第二話 呪われた部屋《中編》
原因が分かることと、事が終わることは違う。
目の前にある現象をほどけば、そこには必ず手がある。
誰かが動かしたもの。誰かが選んだもの。誰かが、そうなるように積み上げた──もとい、仕組んだもの。
怪異などではない。
人間の意思は、ときに呪いよりも陰湿だ。
(換気口の閉塞。香炉の木炭。意識消失。噂の流布)
結城記乃は、風呂敷で作った手提げを持ち直した。
中には、手巾に包んだ証拠が二つ入っている。換気口から取り出した紙と布。香炉から採取した木炭様の破片。
それだけで全てが分かるわけではない。けれど、少なくとも一つは確かだった。
この部屋は、呪われてなどいない。
呪われたように見える形へ、誰かが整えたのだ。
「さて」
化野幽が、窓辺に立ったまま言った。
「君はどう動く?」
「まず、確認です」
「確認」
「証拠はあります。ですが、これだけでは実行者の特定には足りません。換気口を塞いだ者、香炉に木炭を仕込んだ者、そして、この部屋を〝呪われた部屋〟として広めた者。全て同一人物とは限りません」
「いいねえ。分けるんだ」
「安易に混ぜれば、判断を誤ります」
記乃は紙片の束を取り出し、万年筆の先を走らせた。
──仮説一、換気閉塞と木炭混入は同一人物による人為的工作。
──仮説二、怪異譚の流布者と工作実行者は別人の可能性あり。
──確認事項、噂の流布経路、物品の出入り、木炭の入手経路。
化野は肩を揺らして笑った。
「君、本当におもしろいね。怪異を切り分けるなんて」
「怪異ではありません」
「はいはい。そうだった」
「そもそも、怪異という言葉は便利すぎます。その一言で片付ければ、原因を調べずに済む」
記乃は部屋の中を一度見回し、窓が開いていることを確認した。
香の甘さはまだ残っている。けれど、先ほどより薄い。濁った空気は、外から流れ込む冷たい風に押され、少しずつ輪郭を失っていた。
(ここは、ひとまず封鎖)
記乃は襖の前まで歩く。
「この部屋は、しばらく立ち入り禁止にします」
「権限は?」
「真壁さんに報告すれば通ります」
「今は?」
「通る前提で動きます。人命に関わるので」
「大胆だねえ」
「必要なだけです」
襖を開けると、廊下にいた女たちが一斉にこちらを見た。彼女たちの目には、先ほどとはまた違う色があった。
恐怖だけではない。記乃が何かを知っているのではないか、という疑い。そして、それを聞きたいという欲。
人の好奇は、湿った藁に火をつけるようなものだ。一度煙が立てば、消すのに手間がかかる。
後宮という、女たちの閉ざされた苑では、噂くらいしか娯楽がないと言っても過言ではない。
女たちは、私で噂をしたがっている。
しかし、いま、それを許すわけにはいかない。
「この部屋には、しばらく誰も入らないでください」
記乃は廊下に向けて言った。
「どうして?」
「やっぱり、呪いがあるから?」
「やだ。お化けが出るんでしょう、ここ」
「違います」
記乃は即座に遮った。
「原因確認のためです。部屋の中の物に触れないでください。勝手に入った場合、調査の妨害になります」
「調査……?」
「記録官補佐として、確認します」
その言葉に、廊下が一瞬だけ静まった。
下女たちは互いに顔を見合わせる。記乃がただの下女ではないことは、先ほど相良とのやり取りで薄々察したのだろう。だが、はっきりと言葉にされれば、それは別の重さを持つ。
ここの女たちは、みな、今日まで記乃がただの下女として働いているに過ぎないと認識していたのだ。
このような視線を向けられるのも、無理もない。
(面倒な視線が増えた……)
記乃は内心で息を吐いた。
(だから、隠れてこそこそ動いていたのに)
