、凡人は、目の前の出来事をそれほど細かく分けない。見たいものを見るし、信じたいものを信じる。自分の都合で、点を線に書き換えてしまう」
「それは、ただの雑な人間です」
「ずいぶん、辛辣だ」
「事実ですので」
「そういうところだよ」
鳳条は煙を吐いた。
煙は、濡れた空気の中でゆっくり解ける。
「官僚というのは、綺麗な理想を語る人間だけがなるものじゃない。むしろ、泥水の中から、使える事実だけを拾える人間の方が向いている」
「私は後宮付きの下女です」
「表向きはね」
「実質的な肩書きも、記録官補佐にすぎません」
「ああ。いまはね」
その言い方は、化野と似ていた。
だが、響きは違う。
化野の「いまはね」は、面白がる言葉だった。
鳳条の「いまはね」は、事実を置く言葉だった。
「鳳条様」
「様はいらない」
「無理です」
「面倒だなあ」
「あなたの言うことは、例外側の理屈です」
記乃は静かに言った。
「制度を歪めさせた人間が、制度に弾かれる側の人間へ、目指せと言う。それは、とても無責任に聞こえます」
鳳条は一瞬、黙った。
それから、嬉しそうに笑った。
「そう返すか。いいじゃん」
「いい、と言いつつも、どうも、馬鹿にされているように聞こえます」
「褒めているんだよ」
「そうですか」
「うん。無責任なのは事実だ。でも、アタシは責任を取るために言っているわけじゃない」
「では、何のために」
「……面白そうだから?」
記乃は、深く息を吐いた。
(この人も、結局それか)
面白い。
また、その評価だ。
久世も、鳳条も、化野も。
どうして高い場所にいる人間ほど、人を面白がるのか。記乃は理解できない。理解したいとも、あまり思わない。
鳳条は、記乃の表情を見て、ますます愉快そうにした。
「ただし」
声の温度が、少しだけ変わった。
「面白くって使えるものを、ただ潰してしまうほど、アタシは、暇しちゃあいないんだ」
記乃は黙った。
「きみが本気で目指すなら、道くらいは教えてやる」
「……なぜ」
「湿気で泣く仏像より、科学で仏を泣き止ませる娘の方が面白いから」
「不謹慎です」
「そうだね」
鳳条はまた簡単に認めた。認めたうえで、やはり改める様子はなかった。
夜はさらに深くなる。仏像はもう泣かなかった。記乃は追加で観察を行い、目元、背面、台座、周辺の湿気を記録した。
鳳条は途中から黙っていた。退屈そうに煙管をくわえ、雨音を聞き、時折、記乃の手元を見る。無関心に見えて、観察はしている。そういう人間なのだろう。
やがて、仏堂の外が少しだけ白み始めた。
雨は細くなっていた。夜と朝の境目は、濡れた紙を透かすように薄い。
「梅雨っていうのは」
鳳条が立ち上がりながら言った。
「どうも気が滅入る時期だけれど……きみのような面白いのが見られて、よかったよ。今晩は、楽しかった」
実に、胡散臭い笑みだった。
だが、満足そうでもあった。
「私は調査をしていただけです」
「だから楽しかったんだよ」
鳳条は煙管を懐にしまい、長い髪を払った。
「じゃあね、記乃。報告、頑張りな」
「鳳条様」
「様はいらない」
「……鳳条さん」
「まあ、今はそれでいいか」
鳳条は怠そうに手を振り、仏堂を出ていった。雨上がりの薄明かりの中へ、青い着物の背が溶けていく。記乃はその姿を見送った。
全体的に胡散臭い。それは間違いない。だが、軍部の高級官僚に女性がいるという話を知っている者は、極めて少ない。
さらに、その人物の言葉を、自分のことのように語った。
そして、この後宮へ夜中に平然と入り込める。
(本人である可能性は、高い)
記乃は紙片へ書いた。
──鳳条玲。
──軍部高官を自称。
