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記録官の断章 〜解体される怪異〜  作者: 早河縁
第四章 新生篇
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第二十話 誕生

 名前を得ること。

 役割を得ること。

 許されなかった場所へ、初めて正式に立つこと。


 〝誕生〟という言葉には、たくさんの定義が存在する。


 人間は、生まれた瞬間から何者かであるわけではない。

 誰かに名を呼ばれ、誰かに認められ、自分の足で立つ場所を選び、その場所へ立ち続けることで、ようやく〝何者か〟になっていく。


 ならば今日、化野記乃は、もう一度生まれるのだ。


 捨て子でもなく。

 下働きでもなく。

 記録官補佐でもなく。

 正式な、ひとりの官僚として。



──────────



 官付に備わっている洋式の大広間には、朝から張り詰めた空気が満ちていた。


 磨かれた木製の床には窓から入る光が白く落ち、壁際には整然と椅子が並べられている。

 普段は実務のために紙と足音と報告で満たされているこの場所も、この日ばかりは、記念すべき式典のために整えられていた。


 壇上には、官付の長である久世恒一が立っている。


 その傍らには三浦伊織。

 さらに後方には、真壁孝二郎、相良要一、そして官付の上役たちが並んでいた。

 この場に集まった人間の多くは、今日という日が単なる任命式ではないことを理解している。


 女性にも官僚となる権利を認める法案が可決され、これまでに特例とされる人物がひとりだけいたとはいえ、記念すべき女性官僚の第一号として、化野記乃が正式に任命される。


 それは制度上の出来事であると同時に、この国の空気が変わり始めたことを示す、ひとつの象徴だった。


 広間の扉が開く。

 化野記乃が入ってくる。

 パンツ姿の官服を纏ったその姿は、想像以上に馴染んでいた。

 女であることを誇張するための飾りはない。

 かといって、男に寄せた不自然さもない。

 そこにあるのは、ただ、官僚として職務に臨む人間の服だった。


 背筋は、しゃんと伸びている。

 足取りは静かで、乱れがない。

 けれど、その胸の内側には、普段よりずっと大きな熱があった。


(ついに、ここまで来たんだ)


