第二話 呪われた部屋《後編》
「あの部屋は、本来、九条澄子様がお住まいになる予定だった部屋ですね」
記乃がそう言った瞬間、西原千代の表情から、貼りついていた笑みが剥がれ落ちてゆく。
薄く塗られた白粉の下で、血の気が引いていくのがわかる。怒りではない。恐怖だけでもない。
もっと奥にある、長く押し込めていた感情が、鍵の壊れた箱からこぼれ出そうとしていた。
「……何を、仰りたいのですか」
「事実確認です」
「それは、私に関係のある話でしょうか」
「現時点では不明です」
記乃は静かに答えた。
「ですが、木炭の注文、当該室の工作、そして当該室が九条澄子様の住まいとなる予定だった事実。この三つが同じ線上にある可能性があります」
「可能性、可能性と……」
西原の声が震えた。
「それだけで、私を疑うのですか」
「疑っています」
記乃は即答した。
化野が、横でわずかに眉を上げた。
西原は息を呑む。
「ただし、犯人だと断定しているわけではありません。疑いと断定は別です」
「同じことでしょう!」
「違います」
記乃の声は動かなかった。
「疑いは、確認の入口です。断定は、証拠と証言が揃った後に行うものです。そこを混ぜれば、事実ではなく、人を傷つけます」
西原は唇を噛んだ。
その仕草は、怒りで立っている人間のものに似ていた。だが、指先は震えている。袖の内側を掴む手が、白くなるほど力を入れていた。
(揺れている)
記乃は一歩も近づかない。
追い詰めすぎれば、言葉は閉じる。緩めすぎれば、逃げ道になる。
尋問というものは、糸を張る作業に似ている。強く引けば切れ、弱ければ形を保てない。
「西原さん」
「……何ですか」
「九条澄子様は、あの棟に移る予定だった。ですが、現在は古い棟をお使いです」
「ええ」
「あなたは、その理由をどのように聞いていますか」
西原の目が揺れた。
「それは……上の御判断だと」
「上、とは」
「後宮の采配に決まっているでしょう」
「どなたの采配ですか」
「そんなこと、私ごときが知るはずありません」
答えが早い。
(知らない、ではなく、考えないようにしていた)
記乃は紙片を出さなかった。今は、書くよりも見る場面だ。
「では、あなたはこう考えた。九条澄子様は本来、新しく整えられた棟に住まうはずだった。にもかかわらず、古い棟に追いやられた。つまり、誰かが澄子様を軽んじたのだ、と」
「追いやられたなどと、私は」
「言っていません。今、私が言いました」
西原の顔が歪む。
「ですが、近いことは考えていたのではありませんか」
「……っ」
「澄子様は皇貴妃で、敬うべきお立場の方です。特に、あなたは澄子様に高い忠誠を抱いているようですが……それはまあ、いまはいいです。それで、その尊い方が古い棟に住み、下位の方々が改修済みの棟を使っている。事情を知らなければ、不自然に見えます」
西原の呼吸が乱れた。
化野は黙っている。先ほどまでなら茶化しそうな場面だが、今は一言も挟まない。軽薄そうに見えて、線を踏む場所は心得ているらしい。
(本当に、厄介な種類の有能側だ)
記乃は西原を見た。
「ですが、帳簿には別の記録がありました」
「帳簿……?」
「九条澄子様ご本人が、新棟の使用を辞退されています」
西原の瞳が、はっきりと見開かれた。
「……何を」
「前代天皇の皇貴妃が使用していた旧棟を、そのまま使うと申し出ておられます。改修も不要、と」
「嘘です」
「帳簿上の記録です」
「そんなはずがありません!」
西原の声が上がった。
控えの間の外にいた者たちが、こちらを窺う気配がした。襖の向こうで空気が動く。噂の芽は、こうしてすぐに湿った藁の中へ落ちる。
記乃は声を低くした。
「理由も記録されています。諸費節減。民への還元を優先するため」
西原の表情が止まった。
怒りが、行き場を失う。火が急に水をかけられたように、音もなく沈む。
「……澄子様が」
「はい」
「ご自身で……?」
「帳簿上は、そのように記録されています」
「そんな……」
