第二話 呪われた部屋《前編》
人は、名前のついたものを恐れる。
鬼、祟り、呪いといった怪異──
それらは明瞭な輪郭を持たないからこそ、口にされた瞬間に形を得る。見えないものは怖い。だが、その見えないものに名が与えられてしまったとき、恐怖はさらに濃くなる。
(……だから厄介なんだ)
結城記乃は、廊下の中央に倒れた女を見下ろしていた。
女は下女だった。年は、記乃より少し上だろうか。浅葱色の粗末な小袖の衿元が乱れ、髪は床に散っている。顔色は悪い。血の気が引き、唇にはわずかに紫が差していた。
周囲では、女たちがざわめいている。
「やっぱり、あの部屋よ」
「呪われた部屋に入ったから……」
「前にも、変な声が聞こえたって」
「近づくなって言われていたのに」
言葉が言葉を呼び、廊下の空気は濁っていく。 恐怖は煙に似ている。一度立ちのぼれば、誰の口から出たものか分からなくなる。
(呪い、か)
記乃は袖から小さな紙片の束と万年筆を取り出した。後宮で下女として働くには不自然な持ち物だが、もはや癖のようなものだった。
なにか起きれば、書く。
見たもの、聞いたもの、匂い、位置、時刻、人の言葉。頭で覚えていても、記録は別に残す。
──倒れた者、一名。
──場所、下位側室棟、東廊下。
──直前、呪われた部屋に入室との証言あり。
──顔面蒼白。呼吸浅い。唇に紫色。
筆先が紙を走る。墨の線は細く、しかし迷いはなかった。
「どいてください」
記乃は短く言った。
声を荒らげたわけではない。だが、周囲の女たちは反射的に身を引いた。
記乃の声音には、単なる雑用係のそれではない硬さがあった。
「口元を塞がないで。襟元を緩めます。誰か、医官を呼びましたか」
「い、医官様なら……今、呼びに……」
「では、禁衛も呼んでください。搬送が必要になります」
「え……」
「早く」
女が慌てて走っていく。
記乃は倒れた下女の横に膝をついた。口元に耳を寄せる。呼気はあるが、薄い。冬の朝に吐く息のように、そこにあるのに頼りない。
(呼吸が浅い。脈は)
手首に指を当てる。弱い。意識はない。
記乃はまた紙片に短く書きつけた。
──呼吸あり。ただし浅い。
──脈拍微弱。
──外傷目立たず。
「何をしているの……」
誰かが小さく呟いた。
「ただの下女なのに」
その言葉は、針のように細かった。記乃の耳には届いたが、返事はしなかった。
(説明に使う時間はない。し、そんなことをしてやる義理もない)
廊下の向こうから、足音が近づく。軽いが、それでいて速い。医官の足音だと分かった。
「記乃」
白衣に近い薄色の上衣を翻し、相良要一が駆け込んできた。歳は二十二と若い医官だが、目つきは落ち着いている。
相良家とは結城家の縁もあり、記乃にとっては昔から顔を知る相手だった。
「相良さん。意識なし。呼吸浅く、脈は弱いです。外傷は見当たりません。直前にあちらの部屋に入ったという証言があります」
記乃は廊下の一室を視線で示した。
襖は半開きになっている。その奥に、薄暗い部屋があった。
空気が違う。
そこだけが、朝の光から取り残されたように見えた。
「ああ。呪われた部屋か」
相良が低く言った。
「その呼び名は不適切です。現時点では、原因不明の室内事故と記録します」
「実に君らしい」
相良は短く息を吐き、倒れた下女の状態を確認した。胸の上下、瞳孔、脈、呼吸。その動きに無駄はない。
「呼吸がかなり弱い。手伝えるか」
「はい」
「周囲を下げて。空気を入れたい」
「皆さん、壁際まで下がってください。近づかないでください。見物している場合ではありません」
記乃が言うと、女たちはまた驚いた顔をした。 だが、相良が当然のように記乃へ指示を出し、記乃が当然のように応じていることに、誰も口を挟めなかった。
「顎を上げる。気道を確保する」
「はい」
「胸の動きが止まりかけたら、すぐ補助する」
「分かりました」
相良の指示は短い。記乃の返答も短い。
二人の間だけ、空気の流れが違っていた。
周囲の恐慌とは別に、そこには実務の冷たさがある。氷の上に刃を置くような、静かな緊張だった。
「……記乃さんって、何者なの」
「医官様と知り合いなの?」
「ただの下女じゃなかったの……?」
声が背後で揺れる。
(今さら)
記乃は下女の胸元の動きを見ていた。浅い。不規則。
相良が舌打ちをした。
「弱いな。記乃、胸骨圧迫に入る。数を取れ」
「はい。一、二、三、四……」
声に合わせて、相良が胸を押す。
