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記録官の断章 〜解体される怪異〜  作者: 早河縁
第一章 怪異読解篇
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第二話 呪われた部屋《後編》

「あの部屋は、本来、九条澄子様がお住まいになる予定だった部屋ですね」


 記乃がそう言った瞬間、西原千代の表情から、貼りついていた笑みが剥がれ落ちてゆく。

 薄く塗られた白粉(ファンデーション)の下で、血の気が引いていくのがわかる。怒りではない。恐怖だけでもない。

 もっと奥にある、長く押し込めていた感情が、鍵の壊れた箱からこぼれ出そうとしていた。


「……何を、仰りたいのですか」

「事実確認です」

「それは、私に関係のある話でしょうか」

「現時点では不明です」


 記乃は静かに答えた。


「ですが、木炭の注文、当該室の工作、そして当該室が九条澄子様の住まいとなる予定だった事実。この三つが同じ線上にある可能性があります」

「可能性、可能性と……」


 西原の声が震えた。


「それだけで、私を疑うのですか」

「疑っています」


 記乃は即答した。

 化野が、横でわずかに眉を上げた。

 西原は息を呑む。


「ただし、犯人だと断定しているわけではありません。疑いと断定は別です」

「同じことでしょう!」

「違います」


 記乃の声は動かなかった。


「疑いは、確認の入口です。断定は、証拠と証言が揃った後に行うものです。そこを混ぜれば、事実ではなく、人を傷つけます」


 西原は唇を噛んだ。

 その仕草は、怒りで立っている人間のものに似ていた。だが、指先は震えている。袖の内側を掴む手が、白くなるほど力を入れていた。


(揺れている)


 記乃は一歩も近づかない。

 追い詰めすぎれば、言葉は閉じる。緩めすぎれば、逃げ道になる。

 尋問というものは、糸を張る作業に似ている。強く引けば切れ、弱ければ形を保てない。


「西原さん」

「……何ですか」

「九条澄子様は、あの棟に移る予定だった。ですが、現在は古い棟をお使いです」

「ええ」

「あなたは、その理由をどのように聞いていますか」


 西原の目が揺れた。


「それは……上の御判断だと」

「上、とは」

「後宮の采配に決まっているでしょう」

「どなたの采配ですか」

「そんなこと、私ごときが知るはずありません」


 答えが早い。


(知らない、ではなく、考えないようにしていた)


 記乃は紙片を出さなかった。今は、書くよりも見る場面だ。


「では、あなたはこう考えた。九条澄子様は本来、新しく整えられた棟に住まうはずだった。にもかかわらず、古い棟に追いやられた。つまり、誰かが澄子様を軽んじたのだ、と」

「追いやられたなどと、私は」

「言っていません。今、私が言いました」


 西原の顔が歪む。


「ですが、近いことは考えていたのではありませんか」

「……っ」

「澄子様は皇貴妃で、敬うべきお立場の方です。特に、あなたは澄子様に高い忠誠を抱いているようですが……それはまあ、いまはいいです。それで、その尊い方が古い棟に住み、下位の方々が改修済みの棟を使っている。事情を知らなければ、不自然に見えます」


 西原の呼吸が乱れた。

 化野は黙っている。先ほどまでなら茶化しそうな場面だが、今は一言も挟まない。軽薄そうに見えて、線を踏む場所は心得ているらしい。


(本当に、厄介な種類の有能側だ)


