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記録官の断章 〜解体される怪異〜  作者: 早河縁
第四章 新生篇
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第十九話 書類

 書類というものは、不思議な力を持っている。


 それは単なる紙切れではない。

 名前を書くだけで、人間同士の関係性を変えてしまう。

 判を押すだけで、昨日まで他人だった人間が、法の上では家族になる。


 しかし、本当に人を変えるのは、紙そのものではない。

 その紙へと辿り着くまでに積み重ねた時間の方だ。


 待ち続けた日々。

 触れたいのに触れなかった夜。

 言葉にしなくとも伝わっていた感情。


 そういうものが幾重にも重なった末、人間はようやく、一枚の紙へ名前を書く覚悟を持つのだろう。



──────────



 官付への正式初出勤から、一週間後のことだった。


 見事な秋晴れ。

 空は高く、風は乾いていて、長く続いた夏の湿気が、ようやく帝都の空気から抜け始めている。


 夕方。

 偵記と記乃は、婚姻届を提出した。

 保証人欄には、結城密記と化野幽、ふたりの名が並んでいる。


 記乃は、提出を終えたあと、役所の石段を降りながら、自分の指先を静かに見つめていた。

 妙に現実感が薄い。

 ただ、紙を出しただけだ。判を押しただけだ。

 なのに、自分はいま、正式に結城偵記の妻になった。

 その事実だけが、胸の内側へ、遅れてゆっくり沈んでいく。


 隣を歩く偵記は、普段と変わらない顔をしていた。

 だが、耳だけが少し赤い。

 記乃は、その横顔を見て、小さく口元を緩める。


「……なに笑ってんだ」

「いえ」

「絶対なんか思ってるだろ」

「偵記さんが、少しだけ照れているな、と」

「気のせいだ」

「いいえ」


 即答だった。


「耳が赤いですよ」

「……秋だからだ」

「便利な季節ですね」

「おまえ、最近ほんと遠慮なくなったな」

「夫婦ですので」


 その一言に、偵記が一瞬言葉を詰まらせる。

 記乃は平然としていた。

 だが、その平然さが逆に破壊力を持つことを、本人だけが理解していない。

 偵記は顔を覆い、小さく呻いた。


「……無自覚でんなこと言うのは、反則だろ」


 記乃は本気でわかっていない顔をしていた。



──────────



 新居への引っ越しが完全に終わったのは、その三日後のことだった。


 その翌日は、密記も偵記も記乃も、揃って休みを取っていた。

 化野もまた、「今日は絶対に仕事を入れない」と宣言していた。


 朝早く、一行は結城家と縁の深い神社へ向かう。

 一段一段、石段を登る。


 秋の神社は静かだった。

 赤く色づき始めた木々が風に揺れ、境内には、乾いた落ち葉の擦れる音が細く流れている。

 白木の鳥居。磨かれた石畳。張り詰めた冷たい空気。

 俗世から切り離されたような静けさが、そこにはあった。


 神前式は、厳粛に執り行われた。


 白無垢へ身を包んだ記乃は、長い廊下を静かに歩く。

 衣擦れの音が、やけに小さく聞こえる。

 隣には、黒紋付袴姿の偵記。

 いつもより口数が少ない。緊張しているのだろう。

 記乃自身も、心臓の鼓動が少し早い。


 神殿の奥には、榊と紙垂(しで)が揺れている。

 神職の低い祝詞(のりと)が響き、鈴の音が静かな空間を震わせる。

 三々九度。

 盃へ注がれた酒は透明で、神前の灯火を小さく映していた。


 記乃は、杯を持つ。

 指先が少し冷たい。震える。しかし、この震えは恐怖が起こしたものではなかった。

 これから先、自分はこの人と生きていく。

 その事実の重みが、静かに身体へ沈んでいるだけだ。


 誓詞奏上。


 偵記の声は低く、真っ直ぐだった。

 飾らない。けれど、嘘もない。


 昔から、この人はそうだった。

 不器用で、口が悪くて、愛想もない。

 それでも、一度決めたことだけは絶対に曲げない。


 ──だからこそ、私は、安心できるのだ。


 玉串奉奠。

 榊を捧げ、二礼二拍手一礼。

 乾いた柏手の音が、神殿へ静かに響いた。

 その瞬間、記乃は思う。


(……本当に)