 記乃は、壇上へ向かって歩く。

 紙と墨の匂い。

 磨かれた床。

 こちらを見る多くの視線。

 それらすべてを、ひとつずつ受け止めながら進む。


 かつて、この場所に出入りしていたころ、自分は正式な官僚ではなかった。


 後宮の下働き。

 記録官補佐。

 曖昧で、例外的で、制度の外側にいる存在。

 だが、いまは違う。


 自分は、戻ってきたのだ。

 記録官の〝化野記乃〟として。


 壇上へのぼり、久世の前へと立つ。

 久世は、静かに辞令を手に取った。


「化野記乃」

「はい」


 記乃は、まっすぐ返事をする。

 久世の声が、大広間へ響いた。


「本日付をもって、官付記録官の任を命ずる」


 短い言葉だった。

 だが、その言葉の奥には、二年分の時間と、制度を動かした人間たちの労苦と、記乃自身が積み重ねてきたすべてが入っていた。


 記乃は、両手で辞令を受け取る。

 紙の重みは、想像よりも軽い。

 けれど、軽いからこそ、そこへ載っている意味が恐ろしく重かった。


「謹んで、お役目を拝命いたします」


 頭を下げる。

 久世は、その姿を見つめていた。

 ほんの一瞬だけ、彼の表情から、官付の長としての仮面が薄くなる。


 そして、周囲には聞こえないほど低い声で言った。


「……おかえり」


 記乃は、その声に気づいた。

 胸の奥が、静かに揺れる。

 顔を上げ、壇上を去る直前に、一瞬だけ振り返った。


 久世を見る。

 そして、微笑みながら、静かに会釈をした。


 その微笑みは、恋慕に応えるものではない。

 けれど、感謝と信頼は確かにあった。

 久世は、それだけで充分だと思った。


 否──

 充分だと思えるようになった、の方が正しい。


 記乃が壇上を降りる。

 拍手が起こる。


 はじめはまばらに。

 しかしやがて、広間全体へと広がっていく。


 これは、記録されるべき瞬間だった。

 この国に、初の女性官僚が誕生したのだから。



──────────



 式典の後には、洋式の会食(パーティー)が用意されていた。


 官付の一角にある大広間は、式典の厳粛さから一転し、欧米式の会食会場へと姿を変えていた。

 長卓には、肉料理、魚料理、焼き菓子、果物、軽食、酒類が並び、給仕たちは慣れない様子ながらも忙しく立ち回っている。


 記乃は、グラスを片手に会場を見回した。


(……立ったまま食事をするのは、やはり少し、行儀が悪い気がする)


 率直にそう思った。


 けれど、これも今後必要になる経験なのだろう。

 欧米化が進む昨今、官僚として外交的な場へ出ることもあるかもしれない。


 ならば、慣れておくべきだ。

 そう理屈をつけ、記乃は背筋を伸ばした。


「化野殿」


 声をかけられる。

 振り返ると、年配の官僚が立っていた。


「本日は、まことにおめでとうございます」

「ありがとうございます」

「いやあ、実に歴史的な日だ。今後の働きにも期待しておりますよ」

「職責を果たせるよう、努めます」


 そのあとも、何度も声をかけられた。


「化野さん」

「化野殿」

「記録官」


 呼ばれるたびに、記乃は少しだけ不思議な感覚を覚えた。


 ──化野。

 自分で背負うと決めた姓。

 化野幽の娘として過ごした時間を、捨てないための名。

 たとえいまは戸籍上は結城へ戻っていたとしても、職場ではこの名を名乗ると決めた。


 だからこそ、堂々としていなければならない。

 自分は、いま間違いなく、化野記乃なのだから。


 それでも、慣れないものは慣れない。

 多くの人間に囲まれ、祝われ、注目されるという経験は、記乃にとって決して得意なものではなかった。

 祝福も、期待も、好奇も、猜疑も。

 それらの視線が混ざり合い、会場の空気の中で見えない煙のように漂っている。


 記乃は、少しだけ人酔いしていた。

 壁際へ移動し、柱の陰に身を寄せる。

 少しだけ休もう。

 そう思ったときだった。


「化野記録官」


 声がした。

 記乃は顔を上げる。

 そこには、中年の男が立っていた。


 官僚であることは間違いなさそうだった。

 服装は整っており、胸には役職を示す章がある。

 だが、その目つきが嫌だった。

 祝福でも、尊敬でもない。

 獲物を値踏みするような視線。


「いやあ、実にお若い。女だてらに官僚とは、なんとも、時代も変わりましたなあ」

「ありがとうございます」


 記乃は礼儀として返した。

 男は一歩近づく。


「しかし、こういう場は慣れませんでしょう。私が少し、教えて差し上げましょうか」

「お気遣いなく」

「遠慮なさらず」


 男の手が、記乃の腕へ触れた。

 記乃は、一瞬動けなかった。


 払えばいい。

 理屈の上では分かっている。

 だが、相手は中年の官僚であり、自分は法案可決後初の女性官僚という、強いようでいて、まだ曖昧さの残る立場だった。


 この場で騒ぎ立てれば、女は扱いづらいと言われるのではないか。

 過剰反応だと見なされるのではないか。


 そういう判断が、ほんの一瞬、手を鈍らせた。


(助けを呼ぶべきか)


 誰を?

 どうやって?