説明してやる義理はない。だが、黙れば噂になる。ならば、必要最低限だけを与えておく方がいい。
「山村さん」
「は、はい」
「部屋の前を見ていてください。中には誰も入れないでください」
「私がですか」
「お願いします。怖ければ、廊下の端から見ているだけで構いません」
「……分かりました」
山村は緊張した顔で頷いた。
記乃はその反応を紙片に短く書いた。
──当該室、暫定封鎖。
──更衣棟付き下女、山村に見張り依頼。
──周囲、怪異説への反応強。
「では、行きましょう」
記乃が言うと、化野が嬉しそうに目を細めた。
「私も?」
「相良さんが手伝えと言ったのでしょう」
「うん」
「それなら、役に立ってください」
「あははっ! いいねえ。君には遠慮というものがない」
「遠慮をしていては、まともな仕事ができませんから」
二人は廊下を歩き出した。
背後で、女たちの囁きがまた揺れる。記乃は聞こえないふりをした。聞こえないふりは、後宮で生きる上で有用な技術だった。
最初に確認すべきは、噂の流れだった。物は帳簿に残る。けれど、言葉は残りにくい。だからこそ、早いうちに拾わなければならない。
恐怖は、話している者自身の中で形を変える。 聞いたままの話をしているつもりでも、そこには必ず自分の怯えや願望が混ざる。
(まず、誰が最初に口にしたのか)
記乃は、廊下の端にいた年配の下女へ声をかけた。
「少しお聞きします」
「え、私ですか」
「この部屋が呪われているという話を、最初に聞いたのはいつですか」
「ええと……ひと月ほど前、だったかしら」
「誰から」
女は言い淀んだ。
目が横へ逃げる。口元が硬くなる。
(言いたくない相手か、言っていいか判断できない相手)
記乃は万年筆を構えた。
「これは必要な調査です。曖昧でも構いませんので」
「たしか……女御様付きの侍女様からです」
「名前は」
「直接聞いたわけではなくて……でも、皆は、榎本様だと言っていました」
「内容は」
「更衣様方の棟で働く下女たちは可哀想だ、と。あの部屋は、この棟が改修されるよりも昔からよくない部屋で、夜に声が聞こえるとか、入った者が気をおかしくするとか……」
記乃は書く。
──噂の出所候補、女御付き侍女・榎本。
──発言内容、更衣棟下女への同情、当該室の怪異譚。
──時期、およそ一月前。
「他にも聞いた人は」
「何人かいます。あの方、よく話されるので」
「分かりました」
記乃は軽く頭を下げた。
化野が横から口を挟む。
「女御付きの侍女が、更衣たちの棟の噂をねえ」
「身分差があります」
「うん。そこが面白い」
「面白がる話ではありません」
「職業病だよ」
「悪癖です」
「手厳しいなあ」
化野は笑ったが、不快そうではなかった。
二人はさらに数人に聞き取りを行った。答えはおおむね同じだった。
噂は一月ほど前から広がり始めた。最初は「声が聞こえる」という話だった。そこから「気分が悪くなる」「泣き叫んだ者がいる」「正気を失う」に変わっていった。
言葉は、雪玉に似ている。転がるほどに大きくなり、そして最後には、最初に何を芯にしていたのか分からなくなる。
記乃は紙片に整理した。
──噂、段階的に肥大化。
──初期、声の聴取。
──中期、入室者の体調不良。
──後期、錯乱・呪いの表現。
──流布者候補、榎本。ただし、実行者とは未確定。
「次は帳簿ですね」
「物の出入りか」
「はい。木炭がどこから来たのか確認します」
「後宮の帳簿なんて、見られるのかい?」
「見ます」
「権限は?」
「必要性です」
化野は楽しそうに笑った。
「君、権限より必要性の有無で動くんだねえ」
「本来、必要性に合わせて権限が整備されるべきです」
「うん。正論だ」
「世の中は必ずしも、正論を是とするとは限りませんが」
