第一話 記乃
火は、赤くて熱いものだと誰もが知っている。
それは知識としてではなく、経験として体に刻まれているものだ。触れれば痛み、近づけば熱を帯びる。疑う余地のない前提だ。
だからこそ──
その前提が崩れたとき、人はそれを〝異常〟と呼ぶ。
(……あの報告書、まだまとめきれていない)
結城記乃は、朝餉の後片付けをしながら、頭の中で昨晩の内容を反芻していた。
手は動いている。膳を重ね、器を下げ、布巾で拭う。動作は淀みなく、しかし思考は別の場所にある。
後宮の朝は静かだ。静けさは、水面のように張りつめている。ほんのわずかな音でも、波紋のように広がる。
(あの件は、記録として残すべきか……)
昨晩、直属の上司、記録官長である真壁のもとへ赴いたのは、定例の報告のためだった。
後宮内部の出来事を整理し、文書として残すことが彼女の役目だ。
だが、表向きは違う。
ただの下女──それも、更衣、つまり下位側室付きの雑用係。
女の立場で、補佐とはいえ官僚だなんて、風当たりが強くなる。世間体を考えれば、表向きの籍は後宮に置いておく方が都合がいいのだ。
(便利な設定だとは思うけど……妥当、とは言えない。さすがに扱いが雑すぎる)
自嘲が、喉の奥でわずかに転がる。
幼い頃から、そういう立場には慣れている。
記乃は、結城家の実子ではない。
遊郭のすぐ側に捨てられていたところを、結城家の当主である養父、密記に拾われた子供だ。
拾われたのは赤子のときのことだが、記憶がある。困ったような、悲しいような顔をした、今よりも若かった養父が、自分に手を伸ばしてくる光景。
雨の日だった。体温が冷えてゆく感覚を、数え十八歳になった今でも、はっきりと思い出せる。
(記憶力がよすぎるというのも、難儀な話だな)
心優しい養父は、きっと、ただただ放っておけなかったのだろう。雨に打たれる捨て子を。
その優しさに甘えて、本来いてはいけない場所にいる。幼いころからずっとそう感じていた。
だからこそ、ある日、口にした。
「ご迷惑をおかけしないよう、家を出て働きます」
まだ幼い声だった。それでも、決意は固かった。
養父は、少しだけ目を細めて、言った。
「それなら、たくさん勉強しなさい」
穏やかな声音だった。
「結城家の家業でもある文官を目指すといい」
そうして、養父は頭を撫でてくれた。
それからというもの、知りたいと言ったことへの勉強にかかる金、手間、時間、すべて惜しまず、養父は自分に投資してくれた。
それもまた申し訳がなかったが、勉強をすればいつの日か恩返しができると思い、必死に頑張ってきた。
(あのとき、ああ言われなかったら、私はどうしていただろう)
記乃は器を重ねながら、ふと考える。
あれから、私はひたすらに学んだ。
文字、歴史、語学、少しの薬学や医学……そして、当時としては異端に近い〝科学〟の知識。
火がなぜ燃えるのか、水はなぜ流れるのか、病というものは、どのように広がっていくのか。
答えを求めるほどに、世界は静かに輪郭を変えていった。
曖昧だったものが、因果で繋がる。
(理解できるものは、怖くない)
そう思っていた。ある時までは。
現実は、思っていたより単純だった。
女なんかが、官僚になれるはずがない。
誰も明言しなかった。だが、その現実は空気のように存在していた。
だれにどう否定されたわけでもない。最初から、選択肢にすら入っていない。
(……ああ、そういうことか)
気づいた瞬間、落胆はあった。だが、それは長く続かなかった。
知識は裏切らない。使い道は、あとから見つければいい。
だから、学び続けた。
結果として――今の場所にいる。
十六歳になった翌日。
「官付に勤められるぞ!」
養父は、そう言った。
軽い調子だった。
「うちの娘は学者よりずっと博識だから使えるはずだぞ〜、と自慢……いや、推薦してきたんだ。はっはっはっ」
その「話しておいた」の相手が、官付庁舎に勤める記録官長・真壁であることはすぐに知れた。
養父から推薦の話を聞かされた翌日、官付を訪れたのだ。
(あのときの顔、今でも覚えている)
真壁は、露骨に面倒そうな顔をしていた。
「……まあ、使えるならいい」
それだけだった。
期待もなければ、拒絶もない。ただの事実確認のような口調。だが、それでも充分だった。
勉強の日々が、報われたのだ。
記乃は、記録係として採用された。
正式な名目ではなく、あくまで「後宮の下女が文書整理を手伝っている」という形。
それでも、実際には記録官補佐として働いている。
気づけば、一年が過ぎていた。
(……多忙、という言葉では足りない)
膳を運び終え、最後の器を拭く。
そのとき――
ころり、と小さな音がした。
袖の中から、飴が落ちた。
琥珀色のそれは、朝の光を受けて、わずかに透けている。
(ああ、これ……)
昨晩、官付の執務室を訪れた帰り道、廊下の角を曲がったところで義兄である偵記に会った。
血は繋がっていない。だが、結城家の一員として共に育った相手だ。
彼は無言で近づき、記乃の手にそれを押しつけた。
それがこの飴だった。
「……?」
問いかける間もなく、
ぐしゃぐしゃ、と頭を撫でられた。
乱暴で、遠慮のない手つき。
(……相変わらず)
そのまま何も言わずに去っていった。
言葉は少ない。だが、あれが彼なりの気遣いであることは知っている。
不器用な優しさだ。
昔からこうなのだ。
今は亡き養母は、当たり前に私を酷く嫌っていたから、家の中の空気は手伝いの者達を含めて、最悪だった。
だから義兄は空気を読んで、表向きは私と仲の良いようには振る舞わなかったが、私の部屋にこっそり来ては、隠していたお菓子や玩具をくれたりと、言葉は足りないが、影での行動は妹を可愛がる兄そのものだった。
(あとで食べよう)
そう思い、袖にしまったのだった。
拾い上げようと手を伸ばす。
そのとき──
悲鳴が、廊下を裂いた。
音は鋭く、空気を震わせる。水面に投げ込まれた石のように、静寂を一瞬で崩す。
記乃は顔を上げた。
(……異常)
判断は速かった。
器をその場に置き、廊下へ出る。
人の流れができている。ざわめきが重なり、形を持たない不安が空間に満ちていた。
「どうしたんですか」
「人が……倒れて……!」
言葉は断片的だ。
群衆の中心に視線を向ける。
床に、一人の女が倒れていた。
動かない。どうやら意識がないらしい。
顔色は──
(蒼白。呼吸は……浅い)
距離がある。だが、それでも分かる。
ただの失神ではない。
空気が、どこか重い。
湿度ではない。温度でもない。
もっと、曖昧なもの。
(……この感じ、どこかで)
記乃は、無意識に息を浅くした。
胸の奥で、小さな違和感が芽を出す。
それはまだ、形にならない。
ただ──確かに、そこにあった。
異常は、すでに始まっている。