 ここまで来たのだ、と。



──────────



 午後。

 新居となった偵記の邸宅で、宴が開かれる。


 広く作られた居間には、寿司の出前や洋風の盛り合わせ(オードブル)が並んでいる。

 海老の艶。酢飯の香り。肉料理から立つ湯気。


 さらに台所では、密記が腕まくりをして料理を作っていた。


「父上、今日は座っていてください」

「祝いの日くらい、好きに料理を作らせろ」


 密記は上機嫌だった。

 酒が進んでいる。

 化野が笑う。


「密記殿、完全に楽しくなっちゃってるねえ」

「そりゃあ、楽しくもなるだろう!」


 密記は豪快に笑った。


「娘の晴れの日だぞ!」

「戸籍上は、もう娘ではありませんが」

「そういう話をしてるんじゃあない!」


 即答だった。

 記乃は少しだけ目を瞬かせる。

 化野は、それを見て静かに笑っていた。

 使用人ふたりも、慣れないながら宴席を手伝っている。


 まだ若い夫婦。けれど、家は温かかった。

 人の気配がある。

 生活の匂いがする。

 それだけで、家というものは不思議と安心感を持ち始める。


 宴の途中、密記はすっかり酔っていた。

 酒盃を片手に、偵記へ向かって言う。


「どうだ?」

「なにがだ」

「美味いもんだろう? 勝ち取ったあとの酒は」


 偵記は少し黙った。

 そして、小さく頷く。


「ああ」


 本当に──


「美味い」


 それは、心からの言葉。


 いつか、父が言った言葉を反芻する。

 自分の手で勝ち取った後の酒は美味い、と。


 今日のこの一杯は、これまで飲んだどの酒よりも、美味く感じられた。


 長い時間をかけて。

 遠回りをして。

 人生、ぜんぶ賭けて──


 ようやく、ここまで来た。


 その実感が、酒の味を深くしている。



──────────



 今日ばかりは、記乃も少しだけ酒を飲んでいた。

 だが、あまり強くはなかったらしい。


 頬が赤く染まり、瞼も少し重そうだ。

 機嫌自体は普段と変わらないが、身体から力が抜けている。


「……熱いです」

「そりゃ、初めて飲んだからな」


 偵記が呆れたように水を渡す。

 記乃は素直に受け取った。


「酔いというものは、こんな感覚なんですね」

「分析する余裕はあるんだな」

「頭は冷静です」

「顔は全然冷静じゃねえ」


 記乃は、きょとんとした。

 密記が笑う。


「うーん。お開きにした方がよさそうだなあ」


 すると、化野が密記へそっと耳打ちする。


 密記は一瞬きょとんとしたあと、


「はっはっは!」


 と豪快に笑った。


「そうだそうだ! たしかになあ!」


 偵記が盛大にむせた。


「父上!!」

「なんだ。夫婦だろうが!」

「声がでけえ!」


 記乃だけが、なぜ周囲が騒がしくなったのか理解していない顔をしている。


 化野が肩を震わせながら笑っていた。

 やがて使用人たちも片付けを終え、帰宅する。


 偵記と記乃の邸宅は、少しずつ静けさを取り戻していった。


 日が沈むころには、記乃の酔いもかなり醒めていた。

 湯浴みを終えた偵記が、濡れた髪を拭きながら部屋へ戻ってくる。


「風呂、空いた」

「はい」


 記乃は立ち上がった。


 風呂は、化野邸で使っていたものと同じ、ガス式だった。

 湯気が立つ。

 熱い湯へ肩まで沈む。

 本来なら、酒が回る温度だと知識では理解している。


 それでも、頭は妙に冷静だった。

 やけに静かだった。

 まるで、大切な試験の前みたいに。


 湯気の向こうで、自分の呼吸音だけが聞こえる。


(……夫婦)


 その言葉が、何度も胸の中を往復していた。


 湯浴みを終えて、部屋へ戻る。

 同じ部屋。同じ布団。

 それだけなのに、いままでとはまるで違って見える。

 偵記も、どこか緊張していた。


 沈黙が落ちる。

 静かな夜だった。

 やがて、どちらからともなく、指先が触れ合う。

 記乃の指は、そのまま偵記の手へ絡め取られた。

 手を繋ぐ。


 熱を確かめるように。

 形を覚えるように。

 感触を知るように。


 長いあいだ、ふたりは無垢な関係を守り続けてきた。


 触れたかった。

 けれど、触れなかった。

 待っていたのだ、今日、この日を。

 ようやく夫婦として夜を迎えられる、この瞬間を。


 偵記が、小さく息を吐く。


「……情けねえ」

「なにがでしょう」

「緊張してんだよ」

「なら、私も情けないですね」

「……おまえもか」

「当然です」


 記乃は真面目に答えた。


「ですが」

「ん?」

「ずっと、この日を待っていました」


 偵記は、少しだけ笑った。


「……ああ」


 灯りが落ちる。

 夜が深くなる。


 秋虫の声が、遠くで細く、鳴いていた。



──────────



 真夜中。


 すべてが終わったあと。

 一糸まとわぬまま、ふたりは静かに向かい合っていた。


 汗ばんだ肌へ、夜気が薄く触れている。

 障子の向こうでは、月明かりが淡く庭を照らしていた。


 偵記は黙っていた。

 そして、言葉もなく、静かに涙を流す。


 記乃は目を瞬かせる。


 生まれて初めて、このひとの涙を見た。


「……偵記さん?」


 心配になって声をかける。

 だが、次の瞬間、理解する。


(……ああ)


 無理もない涙なのだ、と。


 長かった。

 本当に、長かった。


 兄妹として生き。

 血縁を疑い。

 戸籍を変え。

 遠回りをして。

 不安に怯えて。


 それでも、ようやくここまで辿り着いた。


 偵記は、声を出さなかった。

 ただ静かに涙を流している。


 記乃は、その背中へそっと寄り添った。

 体温が触れる。

 偵記は、小さく息を震わせた。


「……悪い」

「なにがですか」

「泣くつもりじゃ、なかった」

「そういう日では?」


 記乃は静かに言った。


「今日は、たくさん泣いても許される日だと思います」


 偵記は、小さく笑った。

 その声は、まだ涙混じりだった。


 記乃は、背中へ額を寄せる。

 温かかった。

 生きている人間の熱だった。


 明日は、任命式当日。

 記乃は正式に記録官となる。


 けれど今だけは、官僚でも、記録官でもない。


 ここにいるふたりは、ただの夫婦だ。


 長い時間を越えて、ようやく同じ夜を迎えられた、ふたりの人間だった。

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