第二十話 誕生
名前を得ること。
役割を得ること。
許されなかった場所へ、初めて正式に立つこと。
〝誕生〟という言葉には、たくさんの定義が存在する。
人間は、生まれた瞬間から何者かであるわけではない。
誰かに名を呼ばれ、誰かに認められ、自分の足で立つ場所を選び、その場所へ立ち続けることで、ようやく〝何者か〟になっていく。
ならば今日、化野記乃は、もう一度生まれるのだ。
捨て子でもなく。
下働きでもなく。
記録官補佐でもなく。
正式な、ひとりの官僚として。
──────────
官付に備わっている洋式の大広間には、朝から張り詰めた空気が満ちていた。
磨かれた木製の床には窓から入る光が白く落ち、壁際には整然と椅子が並べられている。
普段は実務のために紙と足音と報告で満たされているこの場所も、この日ばかりは、記念すべき式典のために整えられていた。
壇上には、官付の長である久世恒一が立っている。
その傍らには三浦伊織。
さらに後方には、真壁孝二郎、相良要一、そして官付の上役たちが並んでいた。
この場に集まった人間の多くは、今日という日が単なる任命式ではないことを理解している。
女性にも官僚となる権利を認める法案が可決され、これまでに特例とされる人物がひとりだけいたとはいえ、記念すべき女性官僚の第一号として、化野記乃が正式に任命される。
それは制度上の出来事であると同時に、この国の空気が変わり始めたことを示す、ひとつの象徴だった。
広間の扉が開く。
化野記乃が入ってくる。
パンツ姿の官服を纏ったその姿は、想像以上に馴染んでいた。
女であることを誇張するための飾りはない。
かといって、男に寄せた不自然さもない。
そこにあるのは、ただ、官僚として職務に臨む人間の服だった。
背筋は、しゃんと伸びている。
足取りは静かで、乱れがない。
けれど、その胸の内側には、普段よりずっと大きな熱があった。
(ついに、ここまで来たんだ)
記乃は、壇上へ向かって歩く。
紙と墨の匂い。
磨かれた床。
こちらを見る多くの視線。
それらすべてを、ひとつずつ受け止めながら進む。
かつて、この場所に出入りしていたころ、自分は正式な官僚ではなかった。
後宮の下働き。
記録官補佐。
曖昧で、例外的で、制度の外側にいる存在。
だが、いまは違う。
自分は、戻ってきたのだ。
記録官の〝化野記乃〟として。
壇上へのぼり、久世の前へと立つ。
久世は、静かに辞令を手に取った。
「化野記乃」
「はい」
記乃は、まっすぐ返事をする。
久世の声が、大広間へ響いた。
「本日付をもって、官付記録官の任を命ずる」
短い言葉だった。
だが、その言葉の奥には、二年分の時間と、制度を動かした人間たちの労苦と、記乃自身が積み重ねてきたすべてが入っていた。
記乃は、両手で辞令を受け取る。
紙の重みは、想像よりも軽い。
けれど、軽いからこそ、そこへ載っている意味が恐ろしく重かった。
「謹んで、お役目を拝命いたします」
頭を下げる。
久世は、その姿を見つめていた。
ほんの一瞬だけ、彼の表情から、官付の長としての仮面が薄くなる。
そして、周囲には聞こえないほど低い声で言った。
「……おかえり」
記乃は、その声に気づいた。
胸の奥が、静かに揺れる。
顔を上げ、壇上を去る直前に、一瞬だけ振り返った。
久世を見る。
そして、微笑みながら、静かに会釈をした。
その微笑みは、恋慕に応えるものではない。
けれど、感謝と信頼は確かにあった。
久世は、それだけで充分だと思った。
否──
充分だと思えるようになった、の方が正しい。
記乃が壇上を降りる。
拍手が起こる。
はじめはまばらに。
しかしやがて、広間全体へと広がっていく。
これは、記録されるべき瞬間だった。
この国に、初の女性官僚が誕生したのだから。
──────────
式典の後には、洋式の会食が用意されていた。
官付の一角にある大広間は、式典の厳粛さから一転し、欧米式の会食会場へと姿を変えていた。
長卓には、肉料理、魚料理、焼き菓子、果物、軽食、酒類が並び、給仕たちは慣れない様子ながらも忙しく立ち回っている。
記乃は、グラスを片手に会場を見回した。
(……立ったまま食事をするのは、やはり少し、行儀が悪い気がする)