 視線だけで周囲を探る。


 そのときだった。


「そこでなにをしている?」


 冷たい声が落ちた。


 声の主は、久世だった。

 男の手が止まる。

 記乃も顔を上げる。

 久世は、静かにこちらへ歩いてきていた。


 その表情は穏やかに見える。

 けれど、その声には、明確な怒気が含まれていた。


「もう一度聞く」


 久世は、男を真っ直ぐ見た。


「だれに、どのような許可を得て、だれに、なにをしているんだ?」


 会場の空気が、そこだけ急に冷えた。

 男の顔色が変わる。


「い、いえ、私はただ」

「ただ?」

「化野記録官が、慣れない様子でしたので」

「腕を取る必要があるのか」

「それは、その」

「答えろ」


 短い言葉。

 それだけで、男は完全に黙った。

 久世は続ける。


「この場は、記念すべき初の女性官僚の誕生を、祝う席なのだ」


 声音は抑えられている。

 だが、怒りは消えていない。


「その主役へ、不用意に触れることが、どういう意味を持つか分からないほど、お前は愚鈍なのだろうか?」


 男は、深く頭を下げた。


「申し訳ございません」

「謝る相手が違う」


 男は、記乃へ向き直る。


「……大変失礼いたしました」


 記乃は、静かに答える。


「以後、お気をつけください」


 男は逃げるように去っていった。

 久世は、その背中を見送ってから、記乃へ向き直る。


「大丈夫か」

「はい」

「間に合ったか?」

「間に合っています。ありがとうございました」


 記乃は頭を下げる。

 そして、そのまま場を離れようとした。

 だが、久世が思わず、記乃の手首を掴んだ。

 記乃は足を止める。


「? ……どうかしましたか?」

「いや、その……」


 久世は言葉に詰まった。

 掴んでから、自分でも驚いたのだ。


 今さら、なにをするつもりだったのか?