記乃は数えながら、下女の顔色を見る。白い肌の下で、命が細い糸のように揺れている。切れそうで、まだ切れていない。
(戻れ。……戻れ)
それは祈りではなかった。命令に近い。記乃は神仏に頼るより、手順を信じている。だが、この瞬間だけは、手順の先にある結果を強く引き寄せようとしていた。
「二十七、二十八、二十九、三十」
「気道確認」
相良が呼吸を確認する。
わずかに胸が動いた。
「戻った。まだ浅いが、呼吸あり」
廊下に詰めていた者たちの間から、安堵とも恐怖ともつかない息が漏れた。
そのとき、禁衛が二人駆けつけた。
「医官殿!」
「医局へ運ぶ。後宮と官付を繋ぐ門の医局だ。揺らすな。頭を支えろ」
相良が指示を出す。
記乃はすぐに紙片へ追記した。
──一時呼吸微弱。胸骨圧迫後、呼吸戻る。
──医局へ搬送。
──搬送担当、禁衛二名。
倒れた下女は慎重に抱え上げられた。
髪が一筋、床に残るように流れたが、すぐに禁衛の腕の中へ消える。
「記乃」
相良が振り返る。
「君も一度離れた方がいい。この場の空気が原因なら、長居は危険だ」
「分かっています。ただ、部屋を確認します。誰も入れません」
「換気を先に」
「はい」
相良は一瞬、何か言いたそうにした。だが記乃の顔を見て、言葉を飲んだ。
「無茶はするな」
「しません」
「君の『しません』は信用しきれない」
「善処します」
「それも信用ならない」
短いやり取りだった。周囲の者たちは、ますます困惑した顔をしていた。
相良は禁衛たちと共に廊下を去っていく。
白い衣の背が角を曲がるまで、記乃は見送った。
それから、振り返る。
半開きの襖。その奥にある部屋。
更衣たちの棟の端にある、小さな一室だった。
かつては物置として使われ、最近になって整え直されたと聞いている。けれど、この棟に勤める者たちの間では、別の名で呼ばれていた。
──呪われた部屋。
夜になると声が聞こえる。中に入ると気分が悪くなる。長くいると、正気を失う。以前も、そこに入った女が泣き叫んだ。
そんな話が、いつの間にか広まっていた。
(話が広まりすぎている)
記乃はまた筆を取った。
──当該室、通称「呪われた部屋」。
──噂の内容、入室者の体調不良、錯乱、声の聴取。
──今回、意識消失者あり。
──噂の流布経路、要確認。
書いていると、同僚の山村が不安げに近づいてきた。彼女は年若い下女で、記乃と同じくこの棟の雑務を担っている。
「記乃さん……あの、片付け、まだ残ってますけど」
「山村さん、申し訳ありません。朝餉の膳の片付けをお願いできますか」
「え、でも」
「この部屋に、誰も入らないようにしてください。私が確認します」
「入るんですか? だって、あそこは……」
「呪いではありません」
記乃は即答した。
山村は唇を引き結ぶ。
「でも、実際に人が倒れて」
「なので、その理由を確認します」
記乃は顔を上げた。
「何が起きたのか分からないまま恐れるのは、危険なことですので。原因を確かめます」
山村は何も言えなくなったように、こくりと頷いた。
「……わかりました。片付け、やっておきます」
「助かります」
記乃は小さく頭を下げた。
それから襖の前に立つ。
(まず、息を浅く。長居はしない。窓を開ける)
襖に手をかけると、指先に木の冷たさが移った。
中へ入ると、部屋は妙に静かだった。
静か、というより、音が沈んでいる。畳の上に足を置いた瞬間、足音が柔らかく潰れた。
空気には、かすかな匂いがあった。甘い。だが、その奥になにかが焦げたような重さがある。
(香……だけではない)
記乃はすぐに窓へ向かった。
障子を開け、窓を押し上げる。外気が流れ込むと、部屋の空気がゆっくり揺れた。濁った水に、新しい水が注がれるようだった。
記乃は襖を内側から閉めた。人が不用意に入ってくれば、証拠が荒れる。それに、体調を崩す者が増えれば厄介だ。
(密閉。香の匂い。意識消失。呼吸抑制。顔色……)
紙片を膝の上に置き、短く書く。
──室内、換気不良の疑い。
──香気あり。甘い匂い。焦げ臭混在。
──窓閉鎖状態。
──一酸化炭素中毒の可能性。
まだ断定はしない。断定という行為は、証拠が揃ってからしなくてはならないものだ。
記乃は部屋を見回した。
文机。香炉。畳。壁。天井近くの換気口。
視線が、そこで止まった。
(……あれ)
換気口は、天井に近い壁にある。木枠が組まれ、細い格子がはまっている。本来なら、そこから空気が抜けるはずだった。
だが、暗い。
格子の奥に、影が見えた。
(詰まっている……?)