率直にそう思った。
けれど、これも今後必要になる経験なのだろう。
欧米化が進む昨今、官僚として外交的な場へ出ることもあるかもしれない。
ならば、慣れておくべきだ。
そう理屈をつけ、記乃は背筋を伸ばした。
「化野殿」
声をかけられる。
振り返ると、年配の官僚が立っていた。
「本日は、まことにおめでとうございます」
「ありがとうございます」
「いやあ、実に歴史的な日だ。今後の働きにも期待しておりますよ」
「職責を果たせるよう、努めます」
そのあとも、何度も声をかけられた。
「化野さん」
「化野殿」
「記録官」
呼ばれるたびに、記乃は少しだけ不思議な感覚を覚えた。
──化野。
自分で背負うと決めた姓。
化野幽の娘として過ごした時間を、捨てないための名。
たとえいまは戸籍上は結城へ戻っていたとしても、職場ではこの名を名乗ると決めた。
だからこそ、堂々としていなければならない。
自分は、いま間違いなく、化野記乃なのだから。
それでも、慣れないものは慣れない。
多くの人間に囲まれ、祝われ、注目されるという経験は、記乃にとって決して得意なものではなかった。
祝福も、期待も、好奇も、猜疑も。
それらの視線が混ざり合い、会場の空気の中で見えない煙のように漂っている。
記乃は、少しだけ人酔いしていた。
壁際へ移動し、柱の陰に身を寄せる。
少しだけ休もう。
そう思ったときだった。
「化野記録官」
声がした。
記乃は顔を上げる。
そこには、中年の男が立っていた。
官僚であることは間違いなさそうだった。
服装は整っており、胸には役職を示す章がある。
だが、その目つきが嫌だった。
祝福でも、尊敬でもない。
獲物を値踏みするような視線。
「いやあ、実にお若い。女だてらに官僚とは、なんとも、時代も変わりましたなあ」
「ありがとうございます」
記乃は礼儀として返した。
男は一歩近づく。
「しかし、こういう場は慣れませんでしょう。私が少し、教えて差し上げましょうか」
「お気遣いなく」
「遠慮なさらず」
男の手が、記乃の腕へ触れた。
記乃は、一瞬動けなかった。
払えばいい。
理屈の上では分かっている。
だが、相手は中年の官僚であり、自分は法案可決後初の女性官僚という、強いようでいて、まだ曖昧さの残る立場だった。
この場で騒ぎ立てれば、女は扱いづらいと言われるのではないか。
過剰反応だと見なされるのではないか。
そういう判断が、ほんの一瞬、手を鈍らせた。
(助けを呼ぶべきか)
誰を?
どうやって?
視線だけで周囲を探る。
そのときだった。
「そこでなにをしている?」
冷たい声が落ちた。
声の主は、久世だった。
男の手が止まる。
記乃も顔を上げる。
久世は、静かにこちらへ歩いてきていた。
その表情は穏やかに見える。
けれど、その声には、明確な怒気が含まれていた。
「もう一度聞く」
久世は、男を真っ直ぐ見た。
「だれに、どのような許可を得て、だれに、なにをしているんだ?」
会場の空気が、そこだけ急に冷えた。
男の顔色が変わる。
「い、いえ、私はただ」
「ただ?」
「化野記録官が、慣れない様子でしたので」
「腕を取る必要があるのか」
「それは、その」
「答えろ」
短い言葉。
それだけで、男は完全に黙った。
久世は続ける。
「この場は、記念すべき初の女性官僚の誕生を、祝う席なのだ」
声音は抑えられている。
だが、怒りは消えていない。
「その主役へ、不用意に触れることが、どういう意味を持つか分からないほど、お前は愚鈍なのだろうか?」
男は、深く頭を下げた。
「申し訳ございません」
「謝る相手が違う」
男は、記乃へ向き直る。
「……大変失礼いたしました」
記乃は、静かに答える。
「以後、お気をつけください」
男は逃げるように去っていった。
久世は、その背中を見送ってから、記乃へ向き直る。
「大丈夫か」
「はい」
「間に合ったか?」
「間に合っています。ありがとうございました」
記乃は頭を下げる。
そして、そのまま場を離れようとした。
だが、久世が思わず、記乃の手首を掴んだ。
記乃は足を止める。
「? ……どうかしましたか?」
「いや、その……」
久世は言葉に詰まった。
掴んでから、自分でも驚いたのだ。
今さら、なにをするつもりだったのか?