 引き止める資格などない。

 その手首は、もう自分が掴んでいいものではない。

 いや、そもそも最初から、自分のものだったことなど一度もない。


 そこへ、低い声が飛んできた。


「記乃」


 偵記だった。

 会場から姿を消した記乃を探していたのだろう。

 こちらへ歩いてくる足取りは速い。

 その目は、まず記乃を見て、次に久世の手元を見た。


 久世は、すぐに記乃の腕を離した。

 そして、両手を軽く挙げる。


「私〝は〟なにもしていない」


 偵記は一瞬だけ目を細めた。

 しかし、久世を疑っている顔ではなかった。

 むしろ、何かあったことを察した顔だった。


「……世話をかけました」

「いや」


 短いやり取り。

 偵記は記乃の手を取る。


「行くぞ」

「はい」


 記乃は素直に頷いた。

 そのまま、ふたりは会場の明るい方へ戻っていく。


 久世は、しばらくその背中を見ていた。

 ため息が漏れる。

 未練が、完全に消えたわけではない。

 今日、彼女の手首を掴んだ瞬間、それは嫌というほど分かった。


 それでも──

 好いた女は、別の男の妻となった。

 戸籍上の名前が先日変わったことも、小耳に挟んでいる。


 結城記乃。

 けれど、職場では化野記乃。


 その選択すら、彼女らしい。

 泣くほどではない。

 涙が滲むわけでもない。

 だが、泣いてしまいたい気分ではあった。


「だから」


 背後から、静かな声がした。

 三浦だった。


「お気に入りのおもちゃなら、手元に置いておけと申し上げましたのに」


 久世は、少しだけ苦く笑う。


「おもちゃなんかじゃない」


 声が低くなる。


「そんなものより、ずっと──」


 そこで、言葉を止めた。

 口にしてはいけない。


 既婚者へ言い寄るような愚か者にはなりたくない。


 自分は、先ほどの男と同じ場所へ堕ちるわけにはいかない。

 三浦は、それ以上なにも言わなかった。

 ただ、静かに久世の横へ立つ。


 久世は、遠くに見える記乃と偵記の背中を見つめた。


「……世界は変えられたのにな」


 ぽつりと呟く。


「人の心だけは、どうにもならない」


 三浦は、穏やかに答えた。


「だからこそ、人間なのでしょう」


 久世は笑った。


「痛いものだな」

「ええ」

「だが、悪くはない」


 そう言った声は、少しだけ晴れていた。



──────────



 それからというもの、会食の間、記乃の隣にはずっと偵記がいた。

 少し離れたとえ、すぐに戻ってくる。

 視線を外しているようで、記乃の周囲だけは決して見落とさない。


 記乃は、それに気づいていた。


「偵記さん」

「なんだ」

「ずっと隣にいますね」

「悪いか」

「悪くはありません」

「ならいい」


 偵記は短く言った。

 そこには、独占欲もある。

 心配もある。

 そして、愛しい人が、だれにも連れていかれないようにという、少し子どもじみた祈りもあった。


 犬につけるような首輪なんて、必要ない。

 所有を示すための派手な言葉もいらない。

 ただ、ときどき手を繋いでやれば充分だ。

 もっとも、本当は、記乃が自分のもとを離れる心配などしなくていい。

 それは、偵記も理解している。


 だが、理解していることと、不安にならないことは別だった。

 だから偵記は、記乃の手を取る。

 記乃も、当然のように握り返す。

 その自然さに、偵記は救われていた。


 会食は、日付が変わる少し前まで続いた。

 多くの人間が、記乃に祝辞を述べた。

 期待を向けた。

 観察した。

 値踏みした。


 それらすべてを受け止めながら、記乃は最後まで姿勢を崩さなかった。



──────────



 帰りの馬車の中。

 夜の帝都は静かだった。


 車輪が石畳を叩く音が、一定の間隔で響いている。

 窓の外には、街灯の光が流れ、暗い空には薄く雲がかかっていた。


 記乃は、隣に座る偵記の手を握ったまま、静かに考えていた。


 これまでの自分。

 これからの自分。

 その差異について。

 後宮の下働きだった自分。

 記録官補佐だった自分。

 結城家を出て、化野の娘となった自分。

 怪異を解体し、地方を歩き、平穏を覚えた自分。

 妻となった自分。

 そして、今日から正式に記録官となった自分。


 どれもこれも、自分だ。

 どれかひとつが本物で、どれかひとつが偽物というわけではない。

 ぜんぶ、自分なのだ。


 すべての時間が重なって、いまの化野記乃がいる。


 これからの自分は、ひと味違う。

 法案可決後初の女性官僚。

 その肩書きは、きっと長くついて回るだろう。


 好奇の目も、反発も、期待も、嫉妬も、すべて浴びることになる。

 失敗すれば、女だから駄目なのだと言われる。

 成功すれば、例外だからと言われるかもしれない。


 それでも──


(邁進するしかない)


 記乃は静かに結論づけた。

 この肩書きを汚さないように。

 後に続く誰かが、自分より少しでも歩きやすくなるように。


 記録官として、事実を残す。

 官僚として、国に仕える。

 ひとりの人間として、自分の人生を選び続ける。


 そのすべてを、やる。


 偵記が、隣で小さく言った。


「疲れたか」

「少しだけ」

「帰ったら寝ろ」

「はい」


 記乃は頷く。

 そして、ふと微笑んだ。


「でも、よい日でした」


 偵記は、少しだけ目を細める。


「ああ」


 馬車は、夜道を進んでいく。

 遠くに、先日引っ越したばかりの、新居の灯りが見え始める。


 帰る場所がある。

 待つ仕事がある。

 隣には、共に生きる人がいる。

 その事実が、記乃の胸へ静かに落ちていく。


 終わりとは、なにも人生の終点を表す言葉ではない。

 むしろ、ようやく始まりの場所へ立ったものに対しても使える言葉である。


 長い長い前置きを終えて、化野記乃という記録官は、ここから本当の意味で歩き出す。

 夜風が馬車の窓を淡く撫でた。


 記乃は、握った手へ少しだけ力を込める。

 偵記も、黙って握り返した。

 その温度を確かめながら、記乃は静かに目を伏せる。


 世界は変わった。

 自分も変わった。

 けれど、記録すべきものは変わらない。


 事実と人間。

 そして、そのあいだに生まれる、言葉にならないもの。


 化野記乃は、それを記録するために生まれた。


 今日、ようやく。


 この国の〝記録官〟として。

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