 記乃は西原を見た。


「ですが、帳簿には別の記録がありました」

「帳簿……?」

「九条澄子様ご本人が、新棟の使用を辞退されています」


 西原の瞳が、はっきりと見開かれた。


「……何を」

「前代天皇の皇貴妃が使用していた旧棟を、そのまま使うと申し出ておられます。改修も不要、と」

「嘘です」

「帳簿上の記録です」

「そんなはずがありません!」


 西原の声が上がった。

 控えの間の外にいた者たちが、こちらを窺う気配がした。襖の向こうで空気が動く。噂の芽は、こうしてすぐに湿った藁の中へ落ちる。

 記乃は声を低くした。


「理由も記録されています。諸費節減。民への還元を優先するため」


 西原の表情が止まった。

 怒りが、行き場を失う。火が急に水をかけられたように、音もなく沈む。


「……澄子様が」

「はい」

「ご自身で……?」

「帳簿上は、そのように記録されています」

「そんな……」


 西原は一歩、後ろへ下がった。  膝が畳に崩れかける。


「私は、知らなかった」


 その声は小さかった。


「澄子様は、何も仰らなかった。古い棟でも構わない、とだけ。私は……てっきり……」


 言葉が途切れる。

 化野が、ほんの少しだけ目を伏せた。

 記乃は手提げを畳の上に置き、風呂敷の中から二つの手巾を取り出した。


「換気口に詰められていた紙と布です」


 ひとつ。


「香炉から採取した木炭様の破片です」


 もうひとつ。

 西原は、それを見た瞬間、肩を震わせた。


「……私は」

「はい」

「殺すつもりなんて、なかった」


 言葉は、床に落ちた。

 重かった。

 控えの間の静けさが、一瞬で変わる。先ほどまで張っていた糸が切れ、代わりに沈黙が部屋の隅々へ流れ込んだ。


「殺すつもりは、なかったんです……!」


 西原は畳に膝をついた。

 整っていた衣が乱れる。髪の端が頬にかかる。  上位の妃に仕える侍女としての形が、崩れていく。


「ただ、あの部屋に近づく者がいなくなればいいと。あの棟が、やはりよくない場所だと広まれば、澄子様があそこを使わずに済んだことが、正しかったのだと……」

「澄子様のため、ですか」

「そうです!」


 西原は顔を上げた。


「澄子様は、慎ましく、誠実なお方です。どれほど古い棟であっても、不平ひとつ仰らない。だからこそ、周囲が守らなければならないのです」

「守るために、人を危険に晒した」


 記乃の声は、冷たかった。

 西原は喉を詰まらせる。


「私は……そこまで危険なことだなんて……」

「換気口を塞いだ部屋で、香炉に木炭を入れた」

「少し気分が悪くなる程度だと」

「もう一度言います」


 記乃は、声を低く、重くする。


「今日、人がひとり、死ぬところでした」


 西原は何も言えなくなった。

 その顔に浮かんだものを、記乃は感情として名前づけなかった。

 後悔。恐怖。自己弁護。崇敬。

 どれも混じっている。


 人間の感情は、帳簿のようには分類できない。  だが、行為は分類できる。


 ──換気口閉塞。

 ──香炉への木炭混入。

 ──結果、意識消失者発生。

 ──動機、九条澄子妃への忠誠および誤解に基づく工作。


 記乃はそこで筆を止めた。


(誤解に基づく、で済む話ではない)


 だが、記録には必要な言葉を選ぶ。裁くための文章ではなく、事実を渡すための文章だ。

 西原は、ほろほろと静かに涙を落としていた。


「榎本さんとは、関係がありますか」


 記乃が問うと、西原は首を横に振った。


「あの人が、あの部屋の噂をしていたのは知っていました。下女たちが怖がっているのも。だから……それを使いました」

「榎本さんに頼んだわけではない」

「頼んでいません。あの方は、いつも勝手に話を広げるから」

「勝手に広げる性質を利用した」


 西原は、泣きながら頷いた。


「はい……」


 記乃は追記する。


 ──榎本、工作への直接関与は現時点で不明。

 ──西原証言、榎本の噂流布を利用。

 ──依頼関係なしとの供述。


「木炭は、あなたが注文したものですね」

「はい」

「換気口を塞いだのも」

「私です」

「香炉に木炭を入れたのも」

「……はい」


 西原の声は、最後にはほとんど吐息のようだった。

 化野が、静かに言った。


「主のために呪いを作ったわけだ」


 西原は顔を歪めた。


「私は……澄子様のために」

「うん。そうなんだろうね」


 化野の声は、珍しく柔らかかった。

 だが、甘くはなかった。


「でも、君が作ったのは、澄子妃への忠義じゃない。澄子妃を理由にした、君自身の怒りだよ」


 西原は絶句した。

 記乃は化野を見た。

 軽い人だと思っていた。いや、今でも軽い。だが、軽さの下に、妙に刃がある。


(民俗学者、か)


 人の信仰や噂や集団心理を見てきた者の刃。

 怪異(オカルト)を笑いながら、人の作る怪異を見逃さない。

 記乃は証拠を風呂敷の手提げ(バッグ)に戻した。


「西原さん」

「……はい」

「処罰は下ると思います」


 西原の肩が震えた。


「ですが、それを判断するのは私ではありません。私は、他者を裁く権利を持っていませんから。確認した事実を記録し、報告するお役目を担っています。追って情報をお待ちください」


