表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
記録官の断章 〜解体される怪異〜  作者: 早河縁
第一章 怪異解体篇
6/43

第三話 泣く仏像《後編》

 赤というのは、人の目を奪う色だ。

 花の赤。

 火の赤。

 傷口の赤。

 それが頬を伝って流れれば、人はそこに痛みを見ることだろう。


 だが、色が意味を持つのは、人間がそれを意味として受け取るからだ。赤いものが、必ず血であるとは限らない。ましてや、仏が泣いたと決めるには、まだ材料が足りなかった。


(次を待つ。必ず、次もある)


 記乃は仏像を見上げたまま、膝の上の紙片に指を添えていた。

 外では雨が降り続いている。仏堂の空気は、夜が更けるほどに重くなっていった。木の柱は湿り、畳はかすかに冷え、灯明の火はときおり細く揺れる。


 鳳条玲は、隣で煙管を弄んでいた。煙は白く細く立ちのぼり、湿気に絡め取られるようにして崩れていく。


「それで」


 鳳条が怠そうに口を開いた。


「きみは、何を待っているんだい」

「再現です」

「再現」

「一度だけなら偶然の可能性があります。ですが、同条件下で再び発生すれば、仮説の精度が上がります」

「きみは本当に、仏の涙にも容赦がないねえ」

「仏の涙かどうか、まだ確認できていませんので」

「祟りかもしれないよ」

「祟りなら、梅雨の高い湿度に合わせて流れる必要がありませんので」


 鳳条は、ふ、と笑った。


「ひどいことを言う」

「現象に対してですか」

「信仰に対してだよ」

「信仰と現象の説明は別です。それと、そもそも私は仏門ではありません」


 記乃は視線を仏像に置いたまま答えた。


「さらに付け加えるなら、拝むことを否定しているのではありません。赤い液体が目元から流れる理由を確認しているだけです」

「ふうん」

「混ぜると、判断を誤ります」

「それ、口癖かい」

「事実です」


 鳳条は喉の奥で笑った。その声は、仏堂の梁に触れて、雨音の中へ溶けた。


 記乃は仏像の表面を改めて見た。右目の下──先ほど液体が流れた部分には、薄い筋が残っている。乾く前の赤は鮮やかだったが、空気に触れると赤茶けていく。血のように見えなくもない。むしろ、見る者が血だと思い込めば、それ以外には見えなくなるだろう。


(目元に細い(ひび)。頬の筋は、毎回ほぼ同じ位置)


 記乃は紙片に書く。


 ──右目下、細い罅あり。

 ──液体の流下位置、既存乾燥痕と一致。

 ──頬面に微細な溝、または染料の通り道あり。

 ──要、明朝の明光下で再確認。


 鳳条が横から覗く。


「よく書くねえ」

「書かなければ、記憶が勝手に都合よく変わります」

「記憶に信用がない?」

「人間に信用がありません」

「辛辣だ」

「自分も含めてです」


 鳳条は少しだけ目を細めた。

 翡翠色の瞳が、灯明の明かりを受けて鈍く光る。


「そういうところ、官僚向きだと思うけどね」

「その話は終わりました」

「きみが終わらせただけだ」

「仕事中です」

「便利な言葉だ」


 記乃は答えなかった。こういった言い回しが便利なのは、事実だった。

 職務中。調査中。報告前。

 その言葉を盾にすれば、余計な話の大半は脇へ置ける。だから使っている。便利なものを使うことに、罪悪感はない。


 しばらく、二人は黙って仏像を見ていた。雨音が強くなる。湿気がさらに濃くなってゆく。

 灯明の火が、ひとつ、芯の奥で小さく爆ぜた。

 そのときだった。


「左」


 鳳条が短く言った。

 記乃はすぐに視線を動かした。


 仏像の左目の下に、赤い点が浮かんでいた。ごく小さい、針で突いたような一点。だが、それはゆっくりと丸くなった。膨らみ、重さを持ち、やがて頬を伝って落ちる。

 今度は、記乃も最初から最後まで見た。涙ではない。内側から押し出された液体だ。表面を濡らしながら、既存の筋に沿って流れていく。


 赤は灯明の色を抱き込み、まるで仏像が内側から傷ついているように見えた。


(よくできている)