「それもまた、正論だねえ」
帳簿は、下位側室棟の管理を行う小部屋に保管されていた。記乃は管理役の女に事情を説明し、最近の物品出入りを確認したいと伝えた。
最初、管理役は渋った。当然だ。後宮の物品帳簿は、ただの買い物帳ではない。誰の棟に何が入り、どの妃にどれほどの物が割り当てられているかを示す。つまり、宮中の力関係が薄く透ける紙でもある。
だが、人が倒れた。医官が搬送した。 原因確認が必要。
それだけで押し切った。
(あとで真壁さんに叱られる可能性はある)
記乃は帳簿を開きながら思った。
(上司のお叱りで済むなら安いもんだ)
帳簿の紙は、よく乾いていた。指先でめくると、かさりと音がする。墨の文字は整っているが、ところどころに急いで書いたような跳ねがあった。
「木炭、木炭……」
記乃は過去一月分を遡る。
香。灯油。紙。布。薬湯用の生姜。炭。
手が止まった。
──木炭、少量。
──注文者、西原千代。
──所属、皇貴妃・九条澄子付き侍女。
(皇貴妃の、侍女)
記乃は眉をわずかに寄せた。
下位側室棟の騒ぎに、皇貴妃付きの侍女の名が出る。それは少し、不自然だった。
「見つけた?」
化野が覗き込もうとする。
「近いです」
「はいはい」
「西原千代。皇貴妃、九条澄子様付きの侍女です。木炭を注文しています」
「香炉に入れるには、ちょうどいい量?」
「多用途ですから、これだけでは断定できません」
「でも、怪しい」
「怪しいことと、犯人であることは違います」
「君は本当に細かく分けたがるね」
「逆に、分類に対して大雑把な人が多すぎます」
記乃はさらに帳簿をめくった。
目当ては木炭だけではない。詰め物に使われた紙と布。香炉の香。当該室の整備履歴。誰が部屋に入れる立場にあったのか。
記録は無言だ。
だが、無言だからこそ、人間よりも余計な言い訳をしない。
──当該室、三月前に整備。
──調度品搬入済。
──使用者未定のまま保留。
──香炉、備品として設置。
──布類、複数棟共用品。
(使用者未定)
記乃は、そこに線を引いた。
「この部屋、元々誰のための部屋だったか分かりますか」
管理役に問うと、女は少し困った顔をした。
「元は、九条様の御用になる予定だったと聞いております」
「皇貴妃、九条澄子様ですね」
「はい。ですが、九条様は古い棟をお使いになることになりましたので」
「その理由は」
「それは……上の御判断かと」
「上」
「詳しくは存じません」
女はそう言って口を閉じた。
(知らない、か。あるいは、知っていて言えない)
どちらでもいい。今は帳簿がある。
記乃は別の記録を確認した。
改修費。調度品費。そして、差し戻しの記載。
そこに、澄子妃側からの申し出が残っていた。
──九条澄子妃、当該新棟使用を辞退。
──前代天皇皇貴妃使用の旧棟を継続使用希望。
──改修不要との申し出。
──理由、諸費節減。民への還元を優先。
(なるほど)
記乃は紙片へ書き写した。
──当該棟、本来は九条澄子妃の住まい予定。
──澄子妃本人の申し出により旧棟使用。
──節減理由、帳簿上に記録あり。
──西原がこの事情を知っていたか、要確認。
化野は横で、軽い口笛を吹いた。
「これはまた、火種がありそうだ」
「火種とは、言い得て妙。的を射ています」
「珍しい。同意?」
「物理的な意味ではありませんが」
「分かっているよ」
記乃は帳簿を閉じた。
現時点で見えている線は三つ。
一つ、女御付き侍女の榎本が、呪われた部屋の噂を広めている。一つ、皇貴妃付き侍女の西原千代が、木炭を注文している。一つ、問題の部屋は元々、九条澄子妃の住まいとなる予定だった。
点はある。だが、線はまだ引けない。
(先に仮説を固定すると、見えるものが歪む)
記乃は万年筆を止めた。