西原は一歩、後ろへ下がった。 膝が畳に崩れかける。
「私は、知らなかった」
その声は小さかった。
「澄子様は、何も仰らなかった。古い棟でも構わない、とだけ。私は……てっきり……」
言葉が途切れる。
化野が、ほんの少しだけ目を伏せた。
記乃は手提げを畳の上に置き、風呂敷の中から二つの手巾を取り出した。
「換気口に詰められていた紙と布です」
ひとつ。
「香炉から採取した木炭様の破片です」
もうひとつ。
西原は、それを見た瞬間、肩を震わせた。
「……私は」
「はい」
「殺すつもりなんて、なかった」
言葉は、床に落ちた。
重かった。
控えの間の静けさが、一瞬で変わる。先ほどまで張っていた糸が切れ、代わりに沈黙が部屋の隅々へ流れ込んだ。
「殺すつもりは、なかったんです……!」
西原は畳に膝をついた。
整っていた衣が乱れる。髪の端が頬にかかる。 上位の妃に仕える侍女としての形が、崩れていく。
「ただ、あの部屋に近づく者がいなくなればいいと。あの棟が、やはりよくない場所だと広まれば、澄子様があそこを使わずに済んだことが、正しかったのだと……」
「澄子様のため、ですか」
「そうです!」
西原は顔を上げた。
「澄子様は、慎ましく、誠実なお方です。どれほど古い棟であっても、不平ひとつ仰らない。だからこそ、周囲が守らなければならないのです」
「守るために、人を危険に晒した」
記乃の声は、冷たかった。
西原は喉を詰まらせる。
「私は……そこまで危険なことだなんて……」
「換気口を塞いだ部屋で、香炉に木炭を入れた」
「少し気分が悪くなる程度だと」
「もう一度言います」
記乃は、声を低く、重くする。
「今日、人がひとり、死ぬところでした」
西原は何も言えなくなった。
その顔に浮かんだものを、記乃は感情として名前づけなかった。
後悔。恐怖。自己弁護。崇敬。
どれも混じっている。
人間の感情は、帳簿のようには分類できない。 だが、行為は分類できる。
──換気口閉塞。
──香炉への木炭混入。
──結果、意識消失者発生。
──動機、九条澄子妃への忠誠および誤解に基づく工作。
記乃はそこで筆を止めた。
(誤解に基づく、で済む話ではない)
だが、記録には必要な言葉を選ぶ。裁くための文章ではなく、事実を渡すための文章だ。
西原は、ほろほろと静かに涙を落としていた。
「榎本さんとは、関係がありますか」
記乃が問うと、西原は首を横に振った。
「あの人が、あの部屋の噂をしていたのは知っていました。下女たちが怖がっているのも。だから……それを使いました」
「榎本さんに頼んだわけではない」
「頼んでいません。あの方は、いつも勝手に話を広げるから」
「勝手に広げる性質を利用した」
西原は、泣きながら頷いた。
「はい……」
記乃は追記する。
──榎本、工作への直接関与は現時点で不明。
──西原証言、榎本の噂流布を利用。
──依頼関係なしとの供述。
「木炭は、あなたが注文したものですね」
「はい」
「換気口を塞いだのも」
「私です」
「香炉に木炭を入れたのも」
「……はい」
西原の声は、最後にはほとんど吐息のようだった。
化野が、静かに言った。
「主のために呪いを作ったわけだ」
西原は顔を歪めた。
「私は……澄子様のために」
「うん。そうなんだろうね」
化野の声は、珍しく柔らかかった。
だが、甘くはなかった。
「でも、君が作ったのは、澄子妃への忠義じゃない。澄子妃を理由にした、君自身の怒りだよ」
西原は絶句した。
記乃は化野を見た。
軽い人だと思っていた。いや、今でも軽い。だが、軽さの下に、妙に刃がある。
(民俗学者、か)
人の信仰や噂や集団心理を見てきた者の刃。
怪異を笑いながら、人の作る怪異を見逃さない。
記乃は証拠を風呂敷の手提げに戻した。
「西原さん」
「……はい」
「処罰は下ると思います」
西原の肩が震えた。
「ですが、それを判断するのは私ではありません。私は、他者を裁く権利を持っていませんから。確認した事実を記録し、報告するお役目を担っています。追って情報をお待ちください」