 そう思った。

 不謹慎ではある。だが、細工としては悪くない。見る者が恐れるように作られている。

 記乃はすぐに書いた。


 ──時刻、夜半後。

 ──左目下より赤色液体滲出。

 ──右目と同様、液滴形成後に流下。

 ──雨勢、やや増加。

 ──室内湿気、増加体感あり。

 ──再現性あり。


 鳳条が仏像を見上げたまま言う。


「さて。これで仏は二度泣いた」

「仏が泣いたのではありません」

「じゃあ、何が泣いたんだい」

「素材です」


 鳳条は一瞬黙り、それから低く笑った。


「素材が泣く、と?」

「別に、比喩ではありません」

「今のは比喩にした方が美しいと思うけどね」

「美しさより正確性が優先です」

「はあ、徹底している」


 記乃は立ち上がった。


「仏像を確認します」

「触るのかい」

「必要範囲のみ。表面の罅と台座、背面、周辺の湿り気を確認します」

「祟られない?」

「祟りより、証拠を壊す方が問題です」

「君の優先順位は、独特だね」


 記乃は仏像に近づいき、灯明を少し寄せる。影が動き、仏像の頬に刻まれた赤い筋が浮かび上がった。

 表面は木彫りに漆を施したものらしい。古いが、手入れはされている。ただし、目元には微細な罅があった。自然にできたものか、人為的に作られたものかは即断できない。


 記乃は罅の周囲を目で追う。

 目元から頬へ。

 頬から首元へ。

 そして台座の奥。


(通り道がある)


 見えないほど細い。だが、赤い筋は偶然ではなく、決まった道を通っている。

 記乃は台座の裏へ回った。


 仏像は壁から少し離して置かれている。裏側には、古い補修跡があった。そこに、小さな隙間。指は入らない。だが、細い紙片なら入る。

 記乃は紙片の端を細く折り、隙間に近づけた。赤い色が、わずかに移った。染料だ。少なくとも、血液そのものではない可能性が高い。


 記乃は紙片を畳み、手巾(ハンカチ)に包む。


 ──仏像背面、補修跡あり。

 ──補修部に細隙。

 ──紙片接触により赤色付着。

 ──内部または補修部に染料存在の可能性。


 鳳条はその様子を、面白がるように見ていた。一見、無関心そうに見える。だが、目だけは細かく動いている。

 記乃がどこを見るか。なにを書き、何を書かないか。それを観察している。


(見物する側の目だ)


 気分はよくない。だが、邪魔はしていない。ならば、放っておけばいい。


 記乃は仏像の台座周辺を確認した。畳の一部が、やや湿っている。雨漏りではない。天井に染みがないから、そう判断できる。

 恐らく、湿気が溜まりやすい位置なのだろう。仏堂の窓は古く、隙間風が入る。雨の夜は湿度が上がり、室内の水分が木材や布に吸われる。もし、仏像の内部に吸湿材があり、そこに赤い染料が含まれていれば──

 湿度の上昇により水分を吸い、染料が溶け、細い罅を伝って表面へ滲み出る。


 毛細管現象。

 液体は細い隙間を通り、上がり、広がり、やがて重力に従って下へ落ちる。


 上から下に流れるものには、必ず理由がある。

 理由が、ここにある。


「なんかわかったんだ」


 鳳条が言った。


「まだ仮説です」

「聞かせて」


 記乃は仏像から少し離れ、紙片を整理した。


「血の涙の正体は、血液ではなく、染料を含んだ液体である可能性が高いです」

「根拠は」

「採取液に血臭がなく、粘性も低い。加えて、仏像背面の補修跡に細い隙間があり、そこに紙片を接触させると赤色が付着しました」

「ほかには」

「発生条件です。目撃は朝が多い。今夜も雨が強まり、室内湿度が高い状態で滲出(せんしゅつ)しました。いまは五月中旬で、梅雨の時期。湿度の変化が関与している可能性があります」