 突き放す言葉だった。

 けれど、記乃にできることは、それ以上でもそれ以下でもない。

 ここで慰めれば、記録が濁る。ここで責めれば、職務を越える。氷の上に置いた刃を、勝手に振り回すわけにはいかない。

 記乃は頭を下げた。


「失礼します」


 化野も軽く手を振る。


「じゃあね、西原さん」


 西原は畳に座り込んだまま、顔を上げなかった。

 控えの間を出ると、廊下の空気がひやりと頬に触れた。香の匂いは薄い。けれど、衣に染みついたような後宮の気配は、どこまでもついてくる。


「いやあ」


 化野が歩きながら言った。


「なかなか面白い顛末だったねえ」

「人が死にかけています」

「うん。だから面白い、とは外で言わない方がいい」

「今も不適切です」

「あはは。君は本当に真面目だ」

「化野さんが不真面目すぎるのでは」

「否定はしないよ」


 化野は楽しそうに笑った。

 その横顔は、どこか掴みどころがない。夜に咲く花のような女だ。近づけば香るが、何の花なのかは分からない。


「事の顛末がはっきりしたら、記事にするね」

「やめてください」

「名前は伏せるよ」

「そういう問題ではありません」

「でも、怪異譚がどう生まれ、どう利用され、人を殺しかけたのか。これは民俗学的にも新聞的にも、とても価値がある」

「価値と公開可否は別です」

「分けるねえ」

「分けます」


 化野はくつくつと笑った。


「では、真壁に怒られない範囲で書くよ」

「怒られる前提なのですね」

「真壁はいつも怒っているような顔をしているからね」

「否定しません」

「そこは同意するんだ」


 化野は、廊下の分かれ道で足を止めた。


「私は少し別件を見てくる。報告は君がするんだろう?」

「はい」

「では、またね。記録官補佐殿」

「……正しい肩書きを覚えてくれましたね」

「あっはは! こう呼ばなければ、小煩い小言を言われると学習したからねえ」


 化野は手を振り、軽い足取りで去っていった。

 派手な衣の裾が曲がり角の向こうに消える。

 記乃はその背を見送り、紙片を一枚取り出した。


 ──化野幽、民俗学者・新聞記者・小説家。

 ──相良要一、真壁記録官長と旧知。

 ──現場保持への理解あり。

 ──言動軽薄。ただし観察眼あり。

 ──今後、要警戒。


(要警戒)


 そこに線を引いてから、記乃は官付庁舎へ向かった。


 後宮と官付を繋ぐ門の近くでは、医局の方から人の気配がしていた。倒れた下女はどうなっただろうか。 意識は戻っただろうか。


(あとで相良さんに確認)


 記乃は追記した。


 ──搬送者の容体、要確認。


 官付庁舎に入ると、紙と墨の匂いがした。後宮の香とは違う。乾いていて、少し冷たい。

 記乃にとっては、こちらの匂いの方が息がしやすい。


 真壁記録官長の執務室に入ると、真壁は机に向かっていた。いつも通り、顔には面倒そうな影が落ちている。


「戻ったか」

「はい」

「相良から聞いた。人が倒れたそうだな」

「詳細を報告します」


 記乃は一礼し、紙片の束を揃えた。

 報告は、順序が重要だ。

 現象。救命措置。現場確認。証拠。聞き取り。帳簿。西原の供述。未確認事項。


 感情は不要。

 推測は推測として示す。

 断定できるものだけを断定する。


 記乃は声を整えた。


「下位側室棟東廊下にて、下女一名が意識を失い倒れていました。相良さんが対応し、胸骨圧迫後、呼吸が戻りました。現在は医局に搬送されています」

「原因は」

「当該室における一酸化炭素中毒の可能性が高いと考えます」


 真壁の眉がわずかに動いた。


「根拠は」

「換気口内に紙と布の詰め物を確認しました。香炉内には、香の灰とは別に木炭様の破片がありました。窓は閉じられており、室内には香気と焦げ臭が混在していました」


 記乃は手巾に包んだ証拠を机の上に置く。


「直接触れないよう、手巾(ハンカチ)で保全しています」

「よし」


 短い一言だった。

 だが、真壁にしては充分な評価だった。


「実行者は」

「皇貴妃・九条澄子様付き侍女、西原千代が、換気口の閉塞および香炉への木炭混入を認めました」

「動機」

「九条澄子様が本来住む予定だった棟を、更衣様方が使用していることへの不満です。ただし、澄子様本人が新棟使用を辞退し、旧棟使用を申し出ていた事実を西原は知りませんでした」

