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記録官の断章 〜解体される怪異〜  作者: 早河縁
第一章 怪異解体篇
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第三話 泣く仏像《前編》

 涙は、悲しみの証とは限らない。


 人は流れるものを見ると、そこに感情を読みたがる。雨に憂いを見て、川に時間を見て、血に罪を見る。

 ましてや、それが仏の顔から流れたとなれば、人はそこに祟りや怒りや啓示を見つけようとする。


 だが、上から下に流れるものには、必ず理由がある。

 重力。湿度。染料。あるいは、誰かがそう見えるように仕込んだ細工。


(仏が泣く、か)


 結城記乃は、真壁記録官長の執務室で、手元の紙片に万年筆を走らせていた。


 ──後宮内仏堂。

 ──仏像より赤色液体流出との噂。

 ──下女間で「血の涙」として流布。

 ──毎朝、拭き取り後も再発との証言。


 机の向こうで、真壁はいつも通り面倒そうな顔をしていた。

 顔だけ見れば、世界中の書類に恨みでもあるようだった。


「仏堂の件だ」

「はい」

「下女どもが騒いで仕事にならん」

「血の涙を流す仏像、という噂ですね」

「ああ」


 真壁は短く答えた。


「拭いても、朝になればまた赤い跡があるらしい。見た者が増えて、面倒なことになっている」

「実物確認は」

「まだだ。仏堂の管理役が、穢れだ祟りだと騒いで近づけたがらん」

「近づかなければ確認できません」

「だから、お前に行かせる」


 命令は短かった。真壁の指示はいつもそうだ。余計な慰労もなければ、丁寧な説明もない。

 必要だから命じる。それだけだった。


「季節は五月中旬。梅雨です」


 記乃は紙片に目を落としたまま言った。


「湿度の上昇により、内部に仕込まれた染料が滲出している可能性があります」

「なら、それで報告するか」

「いいえ」


 記乃は即答した。


「まだ調査していません。仮説は仮説です。断定するには、現物確認と発生時刻、周辺環境、液体の性質、仏像の構造確認が必要です」


 真壁の眉がわずかに動いた。


「分かっているなら行け」

「承知しました」

「夜に見張る必要があるなら、勝手にしろ」

「はい」

「ただし、倒れるな。相良に面倒をかける」

「善処します」

「その返事は信用ならん」


 どこかで聞いたようなやり取りだった。記乃は紙片(メモ)を束ね、一礼する。


「では、今夜、仏堂に入ります」

「報告は明朝でいい」

「承知しました」


 執務室を出ると、廊下には湿った空気が満ちていた。梅雨の湿気は、目に見えない薄布のように肌にまとわりつく。紙はわずかに波打ち、髪は重くなり、衣の襟元には体温がこもる。

 後宮の香も、雨の気配を含むと妙に甘く鈍くなる。


(湿度、か)


 記乃は歩きながら考えた。

 血の涙。

 言葉だけなら、いかにも怪異(オカルト)らしい。だが、仏像の素材、内部構造、染料、吸湿材、細い隙間。

 条件が揃えば、赤い液体が目元から滲むこと自体は不可能ではない。


 毛細管現象。

 細い隙間や管の中を、液体が吸い上げられる現象。

 木材、布、紙、土、漆の(ひび)。仏像にわずかな通り道があり、そこに染料が含まれていれば、湿度の変化で滲み出る可能性がある。


(ただし、可能性に過ぎない)


 記乃は紙片を出し、立ち止まって書いた。


 ──仮説、湿度上昇による染料滲出。

 ──機序候補、毛細管現象。

 ──確認事項、仏像材質、目元の罅、内部空洞、赤色液体成分。

 ──夜間発生の有無、要観察。


 書き終えると、万年筆をしまった。

 調査をすべきは、夜だ。拭っても拭っても、朝には仏が泣いている、という証言から、そう判断した。仏が泣く瞬間を、記録する必要がある。

 噂の火を消すには、火種を見つけるだけでは足りない。水をかけたと、誰にでも分かる形で示す必要がある。


 その夜。

 後宮の仏堂は、雨の匂いに沈んでいた。外では細い雨が降っている。音は小さい。だが、瓦を打つ雨粒が、遠くで無数の指先を動かしているように聞こえる。


 仏堂の中は薄暗かった。灯明の火が、金色の仏具に細く映っている。正面には、問題の仏像が鎮座していた。大きくはない。座した形の仏像で、穏やかな顔をしている。だが、その目元には、拭き取られた跡があった。

 頬を伝うように、薄く赤茶けた筋が残っている。乾いた血の跡のようにも見える。


 そう見ようとすれば、いくらでもそう見える。


(人間の目は、見たいものを見る)


 記乃は仏像の前に座り、紙片の束を膝に置いた。


 ──時刻、夜半前。

 ──天候、雨。

 ──湿度、高い。紙片に波打ちあり。

 ──仏像目元、赤茶色の乾燥痕。

 ──拭き取り済みとの証言あり。


 万年筆の先が、紙を擦る音だけが仏堂に残る。

 今夜は徹夜になる。

 仏像の表面を軽く観察し、灯明(とうみょう)の位置、窓、風の流れ、床の湿り気を確認した。

 仏堂は古い。木の匂い。香の残り香。湿った畳……すべてが雨を含み、柔らかく、沈み込んでいる。


(発生が朝なら、夜間から明け方にかけて滲出(しんしゅつ)する可能性が高い)