突き放す言葉だった。
けれど、記乃にできることは、それ以上でもそれ以下でもない。
ここで慰めれば、記録が濁る。ここで責めれば、職務を越える。氷の上に置いた刃を、勝手に振り回すわけにはいかない。
記乃は頭を下げた。
「失礼します」
化野も軽く手を振る。
「じゃあね、西原さん」
西原は畳に座り込んだまま、顔を上げなかった。
控えの間を出ると、廊下の空気がひやりと頬に触れた。香の匂いは薄い。けれど、衣に染みついたような後宮の気配は、どこまでもついてくる。
「いやあ」
化野が歩きながら言った。
「なかなか面白い顛末だったねえ」
「人が死にかけています」
「うん。だから面白い、とは外で言わない方がいい」
「今も不適切です」
「あはは。君は本当に真面目だ」
「化野さんが不真面目すぎるのでは」
「否定はしないよ」
化野は楽しそうに笑った。
その横顔は、どこか掴みどころがない。夜に咲く花のような女だ。近づけば香るが、何の花なのかは分からない。
「事の顛末がはっきりしたら、記事にするね」
「やめてください」
「名前は伏せるよ」
「そういう問題ではありません」
「でも、怪異譚がどう生まれ、どう利用され、人を殺しかけたのか。これは民俗学的にも新聞的にも、とても価値がある」
「価値と公開可否は別です」
「分けるねえ」
「分けます」
化野はくつくつと笑った。
「では、真壁に怒られない範囲で書くよ」
「怒られる前提なのですね」
「真壁はいつも怒っているような顔をしているからね」
「否定しません」
「そこは同意するんだ」
化野は、廊下の分かれ道で足を止めた。
「私は少し別件を見てくる。報告は君がするんだろう?」
「はい」
「では、またね。記録官補佐殿」
「……正しい肩書きを覚えてくれましたね」
「あっはは! こう呼ばなければ、小煩い小言を言われると学習したからねえ」
化野は手を振り、軽い足取りで去っていった。
派手な衣の裾が曲がり角の向こうに消える。
記乃はその背を見送り、紙片を一枚取り出した。
──化野幽、民俗学者・新聞記者・小説家。
──相良要一、真壁記録官長と旧知。
──現場保持への理解あり。
──言動軽薄。ただし観察眼あり。
──今後、要警戒。
(要警戒)
そこに線を引いてから、記乃は官付庁舎へ向かった。
後宮と官付を繋ぐ門の近くでは、医局の方から人の気配がしていた。倒れた下女はどうなっただろうか。 意識は戻っただろうか。
(あとで相良さんに確認)
記乃は追記した。
──搬送者の容体、要確認。
官付庁舎に入ると、紙と墨の匂いがした。後宮の香とは違う。乾いていて、少し冷たい。
記乃にとっては、こちらの匂いの方が息がしやすい。
真壁記録官長の執務室に入ると、真壁は机に向かっていた。いつも通り、顔には面倒そうな影が落ちている。
「戻ったか」
「はい」
「相良から聞いた。人が倒れたそうだな」
「詳細を報告します」
記乃は一礼し、紙片の束を揃えた。
報告は、順序が重要だ。
現象。救命措置。現場確認。証拠。聞き取り。帳簿。西原の供述。未確認事項。
感情は不要。
推測は推測として示す。
断定できるものだけを断定する。
記乃は声を整えた。
「下位側室棟東廊下にて、下女一名が意識を失い倒れていました。相良さんが対応し、胸骨圧迫後、呼吸が戻りました。現在は医局に搬送されています」
「原因は」
「当該室における一酸化炭素中毒の可能性が高いと考えます」
真壁の眉がわずかに動いた。
「根拠は」
「換気口内に紙と布の詰め物を確認しました。香炉内には、香の灰とは別に木炭様の破片がありました。窓は閉じられており、室内には香気と焦げ臭が混在していました」
記乃は手巾に包んだ証拠を机の上に置く。
「直接触れないよう、手巾で保全しています」
「よし」
短い一言だった。
だが、真壁にしては充分な評価だった。
「実行者は」
「皇貴妃・九条澄子様付き侍女、西原千代が、換気口の閉塞および香炉への木炭混入を認めました」
「動機」