「仕組みは?」

「仏像内部、または補修部に、吸湿材と赤色染料が仕込まれている可能性があります。湿度が上がると吸湿材が水分を含み、染料が溶ける。その液体が、目元の罅や細い通り道を毛細管現象で移動し、表面に滲み出る」


 記乃は仏像の目元を示した。


「液滴が一定量に達すると、重力で頬を流れます。見る者には、それが血の涙に見える」


 鳳条は煙管を指で回した。


「つまり、仏が泣いたんじゃなくて、湿気に押された染料が逃げ道から出てきた、と?」

「おおむね、そうです」

「夢がないね」

「人が騒いで仕事が止まるより、ましです」

「結局、そこに帰るんだ、話」

「調査依頼の発端ですので」


 鳳条は肩を揺らした。


「で、誰が仕込んだと思う」

「現時点では不明です」

「不明、ね」

「仏像の補修時期、管理者、出入りした者、染料や吸湿材の入手経路を確認する必要があります。自然発生の可能性も完全には排除できません」

「自然に吸湿材と染料が仕込まれる?」

「可能性は低いですが、古い補修材に赤色顔料が含まれていた場合、湿気で流出することは考えられます」

「本当に断定しないねえ」

「断定するのは、すべて確認し終えた後です」


 記乃は万年筆を取った。


 ──仮説、吸湿材+赤色染料。

 ──湿度上昇時、水分吸収。

 ──染料溶出。

 ──細隙および罅を通じて目元へ移動。

 ──毛細管現象の関与。

 ──一定量到達後、重力により頬面を流下。

 ──要確認、補修履歴、管理者、出入り記録、染料・吸湿材入手経路。


 鳳条はその縦に並ぶ文字を見て、少しだけ口角を上げた。


「きみの字は、事実を逃がさない字だね」


 記乃の手が止まる。

 どこかで似たようなことを、言われたわけではない。いや、言われてはいない。ただ、誰かがそう思っていたことを、彼女は知らない。


「字にそのような機能はありません」

「あるよ。少なくとも、アタシにはそう見える」

「主観、ですよね」

「主観だね」


 鳳条はあっさり認めた。


「でも、主観にも使い道はある」

「記録には向きません」

「軍略には要る」


 その言葉は、雨音の中で妙にはっきり響いた。

 記乃は鳳条を見る。


 派手で、怠そうで、胡散臭い。

 だが、この女は軍部の高官だ。

 人の動き、場の空気、制度の隙間。

 そういったものを、高度に読む人間なのだろう。


「記乃」


 急に名を呼ばれ、記乃は眉を寄せた。


「呼び捨てですか」

「嫌かい」

「距離が近いです」

「あの、やたらと顔がいいだけの男にも、同じようなことを言った?」

「なぜご存じで」

「噂だよ」

「本当に迷惑です」


 鳳条は笑った。


「きちは、自分を凡人だと言ったね」

「はい」

「でも、凡人は、目の前の出来事をそれほど細かく分けない。見たいものを見るし、信じたいものを信じる。自分の都合で、点を線に書き換えてしまう」

「それは、ただの雑な人間です」

「ずいぶん、辛辣だ」

「事実ですので」

「そういうところだよ」


 鳳条は煙を吐いた。

 煙は、濡れた空気の中でゆっくり解ける。


「官僚というのは、綺麗な理想を語る人間だけがなるものじゃない。むしろ、泥水の中から、使える事実だけを拾える人間の方が向いている」

「私は後宮付きの下女です」

「表向きはね」

「実質的な肩書きも、記録官補佐にすぎません」

「ああ。いまはね」


 その言い方は、化野と似ていた。

 だが、響きは違う。

 化野の「いまはね」は、面白がる言葉だった。

 鳳条の「いまはね」は、事実を置く言葉だった。