 記乃は仏像を見上げた。

 まだ、涙はない。

 そのときだった。背後の戸が、軋む音を立てた。記乃は振り返る。


 そこに、長身の女が立っていた。

 派手な青色の男物の着物を、気怠げに着流している。

 色素の薄い長髪は、湿気を含んでさらに癖を強め、肩から背へとうねるように流れていた。

 肌は白く、瞳は緑。この国では、まず見ない色だった。


 記乃は一瞬、言葉を失った。

 自分の瞳の色も、いつも珍しいと言われる。

 だが、目の前の女は、それ以上だった。


 異邦人のような、という言葉がある。

 しかし、この女は異邦人に見えるというより、この国の枠が最初からうまく当てはまっていないようにも見えた。


(私よりも、異邦人のような人間を初めて見た)


 女は煙管を指に挟み、薄く煙を吐いた。


「おやおや」


 怠そうな声だった。


「噂の真相を確かめに来たら……先客がいたようだ」


 記乃は、最近会った別の長身の女を思い出した。

 派手で、軽くて、不躾で、しかし妙に有能だった女。

 化野(あだしの)(かすか)


(……また、胡散臭い長身の女か。嫌な予感しかしない)


 記乃は膝の上の紙片を押さえた。


「仏堂は現在、調査中です」

「そうかい」


 女は悪びれなかった。


「アタシは鳳条(ほうじょう)(れい)。少し、うん……物見遊山のつもりで、ここに寄っただけだ」

「見物、ですか」

「血の涙を流す仏像なんて、退屈しのぎにはちょうどいい」

「不謹慎では?」

「そうだね」


 鳳条玲と名乗る女は、簡単に認めた。

 認めたうえで、まったく改める様子がなかった。

 彼女は長い癖毛をかき分け、仏堂の中へ視線を投げる。


「相席になるが、構わないかい」


 記乃は少しだけ黙った。

 追い返すべきか。しかし、相手の身分が分からない。それに、この振る舞いで後宮内の仏堂へ夜に入ってこられる時点で、ただの部外者ではない。

 厄介なものほど、最初に正体を名乗らない。


「構いません」


 記乃は短く答えた。


「ただし、仏像や周辺の物には触れないでください。現場保全中です」

「触らないよ」

「煙管の火も、仏像や紙片に近づけないでください」

「細かいねえ」

「火災防止です」

「……きみは、どうにも正しいことばかりを言うね」


 鳳条は低く笑い、記乃の少し横へ腰を下ろした。二人は横並びに座り、仏像を見上げる形になった。


 雨の音が続く。

 仏像は、まだ泣かない。

 沈黙がしばらく流れた。

 それを破ったのは、鳳条だった。


「きみ、結城記乃とやらか」

「なぜご存じで」

「最近、官付と後宮の間で妙な娘が働いていると聞いてね」

「妙」

「下女の格好をしているくせに、医官と連携して人を助け、怪異(オカルト)を記録でほどいた娘」

「事実を確認しただけです」

「そういう返しをするところが、妙なんだよ」


 鳳条は煙を吐いた。

 煙は仏堂の湿気に絡まり、すぐに形を失う。


「きみ、怪異(オカルト)を信じていないのかい」

「科学で説明できないものは信じない主義です」

「説明できないものは、存在しない?」

「いいえ」


 記乃は仏像を見たまま答えた。


「説明できないことと、存在しないことは別です。ただ、説明できないものを安易に怪異と呼ぶのは、楽をしたいだけの思考停止だと考えます」

「なるほど」

「混ぜると判断を誤ります」


 鳳条は、楽しげに目を細めた。


「噂通りだ」

「噂、ですか。それは、どこまで広がっているのですか」

「さて。私の耳に入るくらいには」

「迷惑です」

「だろうねえ」


 返答が軽い。だが、化野の軽さとは違う。

 化野が笑いながら刃を隠しているのだとすれば、鳳条は、刃を隠す気すらないといった雰囲気を醸している。

 ただ、抜く必要がないから鞘に入れている。

 そんな印象だった。


「きみは、どうやら官僚になりたいんだってね」


 唐突に言われ、記乃は動きを止めた。

 雨音が一瞬、遠くなる。


「……いえ。そのような願望は、分不相応だと理解しております」

「わざわざそんな言い方をするということは、事実なんだな」


 鳳条は怠そうなまま、しかしどこか楽しげに言った。

 記乃は仏像から視線を外さない。


「なりたい、という願望と、なれる、という事実は切り離して考えるべきです」

「その理由は、自分が女だからか?」


 問いは、煙よりもまっすぐだった。

 記乃の指が、紙片の端を押さえる。

 その通りだ。そう言えば済む話だった。だが、言葉は少しだけ多くなった。


「女だてらに軍部の官僚になった御仁がいることは、存じています」

「うん」

「ですが、それは天から二物も三物も与えられたような方だからです。才覚があり、結果があり、規則(ルール)を歪めてでも使う価値があると周囲に認めさせた方なのでしょう」