引き止める資格などない。
その手首は、もう自分が掴んでいいものではない。
いや、そもそも最初から、自分のものだったことなど一度もない。
そこへ、低い声が飛んできた。
「記乃」
偵記だった。
会場から姿を消した記乃を探していたのだろう。
こちらへ歩いてくる足取りは速い。
その目は、まず記乃を見て、次に久世の手元を見た。
久世は、すぐに記乃の腕を離した。
そして、両手を軽く挙げる。
「私〝は〟なにもしていない」
偵記は一瞬だけ目を細めた。
しかし、久世を疑っている顔ではなかった。
むしろ、何かあったことを察した顔だった。
「……世話をかけました」
「いや」
短いやり取り。
偵記は記乃の手を取る。
「行くぞ」
「はい」
記乃は素直に頷いた。
そのまま、ふたりは会場の明るい方へ戻っていく。
久世は、しばらくその背中を見ていた。
ため息が漏れる。
未練が、完全に消えたわけではない。
今日、彼女の手首を掴んだ瞬間、それは嫌というほど分かった。
それでも──
好いた女は、別の男の妻となった。
戸籍上の名前が先日変わったことも、小耳に挟んでいる。
結城記乃。
けれど、職場では化野記乃。
その選択すら、彼女らしい。
泣くほどではない。
涙が滲むわけでもない。
だが、泣いてしまいたい気分ではあった。
「だから」
背後から、静かな声がした。
三浦だった。
「お気に入りのおもちゃなら、手元に置いておけと申し上げましたのに」
久世は、少しだけ苦く笑う。
「おもちゃなんかじゃない」
声が低くなる。
「そんなものより、ずっと──」
そこで、言葉を止めた。
口にしてはいけない。
既婚者へ言い寄るような愚か者にはなりたくない。
自分は、先ほどの男と同じ場所へ堕ちるわけにはいかない。
三浦は、それ以上なにも言わなかった。
ただ、静かに久世の横へ立つ。
久世は、遠くに見える記乃と偵記の背中を見つめた。
「……世界は変えられたのにな」
ぽつりと呟く。
「人の心だけは、どうにもならない」
三浦は、穏やかに答えた。
「だからこそ、人間なのでしょう」
久世は笑った。
「痛いものだな」
「ええ」
「だが、悪くはない」
そう言った声は、少しだけ晴れていた。
──────────
それからというもの、会食の間、記乃の隣にはずっと偵記がいた。
少し離れたとえ、すぐに戻ってくる。
視線を外しているようで、記乃の周囲だけは決して見落とさない。
記乃は、それに気づいていた。
「偵記さん」
「なんだ」
「ずっと隣にいますね」
「悪いか」
「悪くはありません」
「ならいい」
偵記は短く言った。
そこには、独占欲もある。
心配もある。
そして、愛しい人が、だれにも連れていかれないようにという、少し子どもじみた祈りもあった。
犬につけるような首輪なんて、必要ない。
所有を示すための派手な言葉もいらない。
ただ、ときどき手を繋いでやれば充分だ。
もっとも、本当は、記乃が自分のもとを離れる心配などしなくていい。
それは、偵記も理解している。
だが、理解していることと、不安にならないことは別だった。
だから偵記は、記乃の手を取る。
記乃も、当然のように握り返す。
その自然さに、偵記は救われていた。
会食は、日付が変わる少し前まで続いた。
多くの人間が、記乃に祝辞を述べた。
期待を向けた。
観察した。
値踏みした。
それらすべてを受け止めながら、記乃は最後まで姿勢を崩さなかった。
──────────
帰りの馬車の中。
夜の帝都は静かだった。
車輪が石畳を叩く音が、一定の間隔で響いている。
窓の外には、街灯の光が流れ、暗い空には薄く雲がかかっていた。
記乃は、隣に座る偵記の手を握ったまま、静かに考えていた。
これまでの自分。
これからの自分。
その差異について。
後宮の下働きだった自分。
記録官補佐だった自分。
結城家を出て、化野の娘となった自分。
怪異を解体し、地方を歩き、平穏を覚えた自分。
妻となった自分。
そして、今日から正式に記録官となった自分。
どれもこれも、自分だ。
どれかひとつが本物で、どれかひとつが偽物というわけではない。
ぜんぶ、自分なのだ。
すべての時間が重なって、いまの化野記乃がいる。
これからの自分は、ひと味違う。
法案可決後初の女性官僚。
その肩書きは、きっと長くついて回るだろう。
好奇の目も、反発も、期待も、嫉妬も、すべて浴びることになる。
失敗すれば、女だから駄目なのだと言われる。
成功すれば、例外だからと言われるかもしれない。
それでも──
(邁進するしかない)
記乃は静かに結論づけた。
この肩書きを汚さないように。
後に続く誰かが、自分より少しでも歩きやすくなるように。
記録官として、事実を残す。
官僚として、国に仕える。
ひとりの人間として、自分の人生を選び続ける。
そのすべてを、やる。
偵記が、隣で小さく言った。
「疲れたか」
「少しだけ」
「帰ったら寝ろ」
「はい」
記乃は頷く。
そして、ふと微笑んだ。
「でも、よい日でした」
偵記は、少しだけ目を細める。
「ああ」
馬車は、夜道を進んでいく。
遠くに、先日引っ越したばかりの、新居の灯りが見え始める。
帰る場所がある。
待つ仕事がある。
隣には、共に生きる人がいる。
その事実が、記乃の胸へ静かに落ちていく。
終わりとは、なにも人生の終点を表す言葉ではない。
むしろ、ようやく始まりの場所へ立ったものに対しても使える言葉である。
長い長い前置きを終えて、化野記乃という記録官は、ここから本当の意味で歩き出す。
夜風が馬車の窓を淡く撫でた。
記乃は、握った手へ少しだけ力を込める。
偵記も、黙って握り返した。
その温度を確かめながら、記乃は静かに目を伏せる。
世界は変わった。
自分も変わった。
けれど、記録すべきものは変わらない。
事実と人間。
そして、そのあいだに生まれる、言葉にならないもの。
化野記乃は、それを記録するために生まれた。
今日、ようやく。
この国の〝記録官〟として。