記乃は目を細める。背伸びをしても届かない。手を伸ばしても、指先すら近づかなかった。
(脚立が必要だな)
そう考えた、そのときだった。
背後で、襖が開いた。
す、と乾いた音がする。
(人払いをしたのに、誰だよ)
記乃は紙片を押さえながら振り返った。
そこに、背の高い女が立っていた。
派手な女だった。
着物には大柄の月下美人が描かれている。
艶のある衣をまとい、衿の合わせ方も、後宮の女たちとはどこか違う。髪は緩くまとめられ、金色の簪が光を受けて細くきらめいている。
だが、華美というより、夜に咲く花のようだった。
色が強いのに、妙に静かだ。
女は、記乃を見て笑った。
「やあ。君が記録官かな」
軽い声だった。
記乃は無言で女を見た。そして、すぐに紙片へ書きつけた。
──不明人物、入室。
──女。長身。派手な装い。
──現場保持の指示を無視。
「……どなたですか」
「おっと、怖い顔だ。私の名前は、化野幽」
女は悪びれもせず、ひらりと手を上げた。
「小説家としては、その名で通している。肩書きは色々あるけどね。学者で、新聞記者で……まあ、面白いものを書く人間だと思ってくれればいい」
「現場から出てください」
「おや」
「ここは、先ほど人が倒れた部屋です。原因不明の有害環境である可能性があります。加えて、状況証拠を保全する必要があります」
化野は瞬きをした。そして、愉快そうに笑みを深める。
「なるほど。要一くんが言っていた通りだ」
「相良さんが?」
「うん。後宮医局に行ったら、騒ぎの最中でねえ……ちょうど、そこで要一くんに会ったんだ。そうしたら、『現場に記録官がいるから手伝ってやってくれ』と言われたんだ」
「相良さんが……」
「それに、私は真壁とも顔なじみだよ。決して怪しい者ではない」
(怪しい者は、大抵そう言う)
記乃は心の中で呟いた。
だが、相良と真壁の名を出した。嘘であれば、すぐに露見する。少なくとも、完全な部外者ではないのだろう。
「……正確には、私は記録官ではありません。記録官補佐です」
「補佐?」
「はい」
「それでも後宮に居ながら、官付に出入りをしているんだろう?」
化野の声は軽かった。だが、言葉の先は鋭い。
記乃はわずかに目を細めた。
(軽薄そうに見えて、見るところは見ている)
「現場を荒らさないでください。私は脚立を取ってきます。そこから動かずに待っていてください」
「はいはい。動かないよ」
「本当に?」
「本当に」
化野は笑いながら両手を軽く上げた。
記乃は一度だけその姿を見てから、部屋を出た。
廊下にはまだ人が集まっていた。記乃が出てくると、女たちが一斉に身を引く。その視線には、先ほどまでとは違うものが混じっていた。
恐怖。好奇。そして、警戒。
(面倒なことになりそうだ)
記乃は足早に物置へ向かった。
脚立は奥にあった。やや重い。しかし運べないほどではない。両手で抱え上げると、木の角が腕に食い込んだ。
(痛い。でも、この程度なんてことはない)
廊下を戻る。部屋の前に来ると、襖は開けたままだった。中を見る。
化野幽と名乗った派手な女は、本当にその場から一歩も動いていなかった。
襖の近くに立ち、手を後ろで組んでいる。 畳の中央にも、文机にも、香炉にも近づいていない。
(最低限の知識はある)
記乃は少しだけ評価を改めた。
(新聞記者で学者という肩書きは、本物かもしれない)
もっとも、先ほどまでは疑っていた。装いがあまりに派手、かつ軽薄そうな振る舞いであったからだ。
(人を見た目で判断するのはよくない。よくないが、限度はある)
記乃は脚立を置いた。
「待っていてくださったのですね」
「言われたからね」
「現場保持の意味はご存じで」
「新聞記者だから」
「学者ではなく?」
「学者と言っても、私は民俗学者だからね。この場合は新聞記者として、が正確な肩書きだろうね。ま、どちらでもいいだろう? 役に立つなら」