 記乃の声は、静かだった。

 けれど、静かさの下に、薄い熱があった。


「私には、その条件は当てはまりません。私はただの、知識を持つだけの凡人です。凡人の枠から抜け出すことはできない。たまたま、養父にたくさんのことを学ばせてもらえたから、多少の知識があるだけです。望むことは自由でも、世間がそれを認めるかは別です」


 そうして、鳳条は、ふ、と笑った。


「世間、ねえ」

「はい」

「君は、世間に官僚になることを、却下されたのかい」

「されるまでもありません。最初から、選択肢に入っていません」


 口にしてから、記乃は少しだけ息を止めた。言いすぎた。

 これは、仏像の調査に関係がない。


(余計なことを喋った)


 記乃は万年筆を持ち直す。

 だが、鳳条は笑わなかった。ただ、煙管を指先で軽く回した。


「それは、アタシの話だなあ?」


 記乃は、ゆっくりと鳳条を見た。


「……あなたの?」

「うん」

「十年前、若くして軍部の要職に就いた、という」

「そう」

「天才軍師と呼ばれている」

「呼ばれているねえ」

「唯一の例外、と」

「たぶんね」


 返答は、あまりにも軽かった。記乃は言葉を失った。


 目の前の女を見る。

 派手な着物に、遊女のように長い煙管、怠そうな姿勢。色素の薄い髪。緑の瞳。

 後宮の仏堂に、夜中、ふらりと現れた、極めて胡散臭い女──


 その女が、唯一の例外。

 規則(ルール)を歪めてでも使う価値があると、国家に認めさせた人間。


「鳳条さ……」


 記乃は、言いかけて、言い直した。


「鳳条様」

「やめなよ、そんな、仰々しい」


 鳳条は嫌そうに顔をしかめた。


「玲でいいよ」

「それは無理です」

「じゃあ、鳳条でいい」

「それも難しいです」

「面倒だな、きみってやつは」

「こちらの台詞です」


 鳳条は一瞬きょとんとし、それから低く笑った。


「いいねえ。そういうところは好きだよ」

「恐れ入ります」

「褒めているように聞こえなかった?」

「職務中ですので」

「便利な言葉だ」


 雨音が少し強くなった。仏堂の中の湿気が、さらに重くなる。灯明の火がかすかに揺れた。

 鳳条は仏像を見上げたまま言った。


「だからさ、君も目指すといい」

「何をですか」

「官僚」


 記乃は黙った。胸の中で、何かが小さく跳ねる。希望ではない。

 むしろ、反射的な拒絶だった。


「例外として扱われる天才と、同じように言われては困ります」

「私は別に、天才だからなれたわけではないよ」

「ご謙遜を」

「本当だ。使わないと損だと思わせただけだ」

「それを世間では、天才と言うのでは」

「違うね。天才という言葉は、他人が努力や事情を見る手間を省くための(カード)に過ぎない」


 鳳条の声は怠そうだった。

 だが、その言葉だけは妙に鋭かった。


「まあ、君が今すぐ信じる必要はない」

「信じる以前に、調査中です」

「そうだった」


 鳳条は仏像へ視線を戻す。そして、ふと目を細めた。


「ほら、泣いたよ」


 記乃は息を止める。

 仏像の目元。右目の下に、細い赤い筋が生まれていた。

 最初は小さな点だった。それが、ゆっくりと膨らむ。表面張力で丸く留まり、重さに耐えきれなくなった瞬間、頬へと滑った。


 赤い。

 灯明の揺れる光の中で、それは血のように見えた。

 見えた、というだけだ。記乃はすぐに紙片を取った。


 ──時刻、夜半過ぎ。

 ──右目下より赤色液体滲出。

 ──液滴形成後、頬面を流下。

 ──発生時、雨強まる。室内湿気増加。


 記乃は清潔な手巾(ハンカチ)を取り出し、仏像の頬へ慎重に近づけた。


「触るのかい」

「採取します」

「血だったら?」

「成分を確認します」

「祟りかもしれないよ」

「祟りなら、手巾に染みません」


 鳳条が喉の奥で笑った。

 記乃は赤い液体を手巾に染み込ませた。色は赤い。だが、血液特有の粘りは薄い。匂いも違う。


(染料の可能性が高い)


 断定はしない。

 記乃は手巾を畳み、懐にしまった。


 ──赤色液体、手巾に採取。

 ──粘性低。

 ──血臭なし。

 ──染料の可能性。


 仏像は、また沈黙した。けれど、記乃には分かっていた。

 これは、まだ一度目だ。条件が揃えば、もう一度流れる。湿度が上がり、内部の染料がさらに動けば。


(次を待つ)


 記乃は仏像を見上げた。

 外の雨はやまない。仏堂の空気は、濡れた布のように重く垂れこめている。


 鳳条は、隣で退屈そうに煙を吐いていた。


 だが、その翡翠色の瞳は、少しも退屈していないように見えた。

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