化野が、静かに問う。
「君はどう仮説を立てる?」
先ほどまでの軽い調子とは、少し違っていた。 目が笑っていない。民俗学者の目だった。人々の話が、どのようにして共同体の中で機能しているのかを見てきた者の目。
記乃は少しだけ考えた。
「怪異を広めた人の話を利用して、この西原という者があの部屋を本当に呪われた部屋に仕立てあげたのでしょう」
「理由は?」
「まだ断定できません」
「でも、候補はある」
「はい」
記乃は帳簿の写しを指で押さえる。
「本来、九条澄子様が住む予定だった棟が、現在は更衣様方の棟になっている。そのことに不満を抱いた者がいても不思議ではありません」
「澄子妃本人ではなく、周囲が?」
「本人が望んだとは限らない、と周囲が思った場合です」
「ああ。なるほどねえ」
化野は顎に指を当てた。
「主を敬うあまり、主の意思を見失う」
「よくあることです」
「冷たいね」
「事実です」
記乃は帳簿を元に戻し、管理役に礼を言った。
次は、西原千代。その前に、榎本の話をもう少し拾う必要がある。噂を利用したのか。噂を作らせたのか。あるいは、まったく偶然に乗ったのか。
順番を間違えてはいけない。
疑いは、刃物と同じだ。
扱いを誤れば、事実ではなく人を傷つける。
廊下へ出ると、先ほどより空気は騒がしかった。倒れた下女は医局へ運ばれた。呪われた部屋は封鎖された。そして、記乃が何かを調べている。
後宮の噂好きにとって、それだけで十分すぎる餌だった。
「まず、榎本さんについてもう少し聞きます」
「どこで?」
「下女たちです。口は軽い方から開きます」
「言い方が容赦ないねえ」
「事実です」
記乃は、数人の下女に話を聞いた。
榎本は、女御付きの侍女である。よく気がつき、よく喋る。そして、同情を装って他人の事情に首を入れる癖がある。
「更衣様方の棟で働く下女たちは可哀想だって、よく言っていました」
「可哀想?」
「ええ。あんな曰くのある部屋が近くにあるなんて、とか。昔、あの場所で泣き声を聞いた者がいるとか」
「榎本さん自身が聞いたと?」
「いえ、誰かから聞いたと」
「その誰かは」
「それは……」
女は首を傾げた。
「いつも、そういう話し方なんです。誰が言ったとは言わずに、皆が言っている、みたいな」
(典型的だな)
記乃は書いた。
──榎本、情報源を明示せず噂を流布。
──発言形式、「皆が言っている」「聞いた話」。
──更衣棟下女への同情表現を多用。
──意図、不明。
「榎本が実行者の可能性は?」
化野が小声で問う。
「低いとは言いません。ただ、今は噂の発生源として扱います」
「彼女の目的は?」
「自分が優位に立つためか、単に話題を支配したいのか、誰かに頼まれたのか。現時点では不明です」
「徹底してるねえ」
「不明なものを分かったことにはできません」
化野はその言葉を聞いて、ほんの少しだけ目を細めた。
「いい記録官になるよ、君は」
「補佐です」
「今はね」
記乃は答えなかった。
(今は、で済むなら苦労はない)
女が官僚になれるはずがない。その現実は、今も変わっていない。
補佐という曖昧な立場。下女という表向きの役目。使えるから使われているだけの身分。
女の身で軍部の官僚を務めている例外がひとりだけいるという話は知っている。しかし、例外というのは、ほかに例がないから例外なのだ。
そして、そういう例外措置が取られるのは、余程の才覚を持った、天から二物も三物も与えられたような人間だけだ。規則を歪めてでも、使いたいと言わせられる人間。
残念ながら、私は知識を持つだけの凡人だ。
それでも、記録の仕事はできる。
多角的な視点から物事を観察し、書き、報告することは、できる。
(……それだけでいい)
記乃は紙片を閉じた。