──女性官僚の例外について、自身の話と発言。
──後宮夜間出入り可能。
──身分確認、要。
──言動、胡散臭い。
少し迷って、最後に追記する。
──ただし、観察眼あり。
記乃は万年筆を止めた。
(最近、胡散臭い女の知り合いが増えている気がする)
それは職務上の記録には残さないことにした。
翌朝。真壁の執務室には、湿った紙の匂いが漂っていた。雨は上がっているが、空気はまだ重い。記乃は紙片を整理し、採取した手巾と赤色の付着した紙片を机上に置いた。
「報告します」
「血の涙か」
「血液ではない可能性が高いです」
「根拠」
「粘性が低く、血臭がありません。右目および左目からの滲出を確認しましたが、どちらも湿度上昇時に発生しています。また、仏像背面の補修跡に細隙があり、紙片接触により赤色が付着しました」
「仕組みは」
「仏像内部、または補修部に吸湿材と赤色染料が存在する可能性があります。湿度上昇により吸湿材が水分を含み、染料が溶け、毛細管現象により目元付近へ移動。一定量に達した後、重力で頬を流下したものと考えます」
真壁は目を細めた。
「細工か」
「人為的細工の可能性はあります。ただし、古い補修材に赤色顔料が含まれていた可能性も排除できません。補修履歴、管理者、出入り記録、染料および吸湿材の入手経路の確認が必要です」
「そこまでやるか」
「必要であれば」
「いや」
真壁は短く言った。
「今回はそこまででいい」
「よろしいのですか」
「まあ、そんなことだろうと思ったが」
「調査など、やり過ぎだったのでは?」
「噂の種を消火しなければ、下女どもが仕事をしないからな」
「それは、そうですが」
「血ではない。祟りでもない。湿気と染料だ。そう報告すれば十分だ」
「承知しました」
「報告書は明日まで」
「はい」
「仏堂は一時的に封鎖。管理役には俺から伝える」
「分かりました」
労いの言葉はなかった。いつも通りだ。だが、記乃は嫌ではなかった。余計な慰めも、過剰な称賛もない。必要な仕事をして、必要な報告をし、必要な指示が返ってくる。
それだけで、息がしやすい。
(仕事を達成できた)
胸の奥に、小さな満足が残る。
甘くはない。けれど、確かにそこにある。
記乃は一礼し、執務室を出た。
廊下に出ると、雨上がりの光が床に伸びていた。昨日よりも空気が明るい。湿気は残っているが、どこか洗われたような匂いがする。
(報告書。仏堂の補修履歴。管理役への確認は真壁さんが止めたから不要。相良さんへの手巾分析の相談は……)
考えながら歩いていると、向かいから人影がやってきた。
嫌になるほど綺麗な顔。
絹糸のような黒髪。
そして、隣に控える三浦伊織。
久世だった。
(またか)
記乃は足を止め、頭を下げる。
「久世様」
「やっと会えたな」
(なんで、やっと?)
記乃は顔を上げた。
「何か御用でしょうか」
「これを見せたかった」
久世は、どこか得意げに小さな木箱を取り出す。ずいぶん、上等な桐箱だ。そして、箱の蓋を軽い手つきで開けた。
中にあったのは、小さな宝石だった。
磨かれた粒。
色は、青紫。
青にも見え、紫にも見え、角度によっては灰色を含んだようにも見える。
雨上がりの空を、小さく固めたような石だった。
「これは?」
「灰簾石だ」
「かいれんせき」
「異国では、タンザナイト、と呼ぶらしい」
「それが、何か」
久世は、当然のように言った。
「以前見たことがあって、思い出したんだ。この灰簾石という石の色が、お前の瞳の色にそっくりだと思ってな。取り寄せた」
記乃は黙った。
石を見る。
久世を見る。
もう一度、石を見る。
(これ、いくらするんだ……?)