「鳳条様」

「様はいらない」

「無理です」

「面倒だなあ」

「あなたの言うことは、例外側の理屈です」


 記乃は静かに言った。


「制度を歪めさせた人間が、制度に弾かれる側の人間へ、目指せと言う。それは、とても無責任に聞こえます」


 鳳条は一瞬、黙った。

 それから、嬉しそうに笑った。


「そう返すか。いいじゃん」

「いい、と言いつつも、どうも、馬鹿にされているように聞こえます」

「褒めているんだよ」

「そうですか」

「うん。無責任なのは事実だ。でも、アタシは責任を取るために言っているわけじゃない」

「では、何のために」

「……面白そうだから?」


 記乃は、深く息を吐いた。


(この人も、結局それか)


 面白い。

 また、その評価だ。

 久世も、鳳条も、化野も。

 どうして高い場所にいる人間ほど、人を面白がるのか。記乃は理解できない。理解したいとも、あまり思わない。

 鳳条は、記乃の表情を見て、ますます愉快そうにした。


「ただし」


 声の温度が、少しだけ変わった。


「面白くって使えるものを、ただ潰してしまうほど、アタシは、暇しちゃあいないんだ」


 記乃は黙った。


「きみが本気で目指すなら、道くらいは教えてやる」

「……なぜ」

「湿気で泣く仏像より、科学で仏を泣き止ませる娘の方が面白いから」

「不謹慎です」

「そうだね」


 鳳条はまた簡単に認めた。認めたうえで、やはり改める様子はなかった。


 夜はさらに深くなる。仏像はもう泣かなかった。記乃は追加で観察を行い、目元、背面、台座、周辺の湿気を記録した。

 鳳条は途中から黙っていた。退屈そうに煙管をくわえ、雨音を聞き、時折、記乃の手元を見る。無関心に見えて、観察はしている。そういう人間なのだろう。


 やがて、仏堂の外が少しだけ白み始めた。

 雨は細くなっていた。夜と朝の境目は、濡れた紙を透かすように薄い。


「梅雨っていうのは」


 鳳条が立ち上がりながら言った。


「どうも気が滅入る時期だけれど……きみのような面白いのが見られて、よかったよ。今晩は、楽しかった」


 実に、胡散臭い笑みだった。

 だが、満足そうでもあった。


「私は調査をしていただけです」

「だから楽しかったんだよ」


 鳳条は煙管を懐にしまい、長い髪を払った。


「じゃあね、記乃。報告、頑張りな」

「鳳条様」

「様はいらない」

「……鳳条さん」

「まあ、今はそれでいいか」


 鳳条は怠そうに手を振り、仏堂を出ていった。雨上がりの薄明かりの中へ、青い着物の背が溶けていく。記乃はその姿を見送った。


 全体的に胡散臭い。それは間違いない。だが、軍部の高級官僚に女性がいるという話を知っている者は、極めて少ない。

 さらに、その人物の言葉を、自分のことのように語った。

 そして、この後宮へ夜中に平然と入り込める。


(本人である可能性は、高い)


 記乃は紙片へ書いた。


 ──鳳条玲。

 ──軍部高官を自称。

 ──女性官僚の例外について、自身の話と発言。

 ──後宮夜間出入り可能。

 ──身分確認、要。

 ──言動、胡散臭い。


 少し迷って、最後に追記する。


 ──ただし、観察眼あり。


 記乃は万年筆を止めた。


(最近、胡散臭い女の知り合いが増えている気がする)


 それは職務上の記録には残さないことにした。


 翌朝。真壁の執務室には、湿った紙の匂いが漂っていた。雨は上がっているが、空気はまだ重い。記乃は紙片(メモ)を整理し、採取した手巾と赤色の付着した紙片を机上に置いた。