「噂は」

「女御付き侍女、榎本が流布していた可能性があります。直接関与は不明です。西原は、榎本が広めていた怪異譚を利用したと供述しています」


 真壁は黙って聞いていた。机上の紙に、視線だけを落とす。


「榎本は別途確認が必要だな」

「はい。噂の流布目的は未確認です」

「西原は禁衛に引き渡す」

「承知しました」

「部屋は封鎖」

「山村に一時的な見張りを依頼しています。正式な封鎖指示をお願いします」

「出す」


 真壁は短く答えた。

 報告は、滞りなく終わる。

 そのはずだった。

 ぱち、ぱち、ぱち。

 背後から、拍手の音が聞こえた。


 記乃は振り返る。

 部屋の奥。衝立の陰に、男が立っていた。


 長身だった。嫌になるほど、整った顔をしている。

 黒髪は絹糸のように滑らかで、白い肌はきめ細かい。目元は涼しく、口元には薄い笑みが浮かんでいた。

 美しい、という言葉はこういう顔のためにあるのだろう。

 女性が嫉妬するほどに。

 いや──嫉妬よりも、最早、羨望を集めそうだ。


(まあ、偵記兄さんの方が男らしくて格好いいけれど)


 記乃は内心で、極めてどうでもいい比較をした。

 男は愉快そうに目を細める。


「見事だな」


 真壁が、面倒そうに立ち上がった。


「久世様」


(久世〝様〟?)


 記乃は即座に頭を下げた。

 真壁が様付けする。それだけで、相当に身分が高い相手だと分かる。


「頭を上げろ」

「はい」


 記乃は顔を上げた。

 近くで見ても、やはり綺麗な顔だった。造形に無駄がない。まるで、白い紙の上に最初から正しい線だけで描かれたような顔だ。


 久世は記乃の顔をじっと見た。

 そして、すっと距離を詰めた。

 近い。

 記乃は無言で半歩下がる。

 久世が瞬きをした。


「なぜ離れる?」

「特に理由はありませんが、近かったので」


 一拍。

 真壁は興味なさげに書類へ視線を戻した。  久世の後ろに控えていた男が、わずかに肩を揺らした。

 久世は、しばらく記乃を見ていた。

 それから、堪えきれなくなったかのように、笑った。


「ははっ。近かったので、か」

「はい」

「顔を近づけて、逃げた女は久しぶりだ」

「そうですか」

「興味がないのか」

「職務中ですので」

「職務中でなければ?」

「近いものは近いです」


 久世はさらに笑った。

 記乃は困惑した。面白がられる理由が分からない。


(顔がいいと、人との距離感が雑になるのだろうか)


 それはあまりに失礼な推測だったので、記録には残さないことにした。

 久世の後ろに控えていた男が、一歩前へ出る。落ち着いた所作の、端正な男だった。主の美貌があまりに強いせいで目立たないが、この男も充分に整っている。


「主が失礼いたしました」


 男は深く頭を下げた。


「三浦伊織と申します。職務の邪魔になりますので、これで」

「伊織、私はまだ」

「これで」


 三浦の声は穏やかだった。だが、有無を言わせない硬さがある。

 久世は肩をすくめた。


「分かった。真壁、また来る」

「できれば用件のある時だけにしてください」

「相変わらず冷たい」

「忙しいので」


 真壁は顔も上げなかった。

 久世は楽しそうに笑い、三浦と共に執務室を出ていった。

 扉が閉まる。

 記乃は真壁を見る。


「あの方は」

「久世様だ」

「それは先ほど伺いました」

「それ以上は、必要があれば知ることがあろう」

「承知しました」


 つまり、今は知らなくていいということだ。  記乃はそれ以上聞かなかった。

 真壁は証拠の包みを見下ろす。


「報告書にまとめろ。今日中に、だ」

「はい」

「相良の診断も確認して添付」

「承知しました」

「榎本については、明日以降でいい。西原の件は俺から上に通す」

「分かりました」


 記乃は一礼し、執務室を出た。

 廊下に出ると、窓から入る光が床に細く伸びていた。官付庁舎の廊下は、後宮よりも音が硬い。  足音がきちんと返ってくる。

 この場所は、記乃にとって居場所ではない。  だが、後宮よりはまだ、息ができる。


(報告書。相良さんへの確認。部屋の封鎖指示。山村さんへの共有。榎本の件は明日)