「九条澄子様が本来住む予定だった棟を、更衣様方が使用していることへの不満です。ただし、澄子様本人が新棟使用を辞退し、旧棟使用を申し出ていた事実を西原は知りませんでした」
「噂は」
「女御付き侍女、榎本が流布していた可能性があります。直接関与は不明です。西原は、榎本が広めていた怪異譚を利用したと供述しています」
真壁は黙って聞いていた。机上の紙に、視線だけを落とす。
「榎本は別途確認が必要だな」
「はい。噂の流布目的は未確認です」
「西原は禁衛に引き渡す」
「承知しました」
「部屋は封鎖」
「山村に一時的な見張りを依頼しています。正式な封鎖指示をお願いします」
「出す」
真壁は短く答えた。
報告は、滞りなく終わる。
そのはずだった。
ぱち、ぱち、ぱち。
背後から、拍手の音が聞こえた。
記乃は振り返る。
部屋の奥。衝立の陰に、男が立っていた。
長身だった。嫌になるほど、整った顔をしている。
黒髪は絹糸のように滑らかで、白い肌はきめ細かい。目元は涼しく、口元には薄い笑みが浮かんでいた。
美しい、という言葉はこういう顔のためにあるのだろう。
女性が嫉妬するほどに。
いや──嫉妬よりも、最早、羨望を集めそうだ。
(まあ、偵記兄さんの方が男らしくて格好いいけれど)
記乃は内心で、極めてどうでもいい比較をした。
男は愉快そうに目を細める。
「見事だな」
真壁が、面倒そうに立ち上がった。
「久世様」
(久世〝様〟?)
記乃は即座に頭を下げた。
真壁が様付けする。それだけで、相当に身分が高い相手だと分かる。
「頭を上げろ」
「はい」
記乃は顔を上げた。
近くで見ても、やはり綺麗な顔だった。造形に無駄がない。まるで、白い紙の上に最初から正しい線だけで描かれたような顔だ。
久世は記乃の顔をじっと見た。
そして、すっと距離を詰めた。
近い。
記乃は無言で半歩下がる。
久世が瞬きをした。
「なぜ離れる?」
「特に理由はありませんが、近かったので」
一拍。
真壁は興味なさげに書類へ視線を戻した。 久世の後ろに控えていた男が、わずかに肩を揺らした。
久世は、しばらく記乃を見ていた。
それから、堪えきれなくなったかのように、笑った。
「ははっ。近かったので、か」
「はい」
「顔を近づけて、逃げた女は久しぶりだ」
「そうですか」
「興味がないのか」
「職務中ですので」
「職務中でなければ?」
「近いものは近いです」
久世はさらに笑った。
記乃は困惑した。面白がられる理由が分からない。
(顔がいいと、人との距離感が雑になるのだろうか)
それはあまりに失礼な推測だったので、記録には残さないことにした。
久世の後ろに控えていた男が、一歩前へ出る。落ち着いた所作の、端正な男だった。主の美貌があまりに強いせいで目立たないが、この男も充分に整っている。
「主が失礼いたしました」
男は深く頭を下げた。
「三浦伊織と申します。職務の邪魔になりますので、これで」
「伊織、私はまだ」
「これで」
三浦の声は穏やかだった。だが、有無を言わせない硬さがある。
久世は肩をすくめた。
「分かった。真壁、また来る」
「できれば用件のある時だけにしてください」
「相変わらず冷たい」
「忙しいので」
真壁は顔も上げなかった。
久世は楽しそうに笑い、三浦と共に執務室を出ていった。
扉が閉まる。
記乃は真壁を見る。
「あの方は」
「久世様だ」
「それは先ほど伺いました」
「それ以上は、必要があれば知ることがあろう」
「承知しました」
つまり、今は知らなくていいということだ。 記乃はそれ以上聞かなかった。
真壁は証拠の包みを見下ろす。
「報告書にまとめろ。今日中に、だ」
「はい」
「相良の診断も確認して添付」
「承知しました」
「榎本については、明日以降でいい。西原の件は俺から上に通す」
「分かりました」
記乃は一礼し、執務室を出た。
廊下に出ると、窓から入る光が床に細く伸びていた。官付庁舎の廊下は、後宮よりも音が硬い。 足音がきちんと返ってくる。
この場所は、記乃にとって居場所ではない。 だが、後宮よりはまだ、息ができる。
(報告書。相良さんへの確認。部屋の封鎖指示。山村さんへの共有。榎本の件は明日)
やることを頭の中で並べながら歩く。
そのとき、廊下の突き当たりに人影が見えた。
久世だった。
三浦の姿は少し離れた場所にある。主を止めきれていないのか、あるいは止める気がないのか。判断に困る距離だった。
「結城記乃」
久世が名を呼んだ。
「はい」
「お前は存外面白い女だ」
記乃は一瞬だけ黙った。
(面白い)
それは、仕える相手が言う評価としては、あまりよくない。有能でも、忠実でも、役に立つでもない。
面白い。
人を玩具か見世物として見る者が使うこともある言葉だ。
「恐れ入ります」
記乃は無難に返した。
「警戒しているな」
「立場上、当然かと」
「正直だ」
「嘘をつく場面ではありませんので」
久世は目を細めた。
廊下の光が、その顔の輪郭を白く縁取っている。綺麗すぎる顔は、時に人間味を薄くする。
絵のようで、少し距離がある。
「ん? お前の瞳、珍しい色をしているな」
記乃は小さく息を吐いた。
(またか)
慣れている。
慣れてはいるが、この手の質問が好ましいわけではない。
「生まれが遊郭なのでしょうね」
久世の笑みが、わずかに止まった。
「お前は、結城家の娘ではなかったか?」
「拾われたんです」
記乃は淡々と言った。
「この目の色は恐らく、異国の血が入っているのでしょう。正確な出自は不明です」
「……不明」
「はい」
久世は何も言わなかった。
記乃は軽く頭を下げる。
「失礼いたします。報告書がありますので」
そのまま歩き出す。
背後から、久世の視線を感じた。だが振り返らない。
興味を持たれるのは、面倒だ。同情されるのも、面倒だ。生まれの分からない拾い子であることは事実で、それ以上でも以下でもない。
(憐れまれる筋合いも、説明してやる義理もない)
廊下の角を曲がると、久世の姿は見えなくなった。
残された久世は、しばらくその場に立っていた。
武家のいいところの娘が、官付と後宮を出入りしているのだと思っていた。仕事ぶりはよく、知識も判断力も申し分ない。それだけでも十分に面白い。
だが、第一印象よりもずっと、重いものを背負っているらしい。
生まれが分からない。
遊郭の近くで拾われた。
異国の血が混じったような瞳。
それを、あの娘はまるで帳簿の項目でも読むように言った。
(……少し、胸が痛むな)
久世はそう思った。
だが、その感傷は長く続かなかった。
彼はふと、別のことを思い出す。
報告書の字が、とても綺麗だった。
細く、整っていて、迷いがない。あの字は、人に見せるためだけの字ではない。事実を逃がさないための字だ。
(まあ、興味の内容はなんだっていい)
久世は小さく笑った。
抱いてしまった興味に、後から理由を与えただけなのだから。
それにしても──
(灰簾石のような綺麗な瞳だったなあ……)
──────────
その頃、記乃はすでに執務机へ向かっていた。
紙片の束を並べ、証拠の包みを脇に置き、万年筆を取る。
書くべきことは多い。だが、順序は決まっている。
──発生、観察、救命。
──現場確認、証拠。
──聞き取り、帳簿、供述。
──未確認事項。
記録は、感情を消すためのものではない。
感情に事実を食われないようにするためのものだ。
呪われた部屋──
そう呼ばれた一室に巣食うものは、決して、怪異などではなかった。
噂があり、誤解があり、忠義があり、怒りがあり、工作があった。それらが重なり、ひとつの部屋を呪いの形に見せただけだ。
記乃は一行目を書き出した。
万年筆の先が、紙の上を静かに滑る。
外では、後宮の噂がまだ煙のように立ちのぼっているだろう。
だが、ここに残るのは煙ではない。
文字だ。
紙の上に固定された、逃げられない事実だ。
記乃は淡々と筆を進めた。
人の手で作られた沈黙には、必ず、誰かの声が隠れている。
記録官補佐の仕事は、その声を、怪異の中から拾い上げることだった。