化野は笑った。
記乃は返事をせず、脚立を換気口の下へ立てる。木が畳に沈む音がした。
そのとき、化野が部屋を見回しながら言った。
「しかし、呪われた部屋で人が死にかけるなんて、実に怪異だねえ」
記乃は脚立に片足をかけたまま、振り返った。
「いいえ」
声は静かだった。
「怪異など存在しません」
化野の目が、わずかに丸くなる。
「なんで、そう言い切れるのかな?」
「科学で説明できないものは信じない主義です」
一拍。
次の瞬間、化野は吹き出した。
「ぷっ……あはっ、あはは!」
笑い声が部屋に転がる。先ほどまでの重い空気の中で、それは場違いなほど明るかった。
「あはは、はっ、ははは! そっかあ。そうか、そうか。じゃあ、そうなんだろうね」
「なぜ笑うんですか」
「いや。うん。いい。とてもいいよ、君」
(よくわからない人だ)
記乃は眉をひそめた。
だが、構っている暇はない。脚立に登り、換気口へ手を伸ばす。格子の奥に指先を入れると、すぐに触れた。
紙。そして、布。
(やはり)
換気口の内側には、丸めた紙と布が押し込まれていた。空気の通り道を塞ぐように、きつく詰められている。
記乃は懐から手巾を取り出した。直接触れず、慎重に詰め物を引き出す。
ほこりが落ちた。鼻の奥がむず痒くなる。
「原因はこれか」
記乃は小さく呟いた。
取り出した紙と布を手巾に包み、結ぶ。
──換気口内、紙・布による閉塞。
──人為的に詰められた可能性高。
──証拠一、詰め物。
脚立の上で、片手で紙片に書く。化野が下から感心したように見上げていた。
「本当に、何かあるたびに書くんだね」
「記憶は変質します。記録は、少なくとも変質しにくい」
「いいねえ。記録官らしい」
「補佐です」
「そこ、こだわるんだ」
「事実なので」
記乃は脚立を降りた。
手巾に包んだ詰め物を確認する。布は古い。紙にはかすかに香の匂いが移っていた。
化野が顎に指を当てる。
「でも、本当にそれだけで人が意識不明にまでなるかなあ」
記乃の手が止まった。
(……それだけ)
確かに、換気口を塞げば室内の空気は悪くなる。だが、意識を失うほどとなると、条件が足りない可能性がある。
何かが、まだある。
記乃は部屋の中へ視線を巡らせた。
文机。畳。燭台。香炉。
香炉……
(灰が多い)
文机の上に置かれた香炉には、不自然なほど灰が残っていた。香を焚いたにしては量が多い。
しかも、色が違う。
白い灰の中に、黒い粒が混じっている。
記乃は香炉の前に膝をついた。
「触っていい?」
化野が言う。
「触らないでください」
「ああ。はいはい。ふふ、ふふふっ」
なにが面白いのか、化野はまた笑う。
記乃は別の手巾を取り出す。箸を使い、灰の中から黒い破片をつまみ上げた。
軽い。脆い。表面は炭化している。
(木炭……)
記乃は息を止めるようにして、それを手巾に置いた。
香だけではない。木炭が混じっている。
換気口を塞いだ部屋で、香炉に木炭を仕込む。 煙は少ないかもしれない。
だが、燃え方が不完全であれば──
(一酸化炭素)
目に見えない。匂いも分かりにくい。気づかないうちに、血が酸素を運べなくなる。
呪いより、よほど悪質だ。
記乃は手巾を結んだ。
──香炉内、木炭様破片。
──灰量、不自然に多い。
──換気閉塞と併せ、一酸化炭素中毒の可能性高。
──証拠二、木炭片。
手巾に包んだ証拠を二つ、持っていた風呂敷に入れる。端を結び、即席の手提げにした。
化野が楽しげに目を細める。
「さて。だれが、なんのためにやったのか。次はその解明だね」
記乃は風呂敷を持ち上げた。
「重々承知しています」
淡白な声だった。
窓の外から、風が入る。香の甘さと焦げた匂いが、少しずつ薄れていく。
呪われた部屋は、沈黙していた。
だが、その沈黙はもう、怪異のものではない。
人の手で作られた沈黙だった。