 やることを頭の中で並べながら歩く。

 そのとき、廊下の突き当たりに人影が見えた。

 久世だった。

 三浦の姿は少し離れた場所にある。主を止めきれていないのか、あるいは止める気がないのか。判断に困る距離だった。


「結城記乃」


 久世が名を呼んだ。


「はい」

「お前は存外面白い女だ」


 記乃は一瞬だけ黙った。


(面白い)


 それは、仕える相手が言う評価としては、あまりよくない。有能でも、忠実でも、役に立つでもない。

 面白い。

 人を玩具か見世物として見る者が使うこともある言葉だ。


「恐れ入ります」


 記乃は無難に返した。


「警戒しているな」

「立場上、当然かと」

「正直だ」

「嘘をつく場面ではありませんので」


 久世は目を細めた。

 廊下の光が、その顔の輪郭を白く縁取っている。綺麗すぎる顔は、時に人間味を薄くする。

 絵のようで、少し距離がある。


「ん? お前の瞳、珍しい色をしているな」


 記乃は小さく息を吐いた。


(またか)


 慣れている。

 慣れてはいるが、この手の質問が好ましいわけではない。


「生まれが遊郭なのでしょうね」


 久世の笑みが、わずかに止まった。


「お前は、結城家の娘ではなかったか?」

「拾われたんです」


 記乃は淡々と言った。


「この目の色は恐らく、異国の血が入っているのでしょう。正確な出自は不明です」

「……不明」

「はい」


 久世は何も言わなかった。

 記乃は軽く頭を下げる。


「失礼いたします。報告書がありますので」


 そのまま歩き出す。

 背後から、久世の視線を感じた。だが振り返らない。

 興味を持たれるのは、面倒だ。同情されるのも、面倒だ。生まれの分からない拾い子であることは事実で、それ以上でも以下でもない。


(憐れまれる筋合いも、説明してやる義理もない)


 廊下の角を曲がると、久世の姿は見えなくなった。

 残された久世は、しばらくその場に立っていた。


 武家のいいところの娘が、官付と後宮を出入りしているのだと思っていた。仕事ぶりはよく、知識も判断力も申し分ない。それだけでも十分に面白い。


 だが、第一印象よりもずっと、重いものを背負っているらしい。

 生まれが分からない。

 遊郭の近くで拾われた。

 異国の血が混じったような瞳。

 それを、あの娘はまるで帳簿の項目でも読むように言った。


(……少し、胸が痛むな)


 久世はそう思った。

 だが、その感傷は長く続かなかった。

 彼はふと、別のことを思い出す。

 報告書の字が、とても綺麗だった。

 細く、整っていて、迷いがない。あの字は、人に見せるためだけの字ではない。事実を逃がさないための字だ。


(まあ、興味の内容はなんだっていい)


 久世は小さく笑った。

 抱いてしまった興味に、後から理由を与えただけなのだから。


 それにしても──


灰簾石(タンザナイト)のような綺麗な瞳だったなあ……)



──────────



 その頃、記乃はすでに執務机へ向かっていた。

 紙片の束を並べ、証拠の包みを脇に置き、万年筆を取る。

 書くべきことは多い。だが、順序は決まっている。


 ──発生、観察、救命。

 ──現場確認、証拠。

 ──聞き取り、帳簿、供述。

 ──未確認事項。


 記録は、感情を消すためのものではない。

 感情に事実を食われないようにするためのものだ。


 呪われた部屋──


 そう呼ばれた一室に巣食うものは、決して、怪異(オカルト)などではなかった。

 噂があり、誤解があり、忠義があり、怒りがあり、工作があった。それらが重なり、ひとつの部屋を呪いの形に見せただけだ。


 記乃は一行目を書き出した。

 万年筆の先が、紙の上を静かに滑る。


 外では、後宮の噂がまだ煙のように立ちのぼっているだろう。

 だが、ここに残るのは煙ではない。


 文字だ。

 紙の上に固定された、逃げられない事実だ。

 記乃は淡々と筆を進めた。

 人の手で作られた沈黙には、必ず、誰かの声が隠れている。


 記録官補佐の仕事は、その声を、怪異の中から拾い上げることだった。


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