「報告します」

「血の涙か」

「血液ではない可能性が高いです」

「根拠」

「粘性が低く、血臭がありません。右目および左目からの滲出を確認しましたが、どちらも湿度上昇時に発生しています。また、仏像背面の補修跡に細隙があり、紙片接触により赤色が付着しました」

「仕組みは」

「仏像内部、または補修部に吸湿材と赤色染料が存在する可能性があります。湿度上昇により吸湿材が水分を含み、染料が溶け、毛細管現象により目元付近へ移動。一定量に達した後、重力で頬を流下したものと考えます」


 真壁は目を細めた。


「細工か」

「人為的細工の可能性はあります。ただし、古い補修材に赤色顔料が含まれていた可能性も排除できません。補修履歴、管理者、出入り記録、染料および吸湿材の入手経路の確認が必要です」

「そこまでやるか」

「必要であれば」

「いや」


 真壁は短く言った。


「今回はそこまででいい」

「よろしいのですか」

「まあ、そんなことだろうと思ったが」

「調査など、やり過ぎだったのでは?」

「噂の種を消火しなければ、下女どもが仕事をしないからな」

「それは、そうですが」

「血ではない。祟りでもない。湿気と染料だ。そう報告すれば十分だ」

「承知しました」

「報告書は明日まで」

「はい」

「仏堂は一時的に封鎖。管理役には俺から伝える」

「分かりました」


 労いの言葉はなかった。いつも通りだ。だが、記乃は嫌ではなかった。余計な慰めも、過剰な称賛もない。必要な仕事をして、必要な報告をし、必要な指示が返ってくる。

 それだけで、息がしやすい。


(仕事を達成できた)


 胸の奥に、小さな満足が残る。

 甘くはない。けれど、確かにそこにある。


 記乃は一礼し、執務室を出た。

 廊下に出ると、雨上がりの光が床に伸びていた。昨日よりも空気が明るい。湿気は残っているが、どこか洗われたような匂いがする。


(報告書。仏堂の補修履歴。管理役への確認は真壁さんが止めたから不要。相良さんへの手巾分析の相談は……)


 考えながら歩いていると、向かいから人影がやってきた。


 嫌になるほど綺麗な顔。

 絹糸のような黒髪。

 そして、隣に控える三浦伊織。


 久世だった。


(またか)


 記乃は足を止め、頭を下げる。


「久世様」

「やっと会えたな」


(なんで、やっと?)


 記乃は顔を上げた。


「何か御用でしょうか」

「これを見せたかった」


 久世は、どこか得意げに小さな木箱を取り出す。ずいぶん、上等な桐箱だ。そして、箱の蓋を軽い手つきで開けた。


 中にあったのは、小さな宝石だった。


 磨かれた粒。

 色は、青紫。

 青にも見え、紫にも見え、角度によっては灰色を含んだようにも見える。

 雨上がりの空を、小さく固めたような石だった。


「これは?」

「灰簾石だ」

「かいれんせき」

「異国では、タンザナイト、と呼ぶらしい」

「それが、何か」


 久世は、当然のように言った。


「以前見たことがあって、思い出したんだ。この灰簾石(タンザナイト)という石の色が、お前の瞳の色にそっくりだと思ってな。取り寄せた」


 記乃は黙った。


 石を見る。

 久世を見る。

 もう一度、石を見る。


(これ、いくらするんだ……?)