「西原千代のところへ行きます」
「いよいよ本命だ」
「まだ本命とは限りません」
「はいはい」
皇貴妃付きの侍女が控える棟へ向かうには、後宮内の渡り廊下を通る必要がある。そこは下位側室の棟とは空気が違っていた。
床はよく磨かれ、柱の色も深い。風に揺れる御簾の向こうから、香の匂いが薄く流れてくる。
同じ後宮の内側でありながら、場の重さが違う。
身分とは、目に見えない段差だ。足元に何もなくとも、踏み越えるときには必ず膝に力が入る。
(こういう場所は、どうにも肩が凝る)
記乃は表情を変えずに歩いた。
化野はその横で、やけに自然に歩いている。 派手な衣も、ここではさほど浮かない。むしろ、周囲の視線を軽く受け流しているようだった。
(場慣れしている)
記乃は内心で評価を修正した。
軽薄。派手。怪しい。
そこまでは変わらない。だが、無能ではない。
むしろ、かなり厄介な種類の、有能側だ。
(道理で、相良さんが寄越すわけだ)
西原千代は、控えの間にいた。
年は二十代半ばほど。整った所作の女だった。髪はきちんと結われ、衣も乱れがない。いかにも上位の妃に仕える侍女らしく、表情には柔らかな笑みが貼りついている。
記乃が名乗ると、西原の目元がほんの一瞬だけ強ばった。
薄氷に細いひびが入るような変化だった。すぐに笑顔へ戻ったが、記乃は見逃さなかった。
(反応あり)
紙片には書かない。今ここで書けば、相手に警戒される。必要な記録は、あとで残せばいい。
「突然失礼いたします。下位側室棟で発生した室内事故について、確認を行っております」
「まあ……倒れた方がいらしたとか。お気の毒に」
声は整っていた。だが、息の置き方がわずかに早い。
「いくつかお聞きしてもよろしいでしょうか」
「私でお答えできることなら」
「先月、木炭を注文されていますね」
西原の笑みが、ほんの少し固まった。
「木炭……ですか」
「はい」
「それは、冬支度や火鉢のために。後宮では珍しいものではありませんでしょう」
「珍しくはありません」
記乃は淡々と答えた。
「ただ、量が少ない」
「少ない?」
「火鉢に使うには半端です。香炉に入れるには足ります」
西原の指先が、袖の内側をつかんだ。
化野は黙って見ている。先ほどまでの笑みも、今は少し薄い。
「何をおっしゃりたいのか、分かりません」
「まだ、何も」
記乃は静かに言った。
「確認しているだけです」
部屋の空気が、細く張りつめる。見えない糸を指で弾けば、硬い音が返ってきそうだった。
記乃は続けた。
「下位側室棟の一室で、換気口が紙と布で塞がれていました。香炉には、香の灰とは別に木炭と思われる破片がありました」
西原の顔から、色が引いた。
その変化は今度こそ、隠しきれていなかった。
「……それが、私と何の関係が」
「分かりません」
「では」
「ですので、確認しています」
記乃は風呂敷を持ち上げた。
「証拠は保全しています。必要であれば、真壁記録官長および医官の確認を受けます」
西原の唇が震えた。
怒りか。恐怖か。あるいは、その両方か。
「無礼ではありませんか」
「そうかもしれません」
記乃は即答した。
「でも、今日、人が死ぬところでした」
その言葉で、西原の目が揺れた。
火に炙られた薄紙のように、表情の端が歪む。
「私は……」
西原は何かを言いかけた。だが、まだ崩れない。
記乃は一歩も近づかず、声だけを低くした。
「西原さん」
「……何です」
「あの部屋は、本来、九条澄子様がお住まいになる予定だった部屋ですね」
西原の顔が、今度こそ明確に強ばった。
化野が、隣でわずかに息を止めた気配がした。
記乃は、静かに続ける。
「その件について、お話を伺います」
西原の笑みは、もう戻らなかった。