まず、そう考えた。
次に、自分の瞳とこんな大層な宝石を一緒くたにされては困る、と思った。
そして最後に、なぜこの人はそれを取り寄せたのか、という疑問が来た。
順番としては、かなり現実的だった。
「恐れ入ります」
記乃は無難に言った。
「それでは、失礼いたします」
「待て待て待て」
久世が慌てた声を出した。
隣の三浦が、静かに視線を落とす。どうやら予想していた反応らしい。
「反応が薄い」
「どのような反応をご所望でしたか」
「もう少し、喜ぶとか」
「なぜですか」
「綺麗だろう」
「綺麗ですね」
「なら」
「石が綺麗であることと、私が受け取ることは別です」
久世は目を瞬いた。
「受け取れ」
「遠慮させていただきます」
「なぜ」
「ずいぶん高価そうですので」
「気にするな」
「気にします」
「私がやると言っている」
「受け取れません」
三浦が小さく咳払いをした。
「久世様」
「なんだ」
「高価なものの贈与には、税がかかります。また、相手の了承が必要です」
「伊織まで」
「事実です」
記乃は、三浦に少しだけ同情した。主を止める仕事は大変そうだ。
久世は石を手にしたまま、記乃を見る。
「お前の瞳によく似ているのに」
「私の瞳は、すでに私の目についています。改めて石を持つ必要はありません」
一拍。
三浦が肩を震わせた。
久世は、しばらく真顔だった。それから、なぜか笑った。
「お前は本当に面白いな」
(また、それか)
記乃は無難に頭を下げた。
「用が済んだのであれば、失礼します。報告書がありますので」
「待て。これを持っていけ」
「遠慮させていただきます」
「本当に?」
「はい」
「少しも要らないと?」
「はい」
「……そうか」
久世の声が、目に見えて沈んだ。表情まで、しゅんとする。推定高位の化け物のように美しい男が、廊下の真ん中で宝石を手に落ち込んでいる。
状況として、あまりにも扱いに困る。
三浦が静かに久世の背に手を添えた。
「久世様、参りましょう」
「伊織。私は、なにか間違えたか……?」
「雑でした」
「……そうか」
「はい」
「次は」
「まず贈る理由をご説明ください」
「説明した」
「足りません」
「そうか……」
記乃は聞こえないふりをした。
後宮で生きる上で有用な技術は、官付でも役に立つ。
「失礼いたします」
今度こそ頭を下げ、足早にその場を離れた。
(なんなんだ、あの人は)
そう思ったが、これについて記録には残さない。残したところで、分類に困る。
数日後。記乃が官付庁舎の廊下を歩いていると、向こうからまた久世が現れた。当然、傍らには三浦もいる。
そして、久世の首元には、先日見せられた灰簾石があった。
小さな粒は銀の首輪──
否、首飾りに仕立てられ、白い肌の上で青紫に光っている。
記乃は足を止めた。
「……久世様」
「どうだ」
「何がでしょうか」
「この前の石だ」
「見れば分かります」
「受け取らないなら、私が身につけることにした。せっかく取り寄せたのに、勿体ないだろ?」
「そうですか」
記乃は久世を見た。灰簾石は確かに美しい。久世の白い肌にも、黒髪にもよく映えている。
だが、問題はそこではない。
(どういうつもりなんだ)
そう思った。
(なんなんだ、この人は)
偉い方なのだろう。身分も高いのだろう。けれど、関係ない。
記乃は、盛大にため息をついた。久世が目を丸くする。三浦が、そっと視線を逸らした。
「なぜ、ため息をつく」
「いえ。少し、理解が追いつかなかっただけです」
「似合わないか」
「いえ、とても似合っています」
「なら、なぜ」
「似合うことと、理解できることは別です」
久世は、また笑った。
「やはり、お前は面白いやつだなあ」
「恐れ入ります」
記乃は表情を動かさずに答えた。
外では、梅雨の雲がまだ空を覆っている。
仏が流した血の涙は、湿度と染料によるものだった。だが、人が抱く興味というものは、湿気よりも厄介だ。一度まとわりつけば、なかなか乾かない。
記乃はそう思いながら、紙片の束を抱え直した。
報告書は、まだ残っている。
そして幸いなことに、仕事は人の興味よりも、ずっと扱いやすかった。