 まず、そう考えた。

 次に、自分の瞳とこんな大層な宝石を一緒くたにされては困る、と思った。

 そして最後に、なぜこの人はそれを取り寄せたのか、という疑問が来た。


 順番としては、かなり現実的だった。


「恐れ入ります」


 記乃は無難に言った。


「それでは、失礼いたします」

「待て待て待て」


 久世が慌てた声を出した。

 隣の三浦が、静かに視線を落とす。どうやら予想していた反応らしい。


「反応が薄い」

「どのような反応をご所望でしたか」

「もう少し、喜ぶとか」

「なぜですか」

「綺麗だろう」

「綺麗ですね」

「なら」

「石が綺麗であることと、私が受け取ることは別です」


 久世は目を瞬いた。


「受け取れ」

「遠慮させていただきます」

「なぜ」

「ずいぶん高価そうですので」

「気にするな」

「気にします」

「私がやると言っている」

「受け取れません」


 三浦が小さく咳払いをした。


「久世様」

「なんだ」

「高価なものの贈与には、税がかかります。また、相手の了承が必要です」

「伊織まで」

「事実です」


 記乃は、三浦に少しだけ同情した。主を止める仕事は大変そうだ。

 久世は石を手にしたまま、記乃を見る。


「お前の瞳によく似ているのに」

「私の瞳は、すでに私の目についています。改めて石を持つ必要はありません」


 一拍。

 三浦が肩を震わせた。

 久世は、しばらく真顔だった。それから、なぜか笑った。


「お前は本当に面白いな」


(また、それか)


 記乃は無難に頭を下げた。


「用が済んだのであれば、失礼します。報告書がありますので」

「待て。これを持っていけ」

「遠慮させていただきます」

「本当に?」

「はい」

「少しも要らないと?」

「はい」

「……そうか」


 久世の声が、目に見えて沈んだ。表情まで、しゅんとする。推定高位の化け物のように美しい男が、廊下の真ん中で宝石を手に落ち込んでいる。

 状況として、あまりにも扱いに困る。

 三浦が静かに久世の背に手を添えた。


「久世様、参りましょう」

「伊織。私は、なにか間違えたか……?」

「雑でした」

「……そうか」

「はい」

「次は」

「まず贈る理由をご説明ください」

「説明した」

「足りません」

「そうか……」


 記乃は聞こえないふりをした。

 後宮で生きる上で有用な技術は、官付でも役に立つ。


「失礼いたします」


 今度こそ頭を下げ、足早にその場を離れた。


(なんなんだ、あの人は)


 そう思ったが、これについて記録には残さない。残したところで、分類に困る。


 数日後。記乃が官付庁舎の廊下を歩いていると、向こうからまた久世が現れた。当然、傍らには三浦もいる。

 そして、久世の首元には、先日見せられた灰簾石(タンザナイト)があった。


 小さな粒は銀の首輪──

 否、首飾り(ネックレス)に仕立てられ、白い肌の上で青紫に光っている。


 記乃は足を止めた。


「……久世様」

「どうだ」

「何がでしょうか」

「この前の石だ」

「見れば分かります」

「受け取らないなら、私が身につけることにした。せっかく取り寄せたのに、勿体ないだろ?」

「そうですか」


 記乃は久世を見た。灰簾石は確かに美しい。久世の白い肌にも、黒髪にもよく映えている。

 だが、問題はそこではない。


(どういうつもりなんだ)


 そう思った。


(なんなんだ、この人は)


 偉い方なのだろう。身分も高いのだろう。けれど、関係ない。

 記乃は、盛大にため息をついた。久世が目を丸くする。三浦が、そっと視線を逸らした。


「なぜ、ため息をつく」

「いえ。少し、理解が追いつかなかっただけです」

「似合わないか」

「いえ、とても似合っています」

「なら、なぜ」

「似合うことと、理解できることは別です」


 久世は、また笑った。


「やはり、お前は面白いやつだなあ」

「恐れ入ります」


 記乃は表情を動かさずに答えた。


 外では、梅雨の雲がまだ空を覆っている。

 仏が流した血の涙は、湿度と染料によるものだった。だが、人が抱く興味というものは、湿気よりも厄介だ。一度まとわりつけば、なかなか乾かない。


 記乃はそう思いながら、紙片の束を抱え直した。

 報告書は、まだ残っている。

 そして幸いなことに、仕事は人の興味よりも、ずっと扱いやすかